第58話 自己紹介は二度目になる

 パンを盗んだアレフオはパン屋の亭主に追いかけられていた。アレフオは何故自分が追われるのか分からなかった。公園に面した通りをひたすら走って逃げた。アレフオが街の者たちに、集団で取り押さえられたときに、一人の女が通りかかり、アレフオの顔を眺めた。

「まあまあ、私がかわりに払いますよ」と女は亭主を嗜めた。

 パン屋の亭主は、文句を言いながら、自分の店に戻った。

 アレフオはパンを齧った。

「さてと、気になっていたが、お前は行くところがないのかい?」

 アレフオは頷いた。

「よし。私のアジトにでも寄っていくか? 私はフィガロという」

 アレフオはこれから行くあてもなかったので、フィガロと名乗った女についていくことにした。アレフオはパンの最後の一切れを口の中に放り込んだ。

 自分の店に戻った亭主は、我が目を疑った。店内の棚に陳列してあったすべてのパンがなくなっていた。竃の中の焼ける前のパンさえも消えていた。アレフオが一つのパンを食べたことで、店中のすべてのパンがなくなってしまった。パンを無限に増やせる人がいたら、貧しい人たちは奇跡だと信じただろうが、パン屋の亭主にとっては、パンが消滅することは有り難くない奇跡だった。


 フィガロは酒場の天井裏にある盗賊団「黒猫の舌」のアジトにアレフオを招待した。テーブルの上に大量のパンが籠に盛られていた。大勢の男たちが食卓に着いていた。

「パンだけの晩餐になってすまないね。昼間も食べたのにね」

「おいらあ、全然、構わないだよ」

「ワインもあるよ」

 このようにして、アレフオは盗賊団「黒猫の舌」に入団した。

 宴席でこれまでの来歴のことを話したアレフオは、たちまち盗賊団の人気者になった。

「俺はアレフオが好きで、心配だから言うんだけど、この盗賊団で生き抜くには、ニワトリのような顔をしないってことがまず言える。あそこに大男がいるだろう。あいつは、みんなから馬車男という渾名で呼ばれているんだ。あいつの目の前を通るときは、注意が必要だ。馬車男は、自分のそばにニワトリに似ているものが近付くと、ニワトリと間違えて人でも何でも食っちまうんだよ。同じ仲間でもな。だから、ニワトリみたいな心配そうな顔しないで、仲良くやろうぜ、相棒」とアレフオの友達は親切に言った。


「黒猫の舌」はリラ鉱山の近くの麓で焚き火を囲んではしゃいでいた。火薬の原料の採掘場を視察していたオゾン大公をさらうことに成功した。国からたっぷり身代金を請求できる。盗賊の一人が牛頭の仮面を被って遊んでいた。

 アレフオは小便をしに、席を立った。他のものは酒に酔って浮かれていた。肩を組んで歌を歌っていた。アレフオは草の茂みの中に入った。後ろから聴こえた盗賊たちの歌が、途中で掻き消えた。


 アレフオが用を足して戻ってくると、彼らは皆一様に兜を被り、鎧を身に付けていた。さっきまであった転がった酒瓶や散乱した食料がみな片付けられていた。誰も酒に酔ってはいなかった。鼾をかいて寝ていたものも、急いで起きたのか、どこかへ消えていた。

「どうした、アレフオ? 何突っ立っているんだ?」

 彼らの姿は盗賊団というよりは、騎士団としか見えなかった。捕らえたはずのオゾン大公の姿もなかった。アレフオは酒に酔っ払い、別の集団の焚き火と間違えたのか、と一瞬思ったが、自分の名前が呼ばれたことに気付いて、彼らは奇妙なことではあるが、元の『黒猫の舌』らしいことが察せられた。これはアレフオがいない間に進行した何らかの作戦なのだと思い、フィガロに聞こうと思ったが、フィガロはいなかった。かわりに見知らぬ男がフィガロの茣蓙に座っていた。

「あなたは? フィガロの姉貴?」

 男はアレフオの問いかけに沈黙していたが、しばらくすると口を開いた。

「何故その名前を知っている? アレフオ。何故、誰も知らない秘密を知っている。お前は占い師か。やはりお前は特別な人間なのか。フィガロに会いたいか? 彼女は十年以上前に死んだよ」

 アレフオは何を言われたか分からなかった。頭をしきりに掻きながら、懸命に理解しようとした。

 男は、額縁を取り出した。額縁の硝子の下には人間の顔の皮が収められていた。

「これがフィガロだ。私のために死んだ。私は大公妃に処刑されようとしていた。彼女は私と入れ替わり、私の身代わりになって死んだのだ」

 アレフオは呆然と立ち尽くしていた。見知らぬ男から発せられた言葉の意味を、何とか咀嚼して理解しようと試みていた。

「自己紹介は二度目になるが、一応しておこうか。さっきまでのお前とは違うようだから。私は、ジュリアン・サロート。眠りの騎士団にようこそ。君はどこからやってきたのかな、アレフオ」


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