第63話 血を何年も逆流させれば

 ブンボローゾヴィッチは廃人のようになって、家の前に出した机と椅子に毎日座っていた。砂時計を逆さにして机に載せて、落ちていく砂がすべて下に溜まったら、またひっくり返していた。村人が何を占っているんだい、と訊いても何も聴こえないかのように振舞っていた。占いの道具として使っていた砂時計を玩具のようにして遊んでいた。

 机の上に置いたブンボローゾヴィッチの左手のさらに左に石ころの山ができていて、何回か砂時計をひっくり返す儀式を終えると、一定の法則で山から小石が一個よけられ、右手の右横に石が並べられていった。村人たちは机の上に置かれた石の数から、一日の中にも細かい時間が潜んでいることに気付き、石の数が増えるのを見て、仕事や生活を送る目安にした。ブンボローゾヴィッチを時計と呼ぶことにした。村の時計は、自分の人生をすべて捧げなければできない仕事だった。

 太陽が永遠に沈まない日があった。

「ブンボローゾヴィッチ。大変だ、太陽が止まっているよ。どうなっているんだ。占いをしたら、太陽はブンボローゾヴィッチが眠るのを待っている、と雲に書いてあった」と雲占い師が言った。

 机の上の砂時計の砂は、すべて下に溜まっていた。太陽は破裂しそうに膨張し、時の止まった村の逗留客になった。太陽はブンボローゾヴィッチが来るのを待っていた。


 村の者は、いつかプーはドラクロワのために死ぬだろうと思った。占いを編むために、血がすべてドラクロワの未来の先に流されて死ぬだろうと思った。「死ぬ」と言っても、占いではなく、因果律に純粋に基づいたもので、血を流し続ければ、いつか死ぬ程度のものだった(血は生きている限り、無限に作られることを知らない人間も多くいた。樽の中の酒のように、プーの血もいつかはなくなると思っていた。村人たちは愚か者だった。プーは聡明だったから、貧血になりつつも、血の神が無為に流れるのを防ぎ、血が産まれ出るのを辛抱強く待った)。そんな漠然とした「死ぬ」という予感めいたものが浮かぶだけで、どんな占い師もプーの運命を公正に占えなかった。ただプーにとっては家族同然のブンボローゾヴィッチの占いは、他の占い師の占いの結果とは様相が違っていた。ブンボローゾヴィッチがプーの闇を視たところによれば、プー自身には未来の像がなかった。自殺したから(するから)占いの線上に現れないのではなく、すでに過去となった自殺した(する予定の)地点を遡って、生きているプーを思い出の中に甦らせたとしても、プーの顔の部分が鋏で切り抜かれていて後ろの背景が見えていた。もっと遡ってブザーとエリーの夫妻に訊ねてみたとしても、顔を背けてそんな子供はいなかったし、これからもいないという始末であった。不在が存在したかのような恐ろしき存在を、占い師たちは誰も占おうとしなかった。父親のブザーなら、どうだろうか?

 ブンボローゾヴィッチは近場の川に釣りに出掛けたときに、親友のブザーにプーの運命について占ったことがあるかどうかを訊いた。

「プーの秘密は知っているよ」

 草むらをすり抜けていく涼しい風のようにさらりと、ブザーは幸せそうに、そう言った。あまりにもそれが自然に唱えられたため、ブンボローゾヴィッチは呆然としてしまい、魚が釣り糸を引っ張っているのにも気付かなかった。横にいるブザーの顔を見ることもできなかった。プーの血を何年も逆流させれば、それは過去のブザーの血だ。父と子は同じ血を神から授かっている。父と子だから分かることもあるだろう。死んだエリーにも同じことが言えた。そうだ、プーは自分の血の流れが逆さまに流れたら、間接的に母親に触れることができることを知っているのだろうか? ブンボローゾヴィッチがそのようなことに沈思していると、ブザーは声にならない綿毛のような小さな声で、プーのことは、と囁いた。それは書かれた文字が紙に響いているのを聴くくらいの注意力が必要なほど微かな声だった。

