第8話 セオプニューマトスをもたらす物は水底に
穿った岩の表面に溜まっている湧水に、葉っぱの水桶を浸して水を汲んでいたメーイェの耳許にも、ルビヤの声で同じ内容の戒めが囁かれた。
メアイの身体には触れてはならない。メーイェもメアイと同様に、何故、自分だけに父から出し抜けに言われたのか判断に苦しんだ。禁じられた事柄が胸のつかえとなり、いつまでも少女の心に色濃くこびりついた。足元にいる兎が、心配した面持ちでメーイェを見上げていた。
メアイとメーイェは、お互い一人きりで、養父母との約束を守り続けていた。
何でこの約束だけが、こんなにも胸に苦しいのか? 父なるルビヤの背中におぶさってもいいのに、母なるユリスの手は握り締めてもいいのに、何故、メアイには手で触れてもならないのだろう?
飲み水をこぼさないように運びながら、メーイェは花園の掟に思い悩んだ。見えない植物に縛られたまま、意味の分からない重さを引きずって帰路に着いた。
二人で孤独な子どもたちは、自分が納得できるような説明を天使たちにしてもらいたかった。あまりにも戒めは、心を締め付けていたので、父母たちに問い返す勇気も湧かず、かといって、互いの裡に秘められた疑問を当事者同士の間で交わすこともしなかった。禁忌は言葉にされることも禁忌となってしまった。
霊的に未成熟なまま性を結ぶと堕落する。
それが大宇宙での愛の原則だった。
ルビヤとユリスは、もう少し子どもたちの身体が発達したら、改めて二人に教える予定だった。まだ肉欲についての概念が分からないうちから、丁寧に教えるのはかえって混乱のもとになってしまうと判断した結果だった。万が一のために、相手の身体に触ってはならないという軽めの注意を促したのだった。せめて二十歳を迎えるまでは。そのとき晴れて天使は、二人の聖婚を祝福しようと願っていた。
音の正体が分かった。メーイェは髪を洗っているときに、眩く光る物が池の深みに落ちているのに気付いた。水の中で目を開けて、光の真上まで泳いでみると、池の底に笛が沈んでいるのが見えた。次の瞬間、何の迷いもなく、メーイェは体をひるがえして潜っていた。メアイ程、泳ぎの上手くないメーイェは、腕の健が痛くなるくらい右手を伸ばして、懸命に両脚をばたつかせて、水の底の岩の割れ目に挟まっていた笛を手に入れた。満足そうに笑みを浮かべて、水面に浮上した。大気が恋しかった。大気は神の息吹だもの。口に入った水を吐き出して、お家を目指して泳ぎ始めた。柱を横にして積まれた水の中の階段を登って、銀色の金属でできた笛に見惚れながら、お家の庭に上がった。食卓の乳白色の大理石のテーブルの上に、不思議な笛を置いて、タオルで髪や体を拭いた。音楽は水の底にあった。
この笛の持ち主を、仮に「音楽家」とメーイェは名付けた。最近、笛の音が聴こえてこないのは、大事な笛を池に沈めて失くしてしまったからだ。音楽家はきっと困っているだろう。音楽家に届けなければ。籐で編み込んだ椅子に腰かけて落ち着いたメーイェは、試しに笛を手に取って吹いてみた。いつも憧れを持って聴いていたあの音が、自分の意志で自由に鳴らすことができた。新しい喜びの衝動に満たされた。神の娘の息吹によって、音楽の世界は創造された。メーイェの身体から天使の香りが立ち籠めた。それは神の霊感セオプニューマトスと云ってもよかった。
ずっと、笛を吹いていれば、音楽家は現れるかしら?
それとも恥ずかしがって出てこないかもしれないから、木の枝からロープで笛を縛ってぶら下げておけば、木陰から激しく辺りを見回して、ためらいながらも現れるかもしれない。素敵な音楽家さんは、花園の外からやってきたのかしら?
この様子を如雨露の中で絡まっていた二匹の蛇が注意深く見ていた。鎌首をもたげて。
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