手遅れの運命的出会い

田辺屋敷

第1話

 受験生が最後の追い込みを掛ける冬休み。

 その日は昼から予備校で冬期講習が催されており、僕もそれに参加する予定となっていた。

 しかし。

「はい。では、そういうことでお願いします」

 伝えるべきことを伝え、僕は携帯電話による通話を終えた。相手は予備校の講師。今日は家庭の事情で休むと伝えたところ、受講生本人からの電話ということもあって疑われたが、僕はそれを察しつつ強引に押し通した。

 もう、どうなってもいいと思っていた。

 どうせ誰も僕に期待などしていないし、今さらに疑われて下がるような評価もないし、もはや頑張ってどうにもならないから、だからどうなってもいいと思っていた。

 なにはともあれ一仕事を終えたとため息をつき、僕は目の前に聳える建物を見上げた。通っている予備校が入った雑居ビル。数分前まで、僕は休むかどうかを悩んでいた。しかし決心はつき、先ほどの行動に出た。だから僕はこの場を離れる。

 さて、これからどうしようか。

 予備校をサボったのは、今日が初めてだった。それだけにこの後の行動についてはまったくの白紙。適当に時間を潰せる場所でもあれば良いのだが。

 このとき、僕の頭の中に『帰宅する』という選択肢は無かった。

 それは今朝のことだった。

 僕は一睡も出来ずに夜を明かした。ひたすらに自室の天井をじっと見上げて過ごしていたのだ。頭の中では様々な感情が渦巻き、思考がまとまらない始末。なにせ、抱えていた感情の全てが負の要素が占めていたからだ。

 ふと僕は喉の渇きを覚え、キッチンへと向かった。冷蔵庫を開け、麦茶を取り出してグラスに注いで喉へと流し込む。相当に乾いていたのか、喉が気持ちよさそうにごくりと鳴る。

 その瞬間だった。

 不意に笑い声が聞こえた。僕はびくりと肩を浮かせ、そちらへと振り返る。リビングに設置されたテレビの中で笑いが起こっていた。そんな様子を前に両親はくすりとも笑わない。父はソファーで、母はダイニングキッチンで、それぞれに沈黙。その原因が自分にあると理解していたので、僕は居心地の悪さを覚えてすごすごと自室に戻っていく。そしてドアノブに手を掛けたところで、何気なしに隣の妹の部屋を覗いてみることに。

 妹は参考書を広げた勉強机にぐったりと突っ伏していた。

 兄とは対照的に優秀な妹。学業成績は良く、また性格も明るい。他人様に自慢できる妹であり、そして自分に向けられていた両親の期待を、いつしか奪っていった妹でもある。

 今でも思い出すことがある。

 通知表を両親に見せるとき、決まってテーブルの席に着く。妹は隣で、両親は前。テーブルの向こうで両親が難しい顔をする、僕の通知表を見て。一方、妹の通知表を見るときはその表情が和らぎ、そしてお褒めの言葉を当人に掛けるのだ。

 そんな様子を僕は「なんでこいつばっかりが……」と奥歯を噛み締めながら横目にしていた。羨ましかった。妬ましかった。はっきり言って、僕は妹が嫌いだった。

 いや、妹を称賛するくせに、僕を蔑ろにする両親も嫌いだった。

 家族が嫌いだった。

「……予備校に行こうかな」

 僕は居心地の悪い場所から逃げるように、早々に自宅を出ていった。

 予備校に向かう道中、かつての自宅を思い返した。

 なんとなく昔を振り返りたくなったのだ。

 昔は自宅にも温かみがあった。居心地の良い家だった。

 いったいいつから居づらくなったのだろうか。

 いったいいつから周囲から「愚鈍だ」と言われるようになったのだろうか。

 テストの点数が低かったり、忘れ物をしたり、よく転んだりする様子にため息を吐き、どうしようもない奴だと冷たい目を向けられるようになったのは、いったいいつからだっただろうか。

