第1話 おしるこ・スイート・ビター 03
それは、ほんの十数年前。
灰と雪がちらつく朝。遠く去っていく大きな背中。伸ばした手は彼には届かず、自分の肩を掴む母の指が痛い。
「パパ、行かないで! 待ってよ、戻ってきてよぉ!」
男は振り向こうともせずにどこかへと去っていく。少年は最後まで男に手を伸ばし――
*
間抜けな声を上げて固まってしまったトシヤを、ミィは訝しげに見上げる。男は最初トシヤのことを呆然と見上げていたが、徐々にその顔は驚愕に変わっていった。
「もしかしてトシヤか?」
トシヤは何も答えなかった。何を答えたらいいのかも分からなかったのだ。しかしその沈黙を男は肯定ととらえたらしく、トシヤの前に立つと、なれなれしく肩をばしばしと叩いてきた。
「いやー、久しぶりだなトシヤ! 元気にしてたか? 俺の若い頃そっくりだからすぐ分かったぞ!」
薄汚れた顔を満面の笑みの形にして男はトシヤに話しかける。二人の間にいたミィは、トシヤと男を見比べて、それからトシヤの裾をちょいちょいと引いた。
「全然似てないよー?」
「ミィ、黙ってなさい」
そちらを見ようともせずにトシヤはミィを突っぱねる。男は不思議そうにこちらを見上げるミィの存在に気づいたらしく、トシヤとミィを交互に見た。
「お、お? もしかしてそっちはお前の娘か? ――ってことはお前結婚したのか!? そうか、そうかそうか! お前もそんな歳かあ!」
上機嫌でまくしたててくる男にトシヤは顔をしかめる。しかし男はそんなことに気づきもせずにトシヤを軽く肘で小突いた。
「で? 相手は誰だ、美人か? 美人なのか?」
トシヤはぐっと奥歯をかみしめると、ミィの手を引いて大通りのほうへと歩き出した。
「おーいどこ行くんだよー。返事しろってー」
平然とした顔で後を追ってくる男に、トシヤはいったん立ち止まって苦々しい顔で絞り出すように言った。
「ついてこないでください、……父さん」
それだけを言うとトシヤは普段では考えられないほどの早足で大通りを歩いていった。いつもならば歩幅を合わせてくれるトシヤにそんな扱いをされ、ミィは引きずられるようにその後ろを歩いていく。数十歩歩いたあたりでなんとか体勢を立て直すと、ミィはトシヤを気づかわしそうに見上げてきた。
「トシヤ、パパと仲悪いの?」
「……まあな」
ぼそりと答え、トシヤは立ち止まる。瞼の裏には、あの日戻ってこなかった、戻ってきてくれなかったあの男の背中が焼き付いていた。
あの男と出会わないように大回りの道を選び、トシヤとミィは十数分かけて家へとたどり着いた。しかし、実家の門の前でポケットに手を突っ込み、白い息を吐いて待っていた人物に、トシヤは立ちすくんでしまった。
「おおトシヤ、やっと来たか」
いたずらっぽい笑みを向けてくる父親に、トシヤは顔を歪めかけ――それから平静を装って彼の横を通り過ぎて実家のカギを開けようとした。
「カギ、変えてないんだな」
懐かしそうな声色でそう言われ、トシヤは振り向かないまま指に力を込めてしまう。
「ほら、お前が好きだったキャラのキーホルダーだろ、それ? 俺覚えてるぞー?」
低い位置からにこにこと見上げられ、トシヤは一度口を開けた後に、ぎゅっと唇を閉じてドアを開け、さっさと家の中へと入っていった。
「無視するなよー」
乱暴に玄関を閉め、トシヤは大きく息を吐いた。
なんでここにあの人が。なんで今更。なんで、今更。
「トシヤ?」
ふと隣を見下ろすと、ミィはトシヤの左手を軽く引っ張ってきていた。
「トシヤ疲れてる……?」
心配そうなその表情に、トシヤはほんの少しだけ穏やかな顔になってミィの頭を一撫でした。
「大丈夫だ。さ、おしるこ食べような」
一緒に手を洗い、ミィをリビングに座らせておしるこの最後の仕上げをする。とはいえオーブンで餅を焼き、温めたあんこをかければもう完成だ。トシヤは出来上がったおしるこをもりつけて、ミィの待つリビングへと持っていった。しかしそこで自分を待っていた人物にトシヤはおわんを取り落としてしまいそうになった。
「おお、おかえりトシヤ! 上がらせてもらってるぞ!」
勝手に家に入ってきて、我が物顔でミィの隣に座る父親の姿に、トシヤはいよいよ声を荒げようとした。
「あん、たってやつは……!」
「トシヤ?」
しかし父親の隣でちょこんと座るミィと目が合い、怒るに怒れなくなってトシヤは二人の前におしるこのおわんを乱暴に置いた。
「これ食べたら帰ってください」
そう言い残してトシヤは自分の分のおわんを取りに行く。食器棚を見ると、三つ目のおわんは子供用の小さなものしか残っておらず、トシヤは苦々しい顔をした後に普通の茶碗におしるこを盛りつけた。
「お嬢ちゃん名前は?」
「ミィはミィだよ!」
「へぇ、ミィちゃんっていうのか。もしかしてこのおしるこもお手伝いしたのかい?」
「うん!」
低い机で隣り合って座り、和気あいあいと会話をする二人から少し離れた場所に、トシヤも腰を下ろす。
「ああ美味いなあ。お前、こんな美味いもの作れるようになってたんだなあ」
父親はしみじみと息を吐き、それから自分が持ってきたビニール袋から缶ビールを取り出してきた。ぷしゅっとそれを開け、一口飲んだ後、トシヤの視線に気づいて缶をこちらに差し出してくる。
「そら、お前も飲め飲め。もう成人済みだろ?」
トシヤは無視をしておしるこを口に運んだ。味がしない。甘いはずなのに、苦々しい気持ちしか残らない。うつむいたまま黙々とそれを食べ続けていると、缶ビールを一本飲み干した父親は、ふとトシヤのほうへと向きなおった。
「なあ、トシヤ」
トシヤは顔を上げ、父親を見る。父親はにやりと口の端を持ち上げていた。
「いい儲け話があるんだが乗らないか?」
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