そして、魂は堕ちる

雪洞トモセ

第1話 狂奏曲①

   人の心に入ってくるのは、無神経なやつらばかり


「ありがとうございました、先生」

 女は傍らの少女の方に手を添えて、大事そうにしながら医者と看護師たちに頭を下げた。


   少し、人と違っているからと言って、ココがおかしい、変だ

   そう決めつけて、人の心を探る

   そして決められた正常値へと合わせようとする


「行きましょう」

 優しい笑みで、女は少女の背中を押した。


   確かに受け入れられない性格だった

   だから、奴らは足を踏み入れてきた


「何か、食べたいものはある?」

 女は歩きながら、少女の手をつないで訊ねた。

「あのね、ママ」

 少女はもう一方の腕に、クマのぬいぐるみを抱えて、そのかわいらしい大きな眼を女に向けた。

「ん?」


   けど、奴らはやり過ぎた


「このクマさん、名前はなんて言うの?」


   おかげでわたしは使い分けができるようになった


「なんていう名前だと思う? 当ててあげて」

 少女は首を傾げ、クマの目を見つめながら、もどかしく言った。

「……こっぺちゃん…?」


   わたしと、”ワタシ”ーー


「そう、こっぺちゃんと言うのよ。すごいわ、こっぺちゃんとお友達になれた証拠ね」

「……うん。もう、お友だちの、ひとりね…」


   いつだったか

   人は、”ワタシ”を恐れ、ゆえに、あの場所に預けて

   わたしを待った


 朝、新しく用意された少女の部屋のベッドの上で、”ゆゆ”は目を覚ました。最初に聞こえたのは、明るい、少年のような声だった。

「おはよう、ゆゆ」

 目の前に、ゆゆをのぞき込むクマがいた。

「おはよう、こっぺちゃん」

 天蓋の下でむっくりと、少女ーーゆゆは起きた。

「ママは仕事に行ったで」

 それは、クマーーこっぺから聞こえた。

「うん、ご飯は?」

 ゆゆはベッドから降りて、すぐそばにあるマホガニーのたんすから着替えを出し始めた。

「千羽(せんば)さんが来てくれてや」

「……あの人、キライ」

 パジャマのボタンを外しながら、文句一つ。

「しゃあないやろ、ママが気に入っとんやから」

「だからキライ。ママの好きなモノ、全部キライ」

 ゆゆはブラウスを着て、茶色のプリーツスカートをはいて、紺色のリボンをつけた。きれいにパジャマをたたんで、整えたベッドの上に置く。幼稚園児のわりに、きちんとしている。

「もう来るの?」

 靴下をはいて、スリッパをはき、とことこと歩いてクローゼットの前で止まった。

「まだやろ。今7時にもなってへん」

 こっぺもベッドから飛び降りて、クローゼットとはベッドを挟んだ向かいにある窓のカーテンを開けた。

 まだほのかな朝の光が子供部屋を包み込んだ。

 ゆゆはそのやわらかな光を浴びながら、クローゼットを開ける。

 そこには無数のテディベアが並んでいた。

「おはよう、みんな」

 それらは何も返さない。それが、”当たり前”なのだ。


 退院した後、母が用意した家にゆゆはやってきた。新しいおうちだ。もう何年病院にいたかなんて、ゆゆにはわからない。ただ、物覚えがついて気づけばもう、白い大人たちに囲まれていたのだった。

 不愉快だった。毎日、どうでもいい問いかけや、お絵かき、お人形遊びばかり。

 ゆゆは本を読むのを好み、絵本ではなく、小学生向けの本を手に取っていた。

 他の子どもたちとは特に話さず、常に与えられた部屋で過ごした。そして、ひとりで話すことも多かった。それを、大人たちは子どもの成長過程とも捉え、また一方で、奇とも捉えた。彼女はよく「かわいそうに」「消えたいね」とつぶやいていたからだ。

