最終話 ごちそうさま。お代は全てあちらの方に。 07(終)
目の前で起きた事態をすぐに飲みこめず、トシヤは硬直していた。
まさか――何の罪もない市民にヒミコを投与して実験体に? その推測を裏付けるように、発症者と化した男はゆっくりとこちらに歩み寄ってきていた。どう見ても友好的な様子ではない。
トシヤは発症者に銃を向け、照準を合わせ、引き金を――引けなかった。
発症者はまっすぐにトシヤに突進してくる。動けないでいるトシヤはそれに弾き飛ばされそうになり――その直前に駆け寄ってきたアマトによって発症者の射線から突き飛ばされた。
「しっかりしてください、先輩」
アマトは素早くトシヤを引き起こし、発症者を睨みつけた。
「ガキの頃見てきたから分かるんです。ああなってしまったらもう戻れないんです。……せめて楽にしてあげましょう」
いつになく真剣な面持ちでアマトはトシヤに声をかける。それでもまだ動揺している様子のトシヤを見て、トガクは発症者に向き直った。
「仕方ないですね」
トガクがポケットから取り出したのは、筒状の注射器だった。トガクはそれを迷わず自分の首に注射すると、トシヤたちを軽く振りかえった。
「離れていてください。私はなりそこないなので、制御ができないかもしれません」
そう言うトガクの体には変化が起き始めていた。腕が不自然に肥大化し、爪も鋭くなっていく。しかしその胴体は人間のままだ。
半分だけ発症者と化したトガクは、発症者を睨みつけると、足を大きく踏ん張って発症者に飛びかかった。発症者にトガクの腕がぶつかり、ぎりぎりと押し合い始める。その時になってようやく平静を取り戻したトシヤは銃を構え直し、傍らのアマトに声をかけた。
「援護するぞ」
「はい!」
半発症者である分、トガクの方が発症者の男よりも体重が軽い。トガクは徐々に押され、ついに勢いよく弾き飛ばされてしまった。地面を転がるトガクに、発症者はすかさず飛びかかる。しかしそこを貫いたのはトシヤたちの放った弾丸だった。
頭と足に弾丸を受けた発症者は飛びかかろうとした勢いのまま地面に激突する。
「今です、トガクさん!」
アマトの叫びに応え、トガクは発症者に飛びかかる。そして思いきり振り下ろした爪は、発症者の首を大きくえぐり、発症者の体は数度びくびくと跳ね回った後、動かなくなった。
「やりました……かね?」
「……ああ、多分な」
苦虫を噛み潰した顔でトシヤは答える。視線の先では、もう動かない発症者の上に乗ったトガクがこちらを振りかえったところだった。しかしその時――
「やれ、33番!」
鋭い指示の声が飛び、何者かの影がトガクを投げ飛ばした。トガクの体は勢いよく壁に打ち付けられ、ずるずると脱力して動かなくなる。何が起こったのか理解できないうちにその影はトシヤの隣に立っていたアマトを襲い、アマトもまた吹き飛ばされて動かなくなった。
その時になってようやくトシヤはその影の正体を知った。男の発症者よりも多少小ぶりな化物の姿――33番だ。
「無様ですね、皆さん」
振り返るとそこには、いつの間にか重装備の男たちが銃を構えていた。その中心にいた人物にトシヤは顔を歪める。
「……シンゴ」
そこにいた男、シンゴはにやりと口の端を持ち上げた。
「やっぱりお前はそちら側か」
絞り出すように言うトシヤに、シンゴはいよいよ笑みを深くした。
「そうですよ。あなた方を陥れたのも、ネコたちをさらったのも、全部俺たちの仕業です。兄を奪ったあなたたち特務捜査官が憎かったんです。もののついでに管理局の人間も一人始末できたのは儲けものでした」
トシヤはシンゴたちを睨みつけながらも拳銃を握り直し、この状況の打開策を必死に考えていた。正面からやりあってはとても勝てない。ならば人質を取るか? だが、人質が通じる相手だろうか。
「でも今更それを知ってどうなるって言うんです? トシヤさん、あなたはもう助からないのに」
