第13話 幾千年の虚構が妃として戴冠した

 ある日、メーイェの記憶の反復は、思春期に入って何番目かの眠りの中で、一つの悪夢を完成させた。

 縄梯子が擦れる音を響かせて、二階の寝室に登ってくる、身体が破裂しても死なない中年の女。その姿は血塗れで、衣服は所々破れていて、汚れた手足はあり得ない方向に折れ曲がっている。下腹部から飛び出た小腸を引きずっている。さらに三階の屋上を目指して登っていく。小腸は次の縄梯子に絡まって千切れて、床に血を滴らせている。持ち主に忘れられて、縄梯子を揺らしている。やがて背後の中空を、女がこちら側を向いて落ちていく。鈍い音がする。数秒後、また何かを引き摺る音がする。壁を背にしたメーイェは毛布をかぶって震えている。


 飛び降りたら死ぬイメージは、頭の中で繰り返し再生されるから、妄想の産物は不死の怪物でなくてはならなかった。死と再生を繰り返し、終わりもなく始まりもない、不死を象徴するウロボロスの蛇のように、女は不死身の身体を手に入れた。

 かくして、汚物にまみれて抱きついてくる「汚物犬」は、その恐怖の大王の玉座を「身体を破裂させても死なない女」に譲位した。

 汚物犬の恐怖は、お気に入りの衣服が汚れてしまう程度の恐怖にしか過ぎなかったので、不死の飛び降り自殺する女から与えられる、死への根源的な、激しい後悔を伴う恐怖に、その座を譲らないわけにはいかなかった。


 柘榴の匂いがする。夢遊病のようにメーイェが夜の花園の奥に迷い込んだとき、足元に何か長い物が動いていて、何かの道標かしらと、下を向いたまま、草の間を過ぎ去っていく何か蛇か、大きめのミミズのようなものを追いかけていくと、唐突に目の前に体が崩れ去った女が現れて、子供なら入れるほど穿たれた傷口に、顔から身体ごとメーイェは押し込まれた。大きな血塗れの傷口が、それ自体が消化器官であるかのように、恐ろしい女は、失血して青ざめた顔で、獲物を捕らえた喜びも何の感情もなく、ただ本能的にメーイェの身体を取り込んでいった。生肉が溶けていく不気味な音を立てて。あるいはそれは、母による子への愛情表現だったかもしれない。大きめの蚯蚓のように長い蛇は、女が蹲って両腕に何重にも紡錘車のように巻き取っていた、自分自身の小腸だった。

 ついに恐ろしき女は、人間の肉の味のするザクロに飽きてしまい、人間の子どもの血と肉が欲しくなってしまったのだ。もう人間は食べないように、と輝きの大天使ルビヤと約束をしてザクロの樹を頂いたのに……。長きに渡って禁欲していた人間の子どもを、それも、よりによって、全能の神の子を収穫してしまった……。いつの間にか、食べられたはずのメーイェが、食べた側の女に生まれ変わって、涙を流して絶叫していた。

 メーイェは自分が産み出した妄想の怪物に捕食された。もしくは、現在の自分が自分の未来の姿に妄想の晩餐の中で食べられた。

 そういった森の魔女が花園の境界線上を、木陰から木陰へと獲物の視界に入らないように移動して、偽りの蛇を餌にした罠を仕掛けて、認識の外で息を潜めている。一体ではなく、花園の周辺を等間隔に何十体も。

 だから花園の外に出てはならない、と潜在意識のメーイェが、鏡に映った像のようにあるじに訴えるのだった。


 花園の境界を越えるためには、強靭な意志が必要だった。恐ろしい怪物を前にして、真っ向から立ち向かうだけの覚悟や、大切なものを花園で失ってしまって、もうここにはいられないという諦めの境地や自殺願望を必要とした。天使の保護圏の中で愛情を受けながら、アンデの掟を守って健やかに生活していれば、花園から出ていくという選択肢は神の子たちにはなかった。


「爆弾を愛した大公妃」の起源は、神の娘メーイェの怖れの中にあったのかもしれない。

 恐怖によって輪郭を与えられた幻像が、水晶のような十二の珪素DNAの螺旋の中を泳いで、そして潜り抜けている途中で、そのうちの十本を失い、二重螺旋のDNAだけになっても、何千年も泳いで、ある時代で現実の世界に実体化したのかもしれない。幾千年の虚構が妃として戴冠したのだ。

「爆弾を愛した大公妃」は、綴られた遺伝子の歴史の中を泳いだ。かつて煌めきの女天使ユリスが披露した背泳ぎを真似するのにも飽きてしまった。泳ぎ疲れた「爆弾を愛する大公妃」は、塩基配列の天蓋の下、糖の寝台に横たわって、あのドアが開くのを待っている。大公妃が寵愛するお気に入りの探偵アヴァロン・ゼーヌハートが訪問するのを、いまか今かと待っている。胸の中に猫を抱えて部屋に入ってくる瞬間を待ち侘びている。あれは占帝元老院が創作した物語ではなかっただろうか。虚構の物語でも語られなかった、虚構の中の虚無。それでも大公妃メーイェは待っている。猫にはアヴェルと名付けよう。そして猫を公子にして可愛がろう、やがて二足歩行で踊れるようになるまで成長したら、大公国を治める次期の大公に戴冠させよう。アヴェルこそが、いにしえの預言書で語られる、我らの終焉なき苦悩を癒し、最後にメサティック・オゾンと名付けられる神の猫かもしれない。そのようにメーイェは夢見ていた。

 仮に猫が本当にやってくるとして、占帝元老院はちゃんと忘れずに、猫の額にハート型の模様を描いておいただろうか? それとも額にハート型の模様を描く役目を担うのは、いつだって名前の存在しない謎のトランプ占い師なのだろうか?

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