寄り道番外編
番外編 バーチャルクラブ
最初に漂ってきたのは、磯の香りだった。
とはいってもトシヤは海に行ったことがないので過去に「磯の香り」として教えられたものでしかないのだが、塩辛くてどこか郷愁を覚えるその香りを、トシヤは存外気に入っていた。
真っ暗な空間にぽつりぽつりと明かりがつき、周りに座る人間の顔が見えてくる。
どうやら自分が座っているのは小さなこたつで、その周りには自分を含めて四人が座っているようだった。
一人はトシヤもよく知っている6歳ぐらいの少女。
彼女の名前は「31番」。通称ミィ。「ネコ」と呼ばれる人造の化け物で、トシヤたち特務捜査官が使役する相棒だ。ミィはトシヤを視認すると、ぱっと表情を明るくした。
残りの二人は初対面の男女だった。男の名前はケイ、女の名前はナナというらしい。彼らの頭上にそのように名前が表示されていた。
「では始めましょうか」
ケイの掛け声に呼応するように、トシヤたちの目の前に一つの土鍋が現れた。
土鍋の中には白菜、しらたき、肉団子、豆腐、しいたけ、そして大きな蟹が一杯入っていた。
鍋の中身はぐつぐつと煮立ち、トシヤたちに食べられるのを今か今かと待っているようだった。
「私が取り分けますね」
そう言うが早いか、ナナは取り皿をどこからともなく取り出して、蟹鍋を取り分け始めた。
まずは大きな蟹の足を一本ずつ。そして肉団子に白菜もたっぷりと。豆腐としいたけは少し控えめに。
ナナは最初にトシヤに皿を手渡し、次にミィに、最後にケイに皿を渡した。ミィは手渡された皿を目を輝かせてじっと見た後、急かすような眼差しでトシヤを見た。トシヤはその視線に苦笑いしながら手を合わせた。
「それでは、いただきます」
「いただきます!」
トシヤが最初に箸をつけたのは、白菜だった。煮込まれた白菜はとろとろに溶け、箸でつまむだけで千切れてしまいそうだ。
そっとそれを口に運び、数度噛んで飲みこむ。美味い。よくだしが浸み込んだ味も、僅かに残るしゃきしゃきとした食感もまるで本物そのものだ。
次に手をつけたのは豆腐だ。木綿豆腐なのであろうそれは、箸で持ち上げても型崩れすることなく、しっかりした直方体を保っていた。揺らしてみるとぷるぷると僅かに揺れるがやはり型崩れする様子はない。
――少しリアリティが足りないな。
いくら揺らしても浸み込んだつゆが垂れる様子がないところも減点か。だが味はどうだろう。
豆腐を口に運ぶ。だしの味と濃い豆腐の味が口の中で混ざり合い、ほろほろととろけていく。味は十分に美味しい。合格点だ。
トシヤがしいたけと肉団子に手をつけ始めたあたりで、右手に座っていたミィが大きな声で取り皿を差し出してきた。
「おかわり!」
「は、速いですね」
ナナは動揺しながらもそれを受け取り、ミィは申し訳なさそうな顔で彼女の顔を窺った。
「……おかわりしちゃだめだった?」
「いえいえ、たくさんお食べください。そのために来ていただいたんですから」
新しく取り分けられた皿を、ミィは満面の笑みで受け取る。それを横目にトシヤはとうとう最大の目玉である蟹へと辿りついていた。
一旦箸を置き、蟹の足を手に取る。流石にメインだけあって、蟹から滴るだしも再現されていた。そのことに感心しながらも、トシヤは蟹の足を折って、中身を取り出してみる。ぱきっと軽い音とともに殻は簡単に割れ、その中身がするりと出てきた。
きっと初めて蟹を食べる人でもできるように設定されているのだろう。そう納得しながら、蟹の身を口に運ぶ。
塩気を含んだ蟹の身の味が口いっぱいに広がり、噛むたびにぷつぷつと繊維が切れる音がする。ぷりぷりの歯ごたえは心地よく、カニカマを食べているのとは訳が違うのだと雄弁に語っていた。