 今となっては、詳細の時期までは思い出せない。

 ただ覚えているのは、中学生の頃から「テストの点数」が最重要項目として皆が認識するようになったことだろう。

 良い点数を取り、良い大学へと進学し、良い成績を収めて卒業し、良い会社へと就職する。

 それが人生のあるべき姿だと言うように皆が口を揃えるようになったことだろう。

 だからお前のような人間は駄目なのだと皆が口を揃えるようになったことだろう。

 しかし、本当にそうなのだろうか。

 本当に僕は駄目な人間なのだろうか。

 僕の人生は駄目なのだろうか。

 僕の人生に先は無いのだろうか。

 すでに詰んでしまっているのだろうか。

「……」

 こうして時は現在へと戻る。


 予備校に休む旨を伝えた後、僕はすこし街中を彷徨い、それから自分が空腹であることに気付いた。今日は朝食も昼食も用意されていなかったので、昨夜から何も口にしていなかったのだ。時刻を確認。午後の二時。僕は近くのコンビニに立ち寄り、遅めの昼食を選ぶことにした。普段、コンビニでは一〇〇円程度の物しか買わない。だから今回もおにぎりと緑茶で夕食を済ませようと考えた。しかしふと思い留まる。今日くらいはいいか。そんな思考が割って入り、いつもは敬遠している少し高めの飲食物を購入して店外へ。近くの小さな公園へと入り、ベンチで食事を始めた。若干、高級感を臭わせた包装を破り、中身を取り出してかぶりつく。確かにふだん食べている物よりも美味しい。そうして食事を終え、僕はベンチから立ち上がる。

 さて、これからどうするか。

 まっすぐに家に帰るのも、あまり気が進まない。

 ならば、ぶらぶらと散歩でもしてから帰るかと思ったところで、足元に一冊の手帳が落ちているのに気付いた。

 女子高生が好んで使っていそうな可愛らしい表紙のそれを拾い上げ、次に周囲を見回す。ひと気はない。どうやら今しがた誰かが落としたというわけではないようだ。

 僕は手帳を開いてみた。

 見た様子、日記として活用されているようで、○月×日に何処其処で何々をした、と一日の大まかな出来事だけが綴られていた。

 僕は内容を読まずにぺらぺらと捲っていく。すると最終ページまで行き着いた。どうやらこの手帳日記は使い終わった一冊のようだ。次に最後に書かれた日付を確認。そこには三日前の日付が書き込まれていた。

「……それにしても」

 字が汚いな。

 最初のページを見たとき、文字は普通だった。汚くも綺麗でもない、ありふれた文字。なのに最終ページ付近では汚くなっていた。まるでミミズがのたまったようなブレた文字になっていた。

 しかし飽きた故の汚さには見えない。

 と言うのも『雑さ』が見受けられなかったのだ。

 一日の出来事をさらっと書いて終わりという感じではなく、最後まで書ききるという確固たる意思が感じ取れたのだ。

 ならばどうして汚い文字で書くのだろうか。

 いったい落とし主は何を考え、このような文字を綴ったのだろうか。

 疑問に思ったが、僕はぱたんと手帳を閉じ、拾った場所に置いておくことを考えた。

 交番に届けるのは面倒なので、見なかったことにしようとしたのだ。

 が。

 このときの僕は尋常ではなかった。

 ちょっとした気紛れ。ちょっとした気晴らし。ちょっとした遊び心。

 自宅に帰りたくないという気持ちがそうさせたのだろう。

 落とし主を捜してみよう。

 そんなことを思いついてしまった。

 幸い、手元には日記という物品がある。そこには筆記者の私生活が綴られている。つまりそれだけヒントがあるということ。ならば見つけ出すことも不可能ではない。

「そうと決まれば……」

 僕は日記手帳の最初のページに戻ると、そこから筆記者の住まいに近付くヒントを探し、それらしい一文を見つけて意気揚々と歩き出したのだった。


 私生活を綴る日記のためか、落とし主の名前や自宅の住所などは書かれていなかったが、女子高生であることと通っている学校名はすぐにわかった。他にも好きな物や、ふだん友達と遊びに行っている場所なども明記されていた。

 それらの情報によると、筆記者は活動的な女子高生だったらしい。

 僕は歩道を進みながら日記のページを捲っていく、ぺらりぺらりと。まるで筆記者の思い出を辿っていくように一日一日の内容を読み込んでいく。

 そして筆記者の人生の岐路となる日のページに行き着き、ようやく汚い文字を書く理由を知る。

「……ああ、そういうことだったのか」

 僕は思わず立ち止まり、静かに大きく息を吸い込んだ。

 この日記は遊び半分で読んで良い物ではなかったらしい。

 僕はそれを自覚したが、しかし一方で尚のこと筆記者に返さなければならないという想いに駆られた。

 そして僕にとって運命の時が『偶然』という形で訪れた。

 前方から一人の少女が歩いてくる。私服姿だが、おそらく見た様子から女子高生と判断できる。手には携帯電話があり、誰かと通話をしているようだった。

 普段、僕は見知らぬ人に声を掛けられない。人見知りなのだ。異性となれば尚更。しかしこのときの僕は尋常ではなかった。日記を返さなければという使命感と、今の自分が日記を拾ったことに対する運命に背中を押さえれ、その少女に声を掛けていた。

