第61話 メーイェ湖上の美しき奇跡

 眠りの騎士団の仲間が寝静まった頃、ジュリアンはアジトを抜け出した。目が冴えて寝付けなかったアレフオは、夜中に一人で外に出て行くジュリアンに気付き、密かに後をつけていった。ジュリアンはオーゾレムの中心部、大公の住まいに向かっているようだった。牛頭城と揶揄される大公の屋敷は、月光を浴びて不気味に聳え立っていた。ジュリアンは大公邸の門の前で、木乃伊の手のような蝋燭にマッチで火を点けた。『栄光の手』(ハンド・オブ・グローリー)という泥棒に伝わる俗信で、うまく火が点けば盗みは成功するのだという。本来はハーリカ=タビラ魔術の用具として用いられ、処刑された罪人の腕を死蝋化して制作された。眠りの騎士団の伝説の中で、荷馬車を引いて旅をしている魔女共同体「夢の聖母姉妹」の所有する、何番目かのジュリアン・サロートの遺体の一つかもしれなかった。

 次にジュリアンは腕の関節を外し、身体を一回り小さくさせて、鉄柵の間をすり抜けた。ジュリアンの見せた技は、『狭き門』という狭い門を通るときの盗賊体術の技だった。慌てたアレフオは近くにあった木材と服のひもを利用し、「黒猫の舌」の友達から習得した強奪術『ヤコブの梯子』で、一瞬で簡易の梯子を組み上げて、大公邸の塀を乗り越えた。梯子を持ち上げ、反対側に降ろし、脱出口をこしらえた。衛兵の詰め所を覗くと、数人の衛兵は床に倒れて眠りこけていた。眠り草による催眠術『ヒュプノスの再臨』だった。慌ててアレフオは香りを吸引しないように、鼻の穴に蝋を二つ詰めた。

 ジュリアンは大公の屋敷の鉄の扉に手を当て、瓶に入れた硫酸を鍵穴に注いだ。扉は音もなく両側に開いた。錬金盗賊術『天の王国のかぎ』だった。ジュリアンは邸内に侵入した。

 両側の壁の支柱の壁龕に設えた燭台の薄明かりが、等間隔で緩やかな輪郭を形作って、全体で大公邸の存在を闇から浮き上がらせていた。

 大公邸の床には二千個もの爆弾が設置されている。占い師でもないジュリアンは爆弾が埋め込まれている位置を知らなかった。ジュリアンは立ち止まって、目を瞑り深く深呼吸して合掌した。胸の前で両手で大きな輪を描き、右手の指を上に向けて眉間の前で静止し、左手は臍の丹田の辺りで手のひらを受け皿のような形にした。身体の中に配置されている、いくつかの光の円盤に気を集中させた。途端にジュリアンの体は引っ張られように脚を動かすことなく、魔法の絨毯に乗っているかのように、わずかに足の位置を斜めにした姿勢で滑って行った。爆弾が葡萄の木に吊るされた房のように隠された大理石の床を、ビロードの爆弾仕掛けの絨毯の上を一切の音も立てずに、恐れずに横切っていった。大金を払って習得した金星円盤協会の奥義『メーイェ湖上の美しき奇跡』だった。本来は湖の水面を歩くための技だが、大公邸でも応用できた。滑っている間に爆弾を踏んでしまっても、上空はるか成層圏に停止している円盤に体の体重を預けて零にしているために、床に爆弾が仕掛けてあろうが無かろうが関係はなかった。邸内の景色が目まぐるしく変わり、後方に飛んでいった。セフィロスの木のセフィラと小径のように張り巡らせた爆弾の罠は、まるで意味を成さなかった。階段が目の前に迫ってきて、ジュリアンは左足をわずかに持ち上げると、勝手に体が階段の上を滑って登っていった。最後の段差を乗り越えるときに、勢いがつきすぎて宙に飛び上がると、目前の壁に激突することもなく、子猫のように体を回転させて壁にひざまずいて着地し、そのまま壁の表面を滑っていった。壁に飾られた歴代の牛頭大公や大公妃やデックス公子の肖像画の上を、土足で踏む形で滑った。見張りの衛兵と出くわしたときには、懐から十字型のブーメランを取り出して投げて、衛兵の兜に命中させて気絶させた。吹き抜けから階下に落ちないように手摺りの上を、体を斜めにして滑っていく途中に、遅れてジュリアンの元にブーメランが戻ってきた。目眩がするほど人々を魅了する美しい硝子と宝石を際立出せる蝋燭たち、逆さに生えた規則正しいシャンデリアの光が散乱する列を、いくつも左右に避けながら、重力を無視して天井の表面を滑っていった。鏡の間では、鏡の表面の上を、鏡の上を滑っている鏡の中のジュリアン自身の姿の虚像の上を、ジュリアンは滑っていった。ジュリアンはどちらが鏡の中の自分自身なのか、その自分自身に幻惑されていた。

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