――ここまで再現できるとは。技術の進歩はすごいな。
十分にその味を堪能してから飲み込み、トシヤも二杯目を食べ始める。
やがて鍋の中にあれほど詰め込まれていた具はほとんどなくなり、ケイはどこからかご飯と卵を取り出してきた。
「締めは卵雑炊ですよー」
「わーい!」
両手を上げて喜ぶミィに苦笑しながら、ケイはまずご飯を入れてほぐし、次に溶いた卵を回し入れた。雑炊はやがてぐつぐつと煮立ち、優しい香りが漂ってくる。
「はい、どうぞ」
ナナによって取り分けられた皿をトシヤとミィは受け取る。雑炊からはほかほかと湯気が立っていたので、ミィはふーふーと冷ましてからそれを口に運び――首を傾げた。
「トシヤ、トシヤ!」
「後でな。食べ終わってからにしなさい」
「……はーい」
ミィは素直に言うことを聞き、腰を下ろした。そのまま四人は雑炊を食べ終え、手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
するとその途端に辺りは暗闇に包まれ、トシヤは急激に体が後ろへと引っ張られる感覚を味わった。
「おはようございます。いかがでしたか?」
目元にかけていたバイザーを取り外し、目を開けると、そこは白い壁に囲われた殺風景な部屋だった。
トシヤとミィが今回招かれたのは、バーチャル空間で食事を楽しむ「VRお食事センター」の事前体験会だ。本当はトシヤの上司が行くはずだったものだが、トシヤの食道楽っぷりを知った上司の好意で譲ってもらったものだった。
「美味しかったです。まるで本物のようでした」
不満点はちらほらあったが、それを押し隠して、社交辞令の答えを返す。すると施設の職員は嬉しそうに手を揉み、別の席から出てきたミィにも同様に尋ねてきた。
「ミィちゃんもどうだったかな? 美味しかった?」
問われたミィはちらりとトシヤの方を窺った。
「言っていいの?」
「……ああ、いいぞ。甘めにな」
「甘めだなんて! どうぞ辛口の意見をお聞かせください!」
内心冷や汗をかくトシヤをよそに、ミィはびしっと職員を指さして笑顔で宣言した。
「38点」
職員たちは、びしりと固まった。
「今日のお鍋全然熱くなかった。ぬるかった! お鍋ってほかほかで熱くないとダメなのに!」
ミィの言葉に、職員たちは慌てて弁明を始める。
「し、しかしそれは不快な情報です。熱く感じるほどの過度の熱だなんて……」
「やだー! お鍋は熱いのー! 火傷するぐらいがいいのー!」
地団太を踏んで熱弁するミィを、トシヤはひょいと片手で持ち上げ、職員たちに軽く頭を下げた。
「すみません。美味しかったのは本当なので。俺たちはこれで失礼します」
そのままそそくさと建物を出たトシヤはミィを下ろして、ハァとため息をついた。
「ミィ、次からはもうちょっと手心を加えてやろうな」
「てごころ?」
「手加減のことだ」
少し考えたミィは何かに思い至ったのか、ばっと手を上げて答えた。
「ミィ、手加減上手だよー!」
「……そうか」
特務部のシミュレーションルームで容赦なく訓練器具を破壊するミィを思い出して、トシヤは渋い顔になる。
「それにしても腹が減ったな」
見上げると、空からは相変わらずはらはらと灰が降ってきている。
疑似的な食事の体験をして、逆に腹が減るだなんてもしかして逆効果なんじゃないか。トシヤはもう一度ため息をついた。
「ラーメンでも食べて帰るか」
「やったー! ミィ、ラーメン好きー!」
(おしまい)
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