第40話 盗賊が最後に盗んだもの
恐れていた罠もなく、何匹ものムカデが体を這っていくことはあったが、横穴は地上まで障壁もなく続いていた。穴から顔を出したフィガロは陽光に踊る花畑を目にした。鮮やかな色が、花弁の姿態から零れ落ちそうだった。闇に慣れてしまったフィガロには、日常の少しでも美しいことが、信じられないくらい幸福に思え、解放されたこともあいまって歓声をあげた。自分が盗賊の首領だということもしばらく忘れていた。
世界を描く絵筆によって遠くの空白に丘陵がなぞられ、新たな眺望を得るためにフィガロは丘を目指した。草地を歩いているうちに後にしてきた花の香りが薄くなり、その香りに違和感が生じ、この異質な匂いは何? と思っていると、それは何かが腐った匂いであることが理解できた。花の甘美な香りは完全に去り、遠くから見えた丘と思っていたものは、何かが寄せ集められた物だと知覚され、近づくごとに不快な匂いは濃くなり、密集したものが腐乱死体と骸骨を積み上げた山であることを、決定的に認識したとき、死肉の一部がフィガロの肩に乗って、得体の知れない液体を垂れ流している錯覚に襲われ、いつの間にか喉に詰まっていた死肉の一部を吐き出した。死体の山がフィガロを笑っていた。実際にはカラスの群れが啼いているだけだった。
骸骨の丘をフィガロは知らなかった。オゾン大公妃に爆破された死体たちは埋葬されることなく、オゾン邸宅の敷地内にある骸骨の丘に捨てられていた。丘の向こうには、あるじのいない無人城が立ち尽くしていた。すべてが死体の所有物というわけではない。今も生きている者の、腕や足や顔の一部も混じっているのかもしれない。やがてミトレラ・ピサンドラの右腕が宙を舞い、死体の城の一部と成り果てるのだろう。
死体が骸骨に変容するさまも鑑賞できる。そんな意図はおそらくないのだろうが。
何羽ものカラスが死体の砦を守っている歩哨のように白骨に止まっていた。フィガロはその中に全く腐乱していないジュリアン・サロートの首を見つけた。
フィガロは神の奇跡を見てしまった。ジュリアンの首は昨日か今日のうちにここに投げ込まれたのだと推測できるので、腐乱していないのは当然なのだろうが、腐乱死体と骸骨の中で、その存在が一際際立って、美しく神聖にすら見えるのも一理あることで、フィガロがジュリアン・サロートは本当に神の王なのかもしれないという、信仰と結びつく思考へ誘導されたのは無理からぬことだった。誰でもない誰かが、偶然にも詐欺師フィガロを騙した。とはいっても、何匹ものカラスのすべてがたまたま腹を満たしていて、新しい餌ジュリアンに興味を持たなかったのかはカラスに訊くすべもないが、ジュリアン・サロートの顔は、傷一つ付いていない状態だった。それは神の必然の力なのだろうか。
フィガロが関与できないことだが、何日も前に投げ捨てられたはずのアヴァロンの首や体はカラスに喰われたのか、どこにも見当たらなかった。
フィガロは死体の山を登り、両手でジュリアンの首に触れた途端、右足が気味の悪い空間にずり落ち(その空間は死体に囲まれたこの世とは思えない、生の世界に持ち込まれた死の空間だった)、死体が崩れそうになって呑み込まれそうになったが、慌てて体を仰け反らせて、文字通り生還した。
女盗賊は首を抱えて、塀を乗り越えて去っていった。盗賊は神の王の顔を盗み、オーゾレムの北部、メーイェ湖の畔に待機していた盗賊団「黒猫の舌」と落ち合った。
その盗賊団はやがて歴史から消えることになる。
フィガロはジュリアン・サロートの顔を短刀で剥ぎ、自分の顔に重ねてみて、これでは覚悟が足りないと思い直し、自分の顔の皮まで剥いだ。血が首筋を流れ落ち、服を赤く染めた。部下の盗賊の一人が恐る恐るフィガロの顔の皮を受け取り、再びフィガロの皮のない顔を見ようとすると、そこには見知らぬ男がいた。フィガロは自分の顔を失うことで、完全にジュリアン・サロートになろうとした。ジュリアン・サロートは十二人の盗賊どもに命令した。
「今より『黒猫の舌』は全員、湖で溺れ死ぬ。そのことを伝えろ」
偽者だと見抜かれ、悪魔として処刑されたとしても、悪魔の汚名を甘受しよう、とフィガロは決意した。女盗賊は神の王の顔を盗んだ。フィガロの元の顔の皮膚は主人を失い、合わさった二枚の硝子の中に閉じ込められた。
メーイェ湖から十二人の騎士が、銀白の鎧から水を垂らしながら陸に上がった。彼らは眠りの騎士団と名乗った。
ミトレラの願望の中の騎士団はそのようにして作られていった。盗賊は何かを奪う側から希望を与える側に回ったのだという。
石の子デックスはオゾン大公妃のもとで育っていった。幼年時代のデックスは、活発に動き回り、痛みは恐れなかったし、怪我もしなかった。バルコニーにジャッカルと名付けられた石像が置いてあり、デックスはよじ登って遊んでいた。
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