その言葉の直後、トシヤは正面から33番に殴り飛ばされた。激しい痛みとともに地面にうつ伏せに倒れるのと同時に、拳銃が弾き飛ばされ、手の届かない場所へと行ってしまう。
トシヤは必死で体を持ち上げ、立ち上がろうとした。今の一撃で意識が飛ばされなかったのは奇跡だ。いや、むしろ首や背骨が折れなかったことの方が奇跡なのだろうか。
しかし正面から殴られたあばら骨は確かに折れているらしく、なんとか立ち上がった直後、空気とともに血の泡がトシヤの口からあふれ出た。それでも立ち上がり、こちらを睨みつけてくるトシヤが、シンゴは気に入らなかったらしく、苛立った様子で吐き捨てた。
「いい加減、諦めてくれませんかね。できればなるべく無傷のまま拘束したいんですよ。この先ずっと実験体として生きてもらうためにね」
息をするたびにトシヤの口からは血が溢れた。しかしトシヤはそれでも立ち続け、シンゴを睨みつけ続けた。
「なんですか、その顔。まさかこの期に及んで、誰かが味方してくれるとでも思ってるんですか?」
シンゴはトシヤを嘲笑った。シンゴの周囲の男たちも笑っている。
「お前らを助けに来るやつなんてどこにもいない。お前らの人生はもう終わりなんだよ!」
「――ふっふっふ、それはどうかなぁ?」
唐突に、通信機越しの音声がその場にいる全員の鼓膜を揺らした。その直後、バツンと音を立てて実験場の照明は落ち、シンゴたちは混乱の渦に叩き落される。
「なんだ、何が起こっている!」
「何が起こってるのかって? そんなの決まってるじゃないか。天網恢恢疎にして漏らさず。君たちの悪事は、ぜーんぶこのごーちゃんが聞いていたのだ!」
トシヤは気付いていた。その声は倒れているトガクの方から確かに聞こえてきていた。彼女が通信機を持って、誰かと密かに通信していたのだ。そして聞き覚えのあるこの声の主は――
シンゴはようやく気付いた。この声は知っている。落ち着いた少女のようでありながら、妙に軽妙なこの声は――
「お前、まさか!」
「そのまさかだよ、ヒューマン」
音もなく実験場の扉が開き、武装した集団がなだれ込んでくる。照明がつき、集団の中心にいる場違いなほど可愛らしいワンピースを着た少女が胸を張った。
「愛と正義の味方、5番ちゃん参上! さー、君たち神妙にお縄につきなさーい!」
数秒間、シンゴたちは誰も動けなかった。そしてその数秒は、5番殿の部隊には十分すぎる時間だった。素早く銃を構え、シンゴたちに照準を合わせる。いち早く混乱から立ち直ったシンゴの隣にいた男が、トシヤに拳銃を向けた。
「う、動くな! こいつらがどうなっても――」
タン、と軽い音がして、男の眉間に穴が開いた。崩れ落ちる男を見て、周囲の部隊たちもようやく銃を構えはじめる。しかし、そんな彼らを5番殿の部隊は次々に射殺していった。
「そうそう、抵抗する子は殺しちゃっていいよー。最低限口のきけるやつが残ってればそれで」
ひらひらと手を振りながら、軽い調子で5番殿は言う。その顔は笑っていたが、その目は冷たく光っていた。シンゴは33番を振り返って叫んだ。
「さ、33番! 俺たちを守れ!」
化物の姿をした33番は、一飛びに5番殿の前までやってくると――そのまま5番殿に頭を垂れた。5番殿は優しく笑い、33番の鼻面に手を置いた。
「任務ご苦労様、ミミちゃん。いいや、もうトーちゃんって呼んでもいいかな?」
「5番殿――我がマスターのご随意に」
「固いなあ、君は」
けらけらと笑いながら5番殿は33番の頭をぽんぽんと叩く。その様子を呆然と見ていたシンゴは、5番殿の部隊にあっという間に拘束されていた。
「裏切ったのか、33番……!!」
シンゴは体をよじりながら叫ぶ。33番はするすると少女の姿に戻ると、5番殿の手を取って、その手の甲にキスをした。
「おかえり、10番」
「ただいま戻りました、5番殿」
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