第6話 花園の地図を眺めていた思い出が

 メアイは動物のお供もつけずに、花園を駆けていくことがあった。怖くなったのか、すぐに戻ってくるけれど。そして今度は住居の裏側から、灌木を飛び越えて、赤と黄色の花々が並ぶ道を北へ向かって颯爽と走っていった。犬が短い鳴き声をあげて、少年の後を追いかけていった。メーイェは二階のバルコニーで洗濯物を取り込みながら、メアイが行ったり来たりする様子を眺めて、何をやっているのかしら、と首を傾げた。ユリスが階下にいた兎を抱えて、宙を飛んで、メーイェの隣に降りてきた。

 メアイは住居の屋上で寝そべって、尖った石で岩の表面に、絵を描いていた。摩擦で削れた砂による図形の群れだった。これは何かとメーイェが訊ねると、これはメアイが今まで散策したことのある花園の地図だった。ここに小川があって、滝があって、休息できるガゼボがあって、葡萄の木があって。方向音痴のメーイェでも良く分かる地図だった。天使たちはその絵の出来栄えを褒めた。メアイは犬にも見せるために、犬をおんぶして縄梯子を登ってきた。二羽の青い鳥も何かのしるしかと思ったのか、素早く地図の上に舞い降りた。花園の縮図がそこにあった。

 メアイは楽しそうに、眼を見開いて困惑する猫を連れてきて、屋上の奥にある部屋の壁に、猫の絵を描いたりもした。

 でもしばらく経って激しい雨が降ってきて、屋上の花園の地図は、雨水に洗い流されて消されてしまった。メアイはやる気を失くして、地図の作成をやめてしまった。メーイェが慰めると、メアイは弱々しく首を横に振って、いいんだ……と暗く呟いて、その場を立ち去ってしまった。兎はメアイの周りを飛び跳ねていたが、メアイは兎がうっとうしかったのか、兎が登ってこられない樹に登って、枝の上で小さくなって一人でいじけていた。空は晴れているけれど、まだ昨晩の大雨は、葉っぱの表皮に水滴として残っていて、服が濡れてしまうだろうに。兎は困った顔をして動きを止めた。

 岩壁に描かれた猫の絵は、横降りの雨に消されることもなく、いつまでも残った。猫は行儀よく座って、自分の絵を眺めていた。いつも猫は、絵の前にいた記憶がメーイェにはある。

 それからメーイェは雨が花園に降るたびに、地図が水に溶けてなくなってしまった思い出や、顔を横に振って残念そうなメアイの表情や仕草の記憶が呼び起こされた。不意に哀しい感情が思いだされた。掌に雨粒の刺激を感じると、家族で地図を眺めていた思い出が消えてしまった、淡くて切ない思い出が蘇った。忘れたい記憶だった。花園では何度も雨が降るのに、何故、悲しいものもついでに連れてくるのだろう。

 それは現実の花園が消えてなくなるという恐怖に結びついていた。あるいは雨は崩壊を象徴していて、花園が廃墟になるまでの所有者のいない記憶が、未来において厳然と保存されていたのかもしれなかったが、雨占い師でもないメーイェには、雨から何らの意味も読み取れなかった。硝子の雨も降らないし、血の雨も降らない。硝子の雨は誰かが死ぬ雨だったが、血の雨は誰かが死んだ雨だった。雨は激しさを増し、その雨粒が落ちる速度も速くなった。砂時計の砂が落ちる速度もまた速くなった。獰猛なツタが曲がりくねって伸びて、目の前を覆い尽していく。

 花園が朽ち果てて、やがて廃墟になっても、まだ猫の肖像画は、誰にも消されずに残り続けていた。その前にまだ猫は行儀よく座り続けているのだろうか? 行き場を失った猫の亡霊だろうか? 弔う者も誰もいない猫の骨の寄せ集めだろうか? 過去に絵を見ていた猫の一瞬の記憶が、永遠に意味もなく壊れた映写機のように、どこかの暗い室で再生され続けているのだろうか? 

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