第4話 愛と妄執の引っ越し蕎麦 03

 翌日の早朝、事後処理を終えたトシヤとミィはアパートの自室にふらふらと帰ってきた。トシヤの腹はぐうぐうと空腹を訴えているし、ミィにいたってはトシヤの腕の中で眠ってしまっている。


「ただいま……」


 ミィを抱き直しながらトシヤは自室のドアの鍵を開け、部屋の中へと入っていく。途中何もない所でつまずきそうになりながらもミィを抱えて歩いていき、すやすやと眠り続けるミィを畳の上に下ろした。


 とにかく何か食べないことには寝るに寝られないだろう。何か作ろうと頭は考えているのに体は言うことを聞かず、トシヤはぼんやりとしてしまっていた。


 そうしているうちに十数分が過ぎた頃、玄関のベルが安っぽい音を立てた。こんな時間に誰かと疑問に思いながらもドアを開けると、そこには温かそうな上着を着たモモコの姿があった。


「モモコさん」

「お仕事お疲れ様です。お蕎麦ゆでたので食べに来ません?」


 悪戯っぽく笑むモモコに、トシヤはしばし呆気にとられた後、問い返した。


「まさか……一晩中待っててくれたんですか?」

「眠れなかっただけですよ。さあ、どうぞいらっしゃってください」

「えっ、ですが……」


 なおも渋るトシヤに、モモコはとどめの一言を投げかけた。


「困ったわ。もう三人分作っちゃったのよ……」


 そう言われてしまえば断るわけにもいかない。トシヤは部屋の中に戻ると、眠りこけているミィの肩を揺すった。


「ミィ、蕎麦を作ってくれたそうだぞ。食べないのか?」

「……おそばっ!?」


 勢いよくミィは跳ね起き、きょろきょろと辺りを見回した。



「いただきます!」


 手を合わせて元気よく言い、ミィは蕎麦のどんぶりに箸を差し入れた。細くてまっすぐな蕎麦が箸に挟まり、持ち上げられる。ミィはそれに少しだけ息を吹きかけると、一気に口の中に吸い込んだ。


 その途端、口の中に広がるのは、あっさりとしただしの香りだ。つゆが絡んだ麺は、数度噛んだ後、自然と喉の奥へと飲みこまれていった。美味しい。鼻に抜ける後味も最高だ。でも――


「おいしいけど……トシヤのおそばと違う?」


 ミィはこてんと首を傾げてどんぶりを見つめた。ミィの隣ではトシヤも一口目を吸い込み飲みこんで、モモコに話しかけていた。


「もしかしてこのつゆ……カンサイ風ですか?」

「あら、トシヤさんのところはカントウ風?」


 蕎麦のつゆには大きく分けてカンサイ風とカントウ風がある。その語源は今となっては分からないが、カンサイ風はあっさり、カントウ風は濃いという特徴がめんつゆにはあるのだった。


「料理、お好きなんですか?」

「はい。トシヤさんも?」

「ええまあ……母の影響で」


 ぽつりぽつりとぎこちなく喋りながら、三人は蕎麦を啜っていく。やがて麺は全て胃の中に収まり、残っていたつゆも喉を鳴らして飲み干して、トシヤとミィは満足そうに息を吐いた。


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした!」

「はい、お粗末様でした」


 あっさりしたカンサイ風のつゆは、早朝の空っぽの胃に優しく浸み込んだ。お腹がいっぱいになったせいで心なしか眠くなってきた気もする。トシヤはモモコに頭を下げた。


「本当にありがとうございます。こんな、ご馳走になっちゃって」

「いいんですよ。それより、一つ聞きたいことがあるんですが……」


 モモコは下から覗きこむようにして悪戯っぽくトシヤを見た。


「トシヤさんって……もしかして特務捜査官さん?」


 その言葉にトシヤは全身を硬直させた。特務捜査官だということは一般人に気付かれてはいけない重要事項だ。それをどうして彼女が。まさか自分がボロを出していた? でも出会ってまだ半日も経っていないはずだ。じゃあどうして――


「……やっぱり」


 モモコは嬉しそうに微笑むと、胸の前で指を合わせ、そして種明かしをした。


「夫が特務課の人間なんですよ。よく酔っぱらっては特務課の話をするんです。特務捜査官のことだとか、……ネコのことだとか」


 それを聞いてトシヤは眉をひそめた。いくら家族相手とはいえ、特務課に関する情報は重大機密だ。そう易々と語っていいものではない。そんなトシヤを気にせず、モモコはミィのかぶっていたフードを取って、そっと頭を撫でた。


「こんなにかわいい子たちだったのね」

「んー?」

「あら、ちっちゃい角があるわ」


 微笑ましそうに言うモモコに内心冷や汗をかきながら、トシヤは釘を刺した。


「あの、ミィがネコだってことは……」

「分かっていますよ。誰にも言いませんって」


 モモコは口元を隠しながらうふふと笑う。トシヤは生きた心地がしないまま、何も言い返せずにいた。


 その後、生きた心地がしないまま、トシヤはモモコに送り出された。足元のミィもおなかいっぱいで満足そうだ。


「またいらしてくださいね」

「し、しかし……」

「来てくれないとミィちゃんがネコだってばらしちゃうかも」

「えっ」

「冗談ですって、うふふ」


 楽しそうにトシヤをからかうモモコに、トシヤは眉を下げて曖昧に答えることしかできなかった。


「それじゃあ、また。おやすみなさい」

「おやすみなさい。ごちそうさまでした」


 ぺこりと頭を下げて、トシヤとミィは部屋に戻っていく。その後ろ姿を見送って、モモコはばたんとドアを閉めた。

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