第86話 二度と文字を読むことのできない虚無の中に

『このことは誰にも話してはならないよ。ブザーにも、ドラクロワにも。約束を破ったら、二度と根の国の母親に会えなくなる。それに母親も言っていただろう。自分のために腕を傷つけてはならない』

 我々はエリーの言葉を都合よく歪めて利用した。神から頂いた体を、神のために使うことは良いこと。自分自身のために占いを使っては駄目だけど、他人のために自己犠牲になることは神聖なこと。そのように錯覚させ、我々の都合の良さは守られた。我々はプーの腕の傷に巻かれたエリーの服の切れ端をほどいた。これは『自分が生きている』というエリーからの伝言だ。

『あの世からは何一つ持ち帰ることができないよ』

 以降、プーは我々の都合の良さの中でしか生きられなくなった。

 いつかは森の中を遊びまわる子供たちに、まぼろしの先に何か秘密があることが露見してしまうかもしれない。我々は始まりの森の記憶を模倣して、森のまぼろしを出鱈目に張り付けて、執拗にカード占いのように森を重ね合わせたうえで、不正に森の端を捻じ曲げて東西南北、どこを目指しても無限に抜けることのできない仕組みを造り上げた。森の広さは、大公国の領土よりも広かった。岩場のまぼろしも沢山配置した。そのうちいくつかの岩場には、エリーとは似て非なる腐乱死体のまま立ち尽くす魔女の虚像がいる。節操もなく小細工を施して森をまやかしで汚したら、森の集合意識体から怒りを買う。我々は二本の小枝を重ねて×印にして地面に置いて、森自体に宿る自浄作用や生命力や訴えの声を封印した。かくして恐ろしき魔力の森が我々の手によって創造された。

 森の中には魔女がいるから、子供たちには森に近づかないようにと、逆さ魔女のお伽噺を創作して、子供たちの間に広めた。あの話は、占い審判で逆さ吊りの刑を受けることになるマジョーの未来に起きる物語を、前もって占いで読んで、参考にさせてもらった。プーの子とジャッカルの子をすり替えたマージョリー。彼女は何故かいつの間にか名前が変わってしまった。

 知恵をつけたプーは、死者の国には行っていない、と感付いたのか、目隠しで連れられている途中に、パン屑を落としていた。パン屑を目印にして、自力で昼間にでも母に会いに行こうと思ったのだろう。我々は森の中を占って、夜を徹して、松明を燈して無限にあるかのようなパン屑をすべて回収した。もし、その場を遠くから目撃している者がいたら、地を這って彷徨う人魂か鬼火のように見えただろう。日中、プーは村の中で、目を瞑って踊っていた。手での振り付けを加えてあざむいてはいるが、我々はプーが歩数を数える練習をしていると勘付き、悪魔ルビヤの姿でプーをエリーに会わせる夜の散歩は、これ以上は危険だと判断して二度と行わなかった。何も知らずにプーは、複雑にステップを踏んで、最後に空に向かって両手を開いて、目を開けたときに、ハート型で印した同じ場所に辿り着けるように練習した。シャザ―・トゥリーにもらったルビヤの石の片割れで刻んだ、ハートの形の中に辿り着けるように。二足歩行をする猫のように、次に母に会うための踊りの練習を、いつまでもしていた。母石と父石が合わさったときの、ルビヤの石が本当はハート型であることを知っていた。だが知らなかった。本番の森の舞台で一歩も間違えずに踊り切れば、母を助け出すことができると幼いプーは信じて踊り続けた。もう決して、報われることのない踊りを。子どもたちが喜ぶ声と拍手の音が聴こえてきた。そしてエリーは永遠に闇の中に取り残された。二度と文字を読むことのできない虚無の中に」


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