「すみません」

「……はい?」

 少女は耳から携帯電話を離した。

 僕は少女の顔をじっと観察し、やっぱりそうだと確信する。

 日記には筆記者と親友のプリクラが貼られているのだが、目の前の少女はずばりその親友だったのだ。

 僕はこの出会いが偶然とは思えなかった。

「もしかしてなんですけど……」

 とは言え、万が一の人違いを考えてしまい、言い淀んでしまう。そんな様子が不審だったのか、少女の目に警戒の色が浮かんでくる。それに気付き、僕は思いきった。

「もしかしてですけど、これから病院に行かれるんですか?」

「……そうですけど、なんでわかったんですか?」

 より強まる警戒。

 僕はそれを払拭するため、慌てて手元の日記を見せた。

「じつは、すこし前にこれを拾って……。申し訳ないと思いつつ中を読んでしまって、それで、その……」

 上手く説明は出来なかったが、日記を見せたことで少女は察したようだった。

「ああ、そういうことか。だから病院に行くとわかったわけだ……。あの、それを何処で拾ったんですか?」

「近くの公園に」

「……あそこか」

「それで、その、この日記を持ち主に返そうと思ってたところであなたを見掛けて……」

「すごい偶然ですね」

「そう、ですね」

「じゃあ、その日記は私から渡しておきますので」

 少女は手を差し出してきた。日記を渡せということだろう。僕は要求されるがままに日記を差し出す。少女はそれを受け取ろうとする。その間際、僕は日記を取られぬようにさっと引いていた。

「……?」

「……?」

 沈黙が流れる。

 少女は相手の行動の真意がわからず、僕は自分が取った咄嗟の行動に驚き、互いにただただ呆然としていた。

 何故、先ほどの行動に出てしまったのか。

 僕はなんでだと慌てたが、じつはわかっていた。

 筆記者に会いたかったのだ。そもそも日記を返すことが目的だったのもある。しかし今や日記を拾ったこと自体に運命を感じていたのだ。だから直接日記を返しに行く必要があった。

「あの、どういうつもりですか?」

「えっと、これは、その……」

 不審そうに見てくる相手に僕はあたふたと言葉を探したが言い訳など思いつかず、結局は正直に答えていた。すると少女は悩ましげな顔をした。その決定権は彼女になかったからだ。決めるのは落とし主である筆記者。そんなところで少女はハッとした。すぐに話は終わると思っていたため、手元の携帯電話を通話状態のままにしていたのだ。そしてその通話相手こそが筆記者であると思い出し、僕に断りを入れて携帯電話を耳に当てた。

「うん、そういうことなんだけど……」

 どうやら僕を連れていっても良いのか確認を取っているようだ。

 しばらくして少女は通話を切った。

「大丈夫そうなんで、病院まで一緒に行きましょうか」

「あ、ありがとうございます」

 こうして僕と少女は病院へと向かった。


 道中、少女から筆記者の話を聞いた。

 曰く、筆記者は半年前に事故に遭い、その影響で手足に後遺症が残ってしまったらしい。日記の後半の文字が汚くなっていたのは、そのためだ。そして今はリハビリのために通院しており、送り迎えに親友であるこの少女が付き添っているという。

「あの子、車椅子を使ってるんだけど、一人で移動するのは大変じゃないですか」

「そうですね」

 そう言いながら僕には腑に落ちない箇所があった。

「ひとつ、いいですか?」

 どうして筆記者の親ではなくあなたが送り迎えをするのか。

 親友だから、と言われればそうかもしれないが、どうも納得できない。

 すると少女は苦笑いを浮かべ、言い難そうに答えた。

「あそこの公園に日記を落とした――ううん、置いていったのは私なんです」

 筆記者は日記を書き終えると、それをゴミ箱に放り込んだ。親友である少女はどうして捨てるのかと問うた。すると筆記者は日記を書ききるという目標を達しので、もう必要なくなったのだと答えた。しかし少女は気付いていた。筆記者は事故に遭ったことを思い出さないために捨てたのだと、事故に遭う前の自由に動き回っていた自分を思い出さないために捨てたのだと。だが、それを咎めることは少女には出来なかった。

