第10話 時が巻き戻された水の中で

 尻もちをついたメアイは、何事もなかったかのように立ち上がると、逃げていった兎とは逆方向の、池の周囲の一部を取り囲む壁の水際にある狭い、道とはいえない道を、強情にも池に落ちないように伝っていった。数多くの動物たちの前で、同じ年齢のメーイェに叱られたメアイは、幼い自尊心を深く傷つけられてしまった。足の横幅より狭い道が途切れてしまったので、舌打ちをして裸足で岩壁をよじ登っていった。さらにメーイェが笛を吹いていたことを思い出して、激しい嫉妬から苛立ちを抑えられなかった。

 メーイェはその、しょうもない、如何にも子供っぽいメアイの様子を池越しに眺めて、「普通に入り口から出て行けばいいのに。素直じゃないんだから」と呆れた。兎と鉢合わせしたくない気持ちは、分かるけれども。ルビヤなら「それは道ではない。むしろ、ムカデの道だ」と静かに教え諭すだろうに。メーイェはメアイが裸足のまま、お家を出て行ったのを思い出して、入り口に向かって、明後日の方向に散らばったメアイの草履を手にした。全体的に土まみれで、鼻緒が綻びている。メーイェは広間に戻って、池の正面の階段を数段降りて、水に沈んだ一段目に草履を浸して、紐にこびり付いた泥汚れなどを取り除いた。まだメアイはヤモリのように池の壁に張り付いていた。枝の檻の周りを、犬が尻尾を振って走り回っていた。檻の中で瞳孔を開いて潜んでいた猫は、犬が出口を通り過ぎる一瞬を狙って、前脚の肉球による突きを定期的に食らわせていた。その度に犬は短く吠えて、再び同じ作業を猫と繰り返すのだった。それは永遠に動き続ける玩具のようだった。檻の中から外は丸見えなので、このゲーム?は猫が勝利するしかなかった。植物で作られた如雨露が横に倒れて、床を水で濡らしていたが、誰も気付かなかった。

 ようやく岩壁を登ったメアイは、近くの枝にぶら下がって、ゆるやかに草地に着地した。そこは農具小屋の裏手にある大岩のさらに裏のようだ。初めて訪れた場所、住居のすぐ近くにあるのに、死角になっていて、今まで来たことがなかった場所には、ムカデがたくさん這い回っていた。

 メアイの悲鳴がした方向にメーイェは顔を向けた。

 一連の騒動の中、この機に乗じて、二匹の蛇がメーイェに気付かれないように、銀色の笛を引きずって、自らの手中に収めていた。

「もうひとつ、檻がいる」誰かが不気味に呟いた。


 全能の樹を背にして、夕陽を浴びて腰かけていた半透明の音楽家は、今にも消え入りそうな手を、自分の身体を、怖れを持って眺めていた。身体の輪郭線が二重になったり、表面が崩れて破片が飛び散った。その背後から年老いた声が発せられた。音楽家はこれ以上壊れないように振り向くと、虚ろな瞳で、ひからびた二匹の蛇を見つめた。目の前に、銀の笛が置かれていた。とぐろを巻いた二匹の蛇は、出し抜けに密告した。

「お前の大切な笛だよ。メーイェが盗んだんだよ。お前も笛の音を聴いただろう。以前から、あの小娘は笛を物欲しそうに見ていたから、お前がいない隙を狙って、永遠に自分のものにしようとしていたんだ。何食わぬ顔をして、一緒に笛を探す心積もりだったかもしれないね。本当は自分が盗んだのにね。あたしたちが取り返してやったよう……」

 音楽家は床に屈んで、静かに笛を拾い上げると、ふらつく足取りで、蛇に何の目配せもなく階下を目指した。慎重に縄梯子にしがみつくようにして降りていったが、途中で足を踏み外して、一気に下まで落ちてしまった。その姿は両足を失って一回り小さくなってもまだ歩き続け、一階の池の前にいたルビヤとすれ違うと、池の階段に倒れ込むようにして落ちて水中に消えていった。蛇は憐れむように、音楽家の後を追いかけて、既に暗くなった池の中を潜った。一階のガス灯の明かりが、揺らめく水面を照らしていた。音楽家が手にした銀色の笛は、もう一度、池の底に沈んで、元の岩の割れ目に嵌まった。あのとき、午後の水浴びをしていたメーイェの手から離れて、時が巻き戻されたかのように、笛を吹いていたメーイェの記憶も、初めから存在しなかったかのように黒く塗り潰された。今まで誰にも手で触れられていなかったかのように、初めから水底の岩の割れ目に笛はあった。池の周りを歩いていた音楽家が、偶々、意味もなく池の中に笛を投げ捨てることもなく、偶々、メーイェが眩い光に気付いて、池の底に潜って笛を手に入れることもなかった。これからも笛は誰にもその場所から動かすことができないのかもしれなかった。或いは笛なんて本当に沈んでいるのだろうか? 誰も注意しなければ、一瞬の光など、誰にも気付かれなかったのだ。

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