 こっぺに出会って、彼女はそのクマがただのクマではないと気づいた。そしてクマは、ゆゆがひとりの時にのみ喋り、動く。

 何者かは問わなかった。動かないクマと、動くクマがいる。その2種類に分けて捉えればよい話だと、怖がることはなかった。


 階段を半分下りてゆけば、そこの窓から外が見える。

 人が見えた。

 話し声がかすかに聞こえた。

「大変ね、壊れた子の世話なんて」

「いえ、かわいいですよ。よくなついてくれるとまではいきませんけど」

「退院したばっかりでしょ? 幼稚園にも行ってないとか」

 散歩中の近所のおばさんと、千羽さんだった。まだ子どもは寝ていると思っているらしい。

「わたし、もう行かないと」

 千羽は下手な愛想笑いで別れを告げた。そして、こちらへと入ってくる。

 町の道路からは少し離れた家なのに、なぜあのおばさんがここにいたのか。ゆゆの肩の上に乗って同じく外を見ていたこっぺは、密かに思った。


「まったく! ここの家が何だっていうのよ」

「うん、わたし、こわれてなんかない」

「そう、――⁉」

 一人だと思っていた千羽は驚いて振り返る。そこにはクマのぬいぐるみを抱えたゆゆがいた。

「ゆゆちゃん、もしかしてさっきの聞いてた?」

 ゆゆはこくりと頷く。

「ごめんなさいね、ちゃんと否定できなくて」

「いいよ、千羽さんが謝ることじゃない」


   それに、あなたになついているわけじゃないのは本当だから


「早くに目が覚めたのね。ご飯を食べて、今日はどこかへお出かけしようか」

 千羽は訊ねた。

「どこへ?」

「うーん、どこへ行きたい?」

「じゃあ、お買い物に行きたい」

「何か欲しいものがあるの?」

「ないけど、見てたらほしくなるのがあるかも」

「そうね、じゃあお昼は外で食べようか」

「うん」


 千羽は近くの大学に通う女子大生で、休みの日は一日ゆゆの面倒を見てくれる。

 毎日仕事で忙しい母は、ゆゆの世話役として千羽を、家政婦として老婆を雇った。老婆はゆゆと関わることを避けているようなので、ゆゆも自分から近づかないようにした。老婆は掃除をして、ご飯を作るだけだった。

 千羽がいないときは、ゆゆは自宅に設けられた小さな図書室で、ひとり読書をしている。幼稚園へ行くこともないので、小学校までこうして知識をためている。

 たまに、千羽が本を買ってきてくれることもある。そんな人柄の良い彼女を母は高く評価していて、この日は早めに帰るのだった。

 だから、ゆゆは千羽がキライだった。人に干渉することがそれほど素晴らしいことなのか。妙にたくさん道徳教育を受けているのか、たとえ精神科に入院していたとしても、差別するのはよくない、同じ人間だと思っているらしく、お互い分かり合おうとしている。一方で、彼女は多額のアルバイト料を受け取っていて、それがなければわざわざこんなことはしないと家政婦の老婆にボヤいていたの聞いた。ゆゆは偽善者だと思った。老婆の意見に合わせて言ったのか、本心なのか、そこまではわからないが。


 朝食を済ませ、ゆゆは千羽が後片付けをして出かける準備ができるのを待っていた。

 広い玄関ホールに置いてある無垢の木製ベンチに、こっぺと座っていた。

「ねぇ、こっぺちゃん、この前言っていたことは本当?」

「うそはつかんで。代々『市長』を選んで来たんや。見る目はあるで」

「で、わたしが『市長』になるの?」

「ああ、ゆゆさえ良ければ」

「わかんないよ? これからわたしを知っていけば、こっぺちゃんの気が変わるかもしれないよ」

「だからこうしてそばにおんやで。本当に市長たる質のもんかどうか」

「それで、わざわざクマの中に入ってきたの?」

「器がないと、こっぺさまの存在に気付いてくれへんやろ」

「――気づきたくなかった」

「なんでやー! おれいいやつやろー!」

「あ、こっぺちゃん、しっ!」

 千羽の気配に気づいたゆゆはよくしゃべるクマを黙らせた。

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