 ブザーは何かに恐れるように少し声量を上げて口に出した。

「それは人には言ってはならないことなんだ。横笛の音色に命じられているんだ。だからブンボロー。占いで俺を盗み見ないでくれよ」

「そんな真似はしない」

 激しくブンボローゾヴィッチは首を振った。疚しさを禁じえなかった彼は、ブザーを直視できずに、川面の浮標が水流に揺れるのを眺めていた。

 だから占われたブザーはプーなどいないと答えたのか。

 浮きの横を刈り取った葦で束ねた舟が浮かんでいた。誰かが上流から流したのだろう。ブンボローゾヴィッチは、今すぐ小人になって葦舟に相乗りしたかった。

 ブンボローゾヴィッチの言葉に安心したのか、ブザーは声の大きさが戻り、饒舌になってきた。

「プーはすごい子なんだ。どんなにすごいかって? それは魚占い師でさえ、知ることはできない」

「魚占い師? 誰のことだ? 村にそんな占い師はいないはずだぞ、ブザー」

「ああ、そのようだね。村には色んな占い師がいるから、何かの占い師と間違えたんだ。魚を釣っているから、つい連想して言葉にしてしまっただけかもしれない」

 ブザーは話をプーのことに戻した。

「そしてプーは可哀相な子だ。俺はね、すべてを受け入れるよ。俺がそのことを忘れたとき、お前が思い出させてくれよ。おい、ブザー、何か忘れているよ、お前はすべてを受け入れるんじゃなかったのか? とな。俺は多分忘れるだろうから、俺はそのようにしか生きられないのだから。約束だぞ」

 ブンボローゾヴィッチはブザーに約束した。二人は魚を一匹ずつ釣って、家路に着いた。二匹の魚は水瓶の中に泳がせた。きっと双子の魚だろう。魚占い師ではない彼らは、魚の泳ぐ軌跡が何を意味しているのか分からなかった。二匹の魚は交差したまま、動かなかった。二人が歩くときの水瓶の揺れにもびくともしなかった。


 ブンボローゾヴィッチが後で思い出したことだが、プーの名前の由来をブザーに聞いたとき、ブザーはこう答えた。

「ああ、あれは、村が出来上がった頃だね。俺はプーの名前を占いでつけようと思ったんだよ。エリーのお腹にいる子どもに挨拶して、今から名前を付けに行ってくるね、とエリーを家に残して丘に登ったんだよ。息子の一生を決める占いだから、間違いがないように気持ちを鎮めるためにね。風が吹いてて気持ちよかったな、あの日は。途中、道草占い師がついてきたから、気が散って占いができないから帰れ、と怒鳴ったが、道草占い師は、言うことを聞かずについてきてしまった。何かの道草を食うのだろう。俺は道草占い師を追い払うことを諦め、気を取り直して、横笛を構えた。風の曲を吹いて、最初に思いついた名前をプーに付けようと思ったんだよ。それで曲を吹き終わって、さあ、名前を付けるぞ。名前よ、出て来い、と思ったと同時に、横にいた道草占い師が放屁したんだよ。プー。どこまでも響き渡るホルンのような屁の音だった。それで道草占い師の屁の音が、そのままプーの名前になってしまった。何故、屁をする、息子の一生を台無しにしてしまった、と真剣に怒ったよ。道草占い師にとっては、曲に対して拍手のつもりで放屁したらしい。そのようにプーは名付けられた。そのとき笛の占いでは、俺の頭の中に別のちゃんとした名前が浮かんでいたんだよ。それがプーに名付けられるはずだった。屁の音に驚いたのか、本当の名前が占いの奥へ引き篭もってしまった。今となっては、その名前が何であったかは忘れてしまったよ。別にいいじゃないか、プーはもうプーという名前で人生を送っているのだから。それに短いほうが呼びやすいしな」


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