第5話 25年目のオムライス 06

「次はそうだな、その辺りのレストランにでも……いや、お前は食べられないんだったな、すまない」


 一般的なネコである私は人間の食べ物を食べない。マスターは恥ずかしそうに頭をかいた。

 私は周りへと目を向けた。周囲には親子連れや恋人同士と思しき人々が楽しそうに行き交っている。私はそんな人々を目で追いながら少しだけ考えて――首を横に振った。


「いえ」


 マスターが目を丸くして私を見てくる。私は緊張で声を震わせながら言った。


「……食べてみたいです、デートですから」


 そう、デートだから仕方がない。そうやって自分を納得させる。するとマスターは満面の笑みを浮かべた。


「……そうか、そうか!」

「デートだから仕方ないんです」

「そうだな、デートだもんな! はっはっは!」


 上機嫌のマスターに連れられるままに、私たちは近くにあったレストランに入店する。夕食には少し早いぐらいの時間だったため、それほど店内は混んでおらず、すんなりと座ることができた。


「ほら、メニューはこれだ。何でも好きなものを頼みなさい」


 手渡されたメニューを前にして、私は困惑して視線を泳がせる。目の前には色とりどりの食べ物の写真が広がっているが、そのほとんどに対する知識を私は持ち合わせていなかった。


「わ、分かりません。どれがその……『美味しい』のでしょうか」

「ん、ああそうだな。じゃあ俺が決めていいか?」


 私の混乱を悟ったマスターは、私からメニューを受け取るとううむと考え出した。


「17番の初めての食事を決められるとは、なんだか嬉しいな」

「そういうものなのですか?」

「そういうものなんだよ。そうだな、初めてだから箸は使えないだろうし、そうするとスプーンで食べられるもの……子供が好きそうなもの……オムライスなんてどうだ?」


 オムライス。それは知っている。ケチャップライスを「卵」で包むというあれだ。そう、よりにもよって「卵」を使った料理。


 私は一瞬体を強張らせたが、楽しそうにしているマスターを見ると、何故か断りたくなくなってしまい、首肯して答えた。


「その、オムライスというもの、食べてみたいです」


 料理はほんの15分ほどで運ばれてきた。ウェイターが去った後にテーブルの上に残されたのは、二つの簡素なオムライス。卵はしっかりと焼かれ、中のライスを包んでいる。真ん中には赤い調味料らしきものがかかっていて、全体からはほかほかと湯気が立っていた。


 これがオムライス。生まれてくる前の命を奪って作られた卵料理。生まれてくるはずだった姉妹たちの姿が脳裏をよぎり、私は拳を握った。


「いいか、こうやってすくうんだ」


 マスターの真似をしてスプーンを持ち、たどたどしくオムライスの端にスプーンを差し入れる。薄く焼かれた卵はあっさりと切れ、中のライスと一緒にスプーンの上に乗った。


 マスターがそれを口の中に入れたのを確認し、私もまた――数秒間オムライスと向き合った後に、意を決してそれを口の中へと押し込んだ。


 その瞬間広がったのは柔らかくて優しい感触。鼻から抜けるこれは卵の匂いだろうか、それともライスのものなのだろうか。ふと残されたオムライスの断面を見てみると、そこにあったのは知識にあるケチャップの赤色ではなく、クリーム色のぱらぱらとしたライスだった。おそるおそる噛み締めると、ライスの中に混じっていた具が口の中を踊り、浸み込んでいた味が広がっていく。


 私はもぐもぐと十数秒噛み続けた後、ごくりとそれを飲み下した。

 ――ああ、食べてしまった。だけど嫌な気持ちはしない。むしろこれは。


「どうだ? 美味いか?」


 期待に満ちた目をマスターが向けてくる。私はスプーンを握りしめながらそれに答えた。


「マスター。実は私、卵と言うものに嫌悪感を持っていたんです。……生まれてくる前の命を食べるなんて、すごく残酷なことだと思っていたから。……それに初めての食事で味もよく分かりません」


 淡々と述べる感想に、マスターの表情は曇っていった。私は慌てて言葉を繋げた。


「でも、嫌じゃなかったんです! とても温かくて、嬉しくて」


 それはきっとマスターが選んでくれたものだから。私のためだけにうんと考えて選んでくれたものだから。私は自然と顔が笑みの形になるのを感じていた。


「きっとこれが美味しいということなんだと思います」


 マスターは最初きょとんとした顔をしていたが、やがてとても優しい表情になると、「そうか」とだけ言った。

 その表情を見ているうちに、私は途方もない喜びと、ずっと胸の内に抱えてきた罪悪感がわきあがってくるのを感じていた。言ってしまうべきだろうか。きっと言ってしまうべきなんだろう。マスターと出会って25年。ずっと抱え続けたこの感情を。


「マスター、あの、ずっとマスターに言いたかったことがあるんです」


 覚悟を決めてそう切り出すと、マスターは優しく「なんだ?」とだけ問い返してきた。私はスプーンを置いて、頭を下げた。


「マスター、私みたいな劣等生を今まで使い続けてくれて――ありがとうございます」


 マスターは何も答えなかった。答えられなかったのかもしれない。


「私は駄目なネコです。周りに比べれば足も遅いし、力も弱い。特殊技能があるわけでもない。それなのにマスターは私を見捨てないで使い続けてくれた。だから私は――」

「17番」


 優しいマスターの声が、私の言葉を遮ったのはその時だった。私は俯いていた顔をそっと上げた。そこにはいつになく真剣な顔をしたマスターの姿があった。


「俺はお前がいいんだ、お前が一緒だったからここまで来れたんだ」


 それは、肩を揺さぶられているかのような力強い言葉だった。数秒置いてその言葉の意味を理解して、私は目を見開いた。


「25年間ついてきてくれてありがとう。これからもよろしくな、17番」


 そう言ってマスターは微笑んだ。嬉しい。こんなに嬉しい言葉をかけてもらえるだなんて。私は顔が赤くなってきているような気がして、再び俯いた。


 こんな感情を向けられたら勘違いしてしまう。これまで高望みだと思っていたものが、目の前にあるような気がしてきてしまう。

 私は軽く俯いたまま、目だけでちらちらとマスターを見た。マスターは変わらず優しい顔で微笑んでいた。

 勘違いしてもいいのだろうか。望んでみても――いいのだろうか。


「……マスター」

「なんだ?」

「その、一度だけでいいので」


 震える声で小さく、私は問いかける。


「イナ、と呼んでくれませんか?」


 答えが怖くて顔は上げられなかった。だけどその代わりに、ほんの数秒後にその言葉は返ってきた。


「イナ」


 優しく愛おしむように呼ばれたその名前。私は俯いたまま、目に涙がたまっていくのを感じていた。こんなに嬉しいことがあるなんて。私はごしごしと目をこすった後、マスターに答えようとし――その瞬間、マスターの背後で激しい光が見え、ショッピングモール全体を巨大な爆発音が揺らした。

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