「そもそもあの子が事故に遭ったのは、私の所為だから」

 二人で遊びに出掛けた際、歩道へと突っ込んできた車から親友を助けたため、筆記者は事故に巻き込まれてしまったと言うのだ。

 少女が通院の送り迎えを手伝うのは、その後ろめたさからなのだろう。

「でも、それが日記の件とどう関係してるんですか?」

「私、あの子が捨てた日記をゴミ箱から拾ったんです」

「なんで?」

「確かにあの子にとっては思い出したくない内容が書かれてるかもしれないですけど、きっと後で後悔すると思ったんです」

 いつかふたたび手足が自由に動くようになったとき、かつての思い出を捨ててしまったことを後悔する。だから捨てるべきじゃない。

「……信じてるんですね」

 僕は思わず口から零れた言葉に驚き、慌てて訂正しようとした。

 しかし少女の耳には届いていなかったようで、話は続いていた。

「でも、あとになってわからなくなったんです。あの子が捨てたんだから、そのままにしておくべきなんじゃないかって。とは言っても私には捨てることが出来なくて、結局はあの公園のベンチに置いて来ちゃったんです。もしもそのまま何処かに行っちゃったらそれでいい。けど、万が一にも戻ってきたときはあの子に返して、思ってることを伝えようって決めたんです」

 きっとそういう運命だったのだと覚悟を決めようと。

「……そうですか」

 話を聞き終え、僕はただただ居たたまれない気持ちになった。

 そうしているうちにリハビリ室に到着。中では筆記者である少女が汗を流しながら体に鞭を打っていた。

 思い通りにならない、どうにもならない現実を前にしても、それでも諦めない姿。

 僕は日記を親友である少女に渡した。

「やっぱりこれはあなたが渡した方がいいと思います」

「え、でも……」

「いいんです。だって伝えたいことがあるんでしょ?」

 少女は困惑の顔を浮かべていたが、伝えたいことがあるという言葉に押され、筆記者のもとへと近付いていった。筆記者は迎えに明るい笑顔を見せたが、次には顔を引き攣らせた。しかし少女から覚悟の言葉を投げ掛けられ、最後には笑って日記を受け取った。

 僕はその様子を見届けた後、黙って病院を後にした。


 筆記者は周囲から信じてもらえている。努力を重ね、かつてのように動き回れるようになるのだと信じてもらえている。それが出来る人だと信じてもらえている。

 それが羨ましく、同時に自分が情けなく思えた。

 転んでも、また起き上がって歩き出す。とても力強くて、感動すらさせられた。その姿は僕という人間とは正反対。きっと僕も彼女くらい心が強かったら、家族を嫌いになったりしなかっただろう。思った通りの結果が出ないからと自棄になったりしなかっただろう。

「……」

 今からでもやり直せるだろうか。

 自分が頑張ることで、また昔のような温かい家庭に戻ってくれるのだろうか。

 僕は自宅へと帰ってくると、玄関のドアを開いて中へと入る。そして靴を脱ぎ、自室へ。が、ふと隣の妹の部屋を覗き込む。

 そこにある光景を見て、僕はやっぱりやり直せないことを理解する。

 もはやどうにもならない。

 やり直すことなんて出来ない。

 僕は妹の部屋に入ると、昨夜からずっと机に突っ伏す妹の背後に立ち、そしてその背中に突き刺さった包丁を引き抜いた。

 床に広がった妹の血はすっかり乾いている。それもそうだ。昨夜に流れた血なのだから。

 もはやどうにもならない。

 妹の背中に出来た刺し傷は消えないし、父の裂かれた首は塞がらないし、母の腹部から零れた内臓は元の位置には戻ってくれない。

 僕は手元の包丁を見やる。怪しく光る刃。それをぼんやりと見詰め、次には自分の腹へと突き刺していた。もうどうにもならない。家族を失い、僕の人生はすでに詰んでいる。少なくとも僕にはこれからの人生を想像するだけの力も覚悟もないし、信じてくれる人もいない。だからこうするしか道は無い。

 だけど、もしも一日――今日の出会いを早く果たしていたら、きっと違う結末があっただろう。

 いつも夜遅くまで勉強を頑張っている妹の努力に恥じただろう。

 両親の叱責が期待の裏返しだと気付けただろう。

「……」

 だらだらと流れてくる鮮血は、自分が思っているよりもずっと温かかった。

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