第2話 四足自走型チーズケーキもどき

第2話 四足自走型チーズケーキもどき 01

 灰の街、郊外。降灰量が特に多く、ぽつりぽつりと建物はあっても一般人は立ち入ろうともしない区画。そんな場所に、その建造物はある。


 濃い鼠色の壁に囲まれたその建物の外観は、巨大な刑務所か研究施設のように見える。建物の入り口には衛兵の守るゲートがあり、その建物がこの街の政府にとって重要な場所であることを示している。


「31番、訓練を開始します」


 研究施設――と仮に呼ぶ――の内部、50メートル四方ほどの直方体の空間に、淡々とした声が響き渡る。ブツンと通信が切れる音がして、その部屋の中には静寂が満ちた。


 部屋の中には灰の街の街並みが再現され、天井に向かって伸びるビルとその側面に張り付いたネオン看板、人のいない露店が並び立っている。そんな部屋の隅には、一人の少女が立っていた。


 少女の体には手術衣に似た水色の服が纏われ、その額には小さな角が生えている。その肌にはまばらに鱗が見え、その口からは鋭い牙が覗いていた。


 指示音声が途絶えてたっぷり4秒。少女――ミィは俯いて腕を脱力させ、耳をすませていた。


 静寂。しかし全くの無音というわけではない。風の音、ネオンの震える音、排水管から水滴が滴る音。そして――何者かの小さな足音。


 ミィはばっと目を見開くと、まるで倒れるように自然に体を傾かせて、一気に走り始めた。アスファルトの地面を蹴り、2ブロック先の交差点へとほんの数秒でたどり着く。視界の端に映った標的の影に、ミィは交差点のマークを強く踏みしめて方向転換をした。


 標的はビルとビルの間を猛烈な勢いで駆け抜け、建物の中へと飛び込んだ。その後を追い、ミィも建物の中へと滑り込む。標的は壁を走り、二階へ逃れようとしていた。ミィはその進路を先回りするようにして走り込み、目の前に飛び出してきた標的を足元に叩き落として掴み上げた。


「取ったー!」


 標的――ネズミの形をした訓練道具を掲げてのミィの勝鬨に同調するように、訓練終了のブザーが鳴った。



「14秒35。相変わらず流石のタイムです」


 研究員からの平坦な賛辞に、トシヤは片眉を上げるだけで答えた。いつも通りの成績に、いつも通りの社交辞令だ。特に反応を返す必要もないだろう。


 トシヤにそれ以上会話をする気がないと察すると、研究員は軽く頭を下げて、トシヤの前から去っていった。ふとモニターを見ると、ビルから出てきたミィがこちらに向かって大きく腕を振っているところだった。その様子にトシヤは少しだけ眉を下げる。


「流石っすね先輩! あんなに早くチーズを捕まえるなんて尊敬するっす!」

「……アマト」


 振り返るとそこには、4歳下の後輩――アマトがこちらを見て目を輝かせていた。こちらもいつもの反応だが、自分を慕ってくれている後輩を無下にするほどトシヤは冷血漢でもなかった。


「あれなんでチーズっていうんすかね。ネズミ型なのに」


 アマトはマイペースにころりと話題を変えてトシヤに尋ねてきた。チーズとは先ほどまでミィが追いかけ回し、あっという間に仕留めてみせたあのネズミ型訓練道具の俗称だ。


 チーズは遺伝子組み換えによって異様に運動能力を高められたネズミで、ミィたち「ネコ」の能力を測定するために用いられる道具だった。


「……ネズミの好物はチーズだろう」

「はいまあ、絵本とかではそうですが……まさかそれだけでチーズって呼ばれてるんです!?」

「らしいぞ。もう何十年も続いている慣習だから誰が言い出したのかも分からないそうだが。それに加えて言うなら――」


 とりとめもない会話を二人がしていると、モニター室のドアが音もなく開いて、チーズを掲げたミィが転がるようにトシヤに駆け寄ってきた。


「見て見てトシヤ!」


 腰に抱きついてまだ蠢くチーズを見せびらかしてくるミィに、トシヤはふっと表情を緩めた。


「ああ、偉いぞ、ミィ」


 頭の上に大きな手を乗せてわしゃわしゃとかき混ぜてやる。ミィは照れくさそうに笑った後、期待を込めた目でトシヤを見た。トシヤはすぐにその視線の意味を悟った。


「食べていいぞ」

「いただきます!」


 言うが早いか、ミィは口を大きく開けると口の中にチーズを放り込み、バリバリと噛み砕いた。ほっぺたを押さえてその味を堪能するミィにトシヤは仕方なさそうに声をかける。


「ほら、訓練後のデータチェックがまだだろう。早く済ませてきなさい」

「はーい!」


 ミィは元気に返事をすると、軽い足取りで部屋から出ていった。トシヤは仏頂面に戻り、アマトの方を振り向いた。


「見ての通り、あいつらにとってはご褒美のだからじゃないか?」


 しかしアマトはそんなトシヤの言葉はもうどうでもいいようで、顔色を真っ青にして口の端を引きつらせていた。


「どうかしたのか」


 その表情の原因には大体予想はついていたが、一応トシヤはアマトに尋ねる。アマトは恐る恐るといった様子でこちらを窺ってきた。


「その、先輩、気を悪くしないでほしいんすけど」


 おずおずとアマトはトシヤに尋ねた。


「なんでそんなに『ネコ』たちと仲良くできるんです?」


 大方予想はついていた問いかけだったが、いざ何故と問われてトシヤは返答に窮した。


「怖くないんすか先輩?」


 恐怖を込めた目で、アマトはトシヤを見上げてくる。


 無論、トシヤも最初からミィのことが恐ろしくなかったわけではない。実験体である彼女たちへの、恐ろしい人造の怪物「ネコ」たちへの認識を改める、とある事件が過去にあったせいだ。


 たまには昔話をするのもいいか、とトシヤは記憶を手繰り寄せて口を開く。


 あれはそう5年前。トシヤが25歳だった頃に遡る。

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