第5話 25年目のオムライス 08(終)
2日後、私は5番殿との面談に呼び出されていた。面談場所に使われたのはいつもの「女子会」の部屋だ。可愛らしい椅子に腰かけて私と5番殿は向かい合っていた。
「君も聞いているとは思うが、あれは「管理システム」否定派のテロだった。それに教団が技術提供をしていたんだね」
5番殿は淡々と説明する。だけど私にはそんなことはどうでもよくて、ただ俯いて沈黙を守っていた。5番殿は、そんな私をじっと見つめた後、テーブルの上にあるものを置いてこちらに差し出した。
「これ、君のだろう?」
それは――あの時、失くしてしまった指輪だった。テーブルの上で鈍く輝くその小さな指輪に、私は手を伸ばさなかった。
「……受け取れません」
5番殿は辛抱強く私の反応を窺った後、指輪をテーブルの真ん中に置いたまま、テーブルの上で指を組んだ。
「イナちゃん、何か私に話したいことがあるんじゃないかな」
俯いたまま拳を握りしめる。言うべきことは決まっている。私はぎゅっと閉じていた唇を開いた。
「5番殿。私を、廃棄処分にしてください」
5番殿に驚いた様子はなかった。数秒の沈黙の後、彼女はただ穏やかな声色で尋ね返してきた。
「何故?」
「何故って……!」
そんなこと分かりきっている。
だけどそれが何なのか上手く言葉にできずに、私は口を開け閉めした。悲しさ、悔しさ、自分への失望。溢れてくる感情を処理しきれず、目には涙の膜が張っていく。
「どうして私に教えたんですか」
「……何をかな?」
5番殿は相変わらず落ち着いた口調で尋ねてくる。
「食べることを? おしゃれをすることを? 人として幸せになることを?」
全部だ。何もかもだ。私は俯いたまま、感情のままに叫んだ。
「こんなに苦しいのなら、こんなこと知らないままの方がよかった!」
ぼろぼろと涙がこぼれ、膝の上で握った拳に落ちていく。そう、私はもう知ってしまったのだ。今まで見ないようにしてきた何もかもを。それを与えられる幸せを。
「死ぬのが怖いと思ったんです。幸せになりたいと思ってしまったんです」
私は全身を震わせ、大きくしゃくり上げた。
「こんな私はもうきっとネコですらない! それならいっそ――」
「駄目だよ、イナちゃん。それは逃げだ」
絶対的で、だけど温かい5番殿の言葉に、私は顔を上げる。5番殿は相変わらずこちらを見つめて微笑んでいた。
「君、オムライスを食べたんだってね」
「……はい」
「どうだい、生まれてくるはずの命を食べた感想は」
「……美味しかったです」
一度言葉を切り、あの時感じたものを吐き出す。素直に、感じたままに。
「温かくて、嬉しくて、幸せでした」
あんなに嫌っていた人の食べ物を食べたのに。卵だなんて残酷なものを食べたのに。
幸せだと思ってしまった。感じてしまった。
5番殿はそんな私に音もなく歩み寄ると、私の手を取り、しゃがみこんで私を見上げてきた。
「君は生まれてくるはずの可能性を摘み取って生きているんだ。君だけじゃない。どんな命も、そうやって生まれたし、そうやって生きている」
生まれてくるはずだった命。私の姉妹たち。
私はあふれてくる涙を拭えないまま5番殿を見た。5番殿は私の手の平の上に、あの指輪をそっと置いて、仕方なさそうに微笑んだ。
「イナちゃん。君はあのオムライスを食べた瞬間にようやく生まれたんだよ」
*
特務部直属の病院。その一室の前で私は十数分の間、入室をためらっていた。
この扉の向こうにマスターがいる。治療によって傷は全て塞がり、あとは体力の回復を待つのみという状態らしいが、本当に大丈夫だろうか。
爆発に巻き込まれ、破片の中に倒れ伏すあの姿を思い出し、手が震えてしまう。
しかしこのままここに立ち続けるというわけにもいかないだろう。やがて意を決した私は、手を持ち上げ、病室のドアを軽くノックした。
「どうぞ」
しっかりとした声の返事に、ほっと胸を撫で下ろしながら、努めて真面目な顔を作ると「失礼します」と言って私は部屋の中へと入っていった。
「17番か」
マスターはベッドから体を起こして何か書類を読んでいたようだった。私が歩み寄るとマスターはふっと表情を緩めて笑った。
「無事だったんだな、よかった」
咄嗟に言葉を返せなかった。守れなかった罪悪感と、気遣われた喜びとがないまぜになって、私は思わず俯いてしまっていた。だめだ、そうじゃない。私はマスターに言わなければいけないことがあるのに。
「どうした?」
戸惑った様子でマスターが問いかけてくる。私は緊張で早鐘を打つ心臓を抑えこみながら、マスターの方へと顔を向けた。
私は伝えなければ。しっかり、この人と向き合って。
「廃棄処分を申し出ようと思っていたんです」
私の言葉にマスターは目を丸くしたようだった。だけどマスターは私の言葉を遮らず、私はそのまま言葉を続けた。
「私はあなたを守れなかったから。……失ってしまうところだったから」
――そして、ネコにあるまじき感情を持ってしまったから。
「あなたならきっと、私より有能なネコが代わりにあてがわれるだろうと思っていたんです」
淡々と語る私をマスターはじっと見つめ、優しい顔で問い返してきた。
「今は違うのか?」
私は頷いて答えた。
そう、今は違う。もうそんなことは思っていない。
「私は私の命に責任を取らなくてはいけない」
私の命は私だけのものじゃない。私が生まれるために死んでいった命たちが、私が生きるために殺してきた数多の命がある。
「私の摘み取った可能性に責任を取らなくてはいけない」
羊水の中に浮かぶ私の姉妹たち。生まれることのないまま食べられる卵たち。
その全てに私は責任を取って生きなければいけない。
「だからもう一度あなたのもとで戦わせてください、マスター」
真剣に、まっすぐにマスターを見つめる。マスターは私の眼差しをしっかりと受け止め、そして穏やかに微笑んだ。
「もちろん。こちらもそのつもりだったよ」
その言葉に私はほっと緊張を緩める。しかし、その後に続けられた言葉に私は再び緊張で体を強張らせた。
「ところで……」
「な、なんでしょう」
「……またイナと呼んでもいいか?」
思わぬ申し出に私は思考を停止させ、数十秒考え込んだ後に答えた。
「いえ、それは止めていただきたいです」
「何故だ」
拗ねたような顔をしてマスターが問いかけてくる。私はあふれてくる感情を隠すように顔を逸らした。
「その、恥ずかしいので……」
マスターはそんな私を見ると、数秒きょとんとした後に、声を上げて笑い出した。私は羞恥心で顔が赤くなるのを感じていたけれど、それでも今感じているのは決して不快な感情ではないと分かっていた。
「よしじゃあ二人きりの時だけそう呼ぼう。それでいいな?」
「はい、マスター」
(おしまい)
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