解答 真紅篇

第81話 誰にも秘密を語れないように

 私は占いを始める前に、あの方の夢を見た。

 私は眠りの騎士団の団員の一人で、私ひとりがあの方が眠っておられる揺籠を守っていた。あの方がお目覚めになるのを渇望していた。あの方のお言葉を聴きたかった。目を瞑り、その日が来るのを夢想していた。夢の中であの方は、「私は目覚めない」と私に言われた。私は、何故ですか? と訊いたが、あの方は死んだように眠り続けているだけだった。

 あの方が私の夢に現れたのではなく、あの方を求める私が見たかったものを、ただ憧憬のうちに、夢の網膜に映したかっただけなのかもしれない。

 目覚めた私は、川を流れる一匹の魚を釣り、永遠の流れの水瓶の中に移し変えた。魚は気持ち良さそうに泳いでいた。魚の残像に、夢で見たあの方の姿を重ねた。あの方は泳ぎ出した。すぐに元の川に返してあげるからね。

 私はあの方がこの世に生まれてきていることに歓喜し、あの方が存在した世界を俯瞰した。始まりのあの方の聖なる出生は、私の占いでは読めず、大いなる謎に包まれている。

 あの方は人形のように生気がなく、弱っていた。

 あの方はドラクロワに殺され、過去へと戻ったドラクロワにあの方は神の王であることを告げられた。それとも神の王殺しは、あの方が言うとおり、ドラクロワの占いに過ぎなかったのだろうか。ドラクロワに首を刎ねられ、天に押し上げられたあの方のお顔は、もはや誰も目にすることはない。

 二つの世界に現れ、あの方はどうやって存在したのだろうか。

 二つ目の世界では、大公妃の悲しい奴隷ミトレラ・ピサンドラは存在しないはずの騎士団を追い求めていた。誰かが言っていた眠れる書物だけが、あの少年の心の支えになったのだろう。虐げられた日々を送っているうちに、自分を解放してくれる救世主を幻想の裡に見たのだろう。

 それとも眠りの騎士団は現実に存在したのだろうか。フィガロはあの方と密約し、「黒猫の舌」は湖で溺れ死に、かわりに湖の中から、眠りの騎士団に生まれ変わった者たちが、陸に上がった。

 その後、贋物のあの方は、「鏡の中の盗賊」という絵を見たとき、両目から血を流して倒れた。マイユが占いを止めたときに、彼らの消息は私には占えなくなってしまった。

 罪深い「黒猫の舌」は、嘘吐き占い師ウラギョルに唆されて、始まりの眠りの騎士団と交戦した。眠りの騎士団の正体が、あの方の顔を盗んだフィガロが作ったものなら、二つの部隊はどのようにして、戦ったのだろうか。

 ブザーを救ったアレフオが、神の王であることを一度も名乗らなかったアレフオがあの方だったのだろうか。私には何も分からない。私は真実が欲しい。

 私は神の歴史の空白を埋めることができず、すべてを知ることが叶わないばかりか、その不可能性の炎に触れて、一つの恐るべき真実の窓を覗いてしまった。私の中のあの方は鏡像のように私を見ていた。それだけではなかった。私はオゾン大公妃がアミラだったときの挿話から、あの方の過去世へも辿りついた。神の王国が実現しようとしたとき、必然だったのか偶然だったのか、ウラギョルの陰謀で、雲の上の神は間違いを犯し、ただの人間のアミラ・ベルニエに不死身の肉体が与えられ、あの方は、神に見捨てられ、王国を約束されていたにもかかわらず、短い生涯を終えた。この不遇の死が眠れる書物を美しくしたのだろう。私の信仰もここから始まった。

 そして私は看過できない事実に直面した。棺桶の中で眠っていた不滅のアミラ・ベルニエから名前を変えたダリアが、洪水によって土が溶けて浮かび上がり、後のオゾン大公妃になったという挿話があったが、私はそれを視覚的に捉えていなかった。占いの水面に飛び込み、アミラのすぐ近くにいたのだが、私の眼はアミラの姿を映してはいなかった。闇の中で、光る言葉の羅列が、アミラを意味していた。私はただ、私が愛した眠れる書物を読んでいただけだった。目で見ていたのではなく、耳で聴いていたのでもない。私は占いを見るときは、読むと表現しているが、そのときは本当に何かの物語を読んでいた。これを書いたのは、嘘吐き占い師のウラギョルだった。どこまでが嘘なのか、一部なのか、すべてなのか。

 おそらく洪水はただの創られた洪水なのだろう。文字や言葉としての洪水。過去から未来の間に洪水があったのではなく、虚構と現実の密やかなやり取りにおいて、洪水は大地を呑み込んだ。洪水は眠れる書物の中での出来事だった。ただ私がもう一つの神話、闘牛士オゾンの創世神話を見たところでは、洪水は本当に起きていて、自らの虚構から産まれたかのように、棺桶の中にオゾン大公妃メーイェは眠っていた。そこには静止した洪水の大波のイメージがあり、メアイとメーイェの間に、二つの物語をめぐる確執のようなものがあった。

 ともあれ眠れる書物の前半部は、真実を記述してはいなかった。そのことに私が思い至ったとき、私は大切なものを遠い大地に置き去りにしてきたことに気付いた。

 ジュリアン・サロート。あの方も書物の中の人なのだろうか?

 神が起した洪水は、起こったことすべてを嘘にできるのだろうか?

 世界のすべてを、ただの一枚の紙切れにすることができるのだろうか?

 宙に投げられた嘘の紙切れから、世界は産み落とされたのだろうか?

 あの方は今、一筋の光のように、世界の至る所に虚像を浮かべて、彷徨っているのだろうか? あの方を信じようとした人々によって、あの方は見られたのだろうか?

 ドラクロワもウラギョルの言葉を信じて、あの方の姿を見た。

 私は信仰が揺らぐのを感じ、落ちていく物を慌てて拾うように地面に膝をつき、静かに泣き崩れた。あの方は初めからいなかったのだ。眠れる書物に、記述されていただけだった。私は、大洪水の前の世界をこの目で見ていない。アミラが雨宿りしているところも、あの方が不滅の体を得ることなく、死んでいくところも、アミラがダリアと名を変え、棺桶の中に入るところも、それらは、実際には起こらなかった。

 あの方は、ジュリアン・サロートは初めからいなかった。

 私の心は、いつでもあの方のためにあった。

 私が信じたものが何であったかについて、私は受け入れようと思う。おそらく私は外側から多くを求めすぎたのかもしれない。私はあの方を無理やり起こそうとした。虚空の中で記憶されていた金色に光る文字ジュリアン・サロートから、何もかもを幻視してしまった。


 真実を知ったためか、私は誰にも秘密を語れないように、いつもは生きているが、人に会うとき、必ずその三日前に死ぬ存在になった。そのように私は、眠れる書物に命ぜられた。

 多くの占い師は私のことを魚占い師と呼んだ。

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