第59話 あたしがパンを買いに行かなかったら

 眠りの騎士団は集合しているときにだけ、そのように呼ばれた。入れ替わりが激しく、盗賊家業が忘れられない者は、騎士団を離れて言った。どこかから噂を聞きつけ、新たに加わった者もいた。団員たちは、普段は別々の職業を持っていた。パン屋や花屋、人形店という風に。ジュリアン・サロートは叔父の酒場を手伝っていた。その酒場の屋根裏部屋が眠りの騎士団のアジトだったが、『黒猫の舌』のアジトと同じ部屋だった。以前、一階の酒場で火事があって、酒場の亭主は焼死したことがあった。死んだ男の双子の弟が、改装し直し、再び酒場を始めていた。焼け死んだ男は、フィガロの父親で、『黒猫の舌』の首領だった。双子の兄弟は、兄が盗賊になっている間に、弟が酒場を任せられていた。

 火事が起きる前の酒場には横笛を吹く占い師エリーが働いていた。

 酒場で火事が起きたとき、盗賊の娘でしかなかったジュリアンになる前のフィガロは、姉のように慕っている占い師のエリーに、パンを買ってきて頂戴、とお使いを頼まれて、酒場にはいなかった。盗んだパンを片手に持ち、酒場に帰ってくると、ささやかな幸せは炎によって燃えていた。

 父は体中に酷い火傷を負いながら、フィガロの名を弱々しく呟いた。

 フィガロは石畳に両膝をついて、父親の手を握り締めていた。

 石像が横を走って通り過ぎたことにも気付かず、逆に彼女が石像であるかのように、フィガロは呆然としていた。


 エリーは、フィガロ父子が二人とも死ぬことを占っていた。運命は二人分の魂を要求した。

「フィガロだけでも助けてもらえないでしょうか?」とエリーは運命に頼み込んだ。

「駄目だ。あの小娘は瞳の首飾りしか作らない。生きるには値しないのだ。だがお前が、これからお前に会いにくるブザーから、急いで身を隠すというのなら、考えてやらないでもない」

 エリーは運命の厳しい言葉に従い、フィガロにパンを買ってくるように頼んだ。フィガロがいるときに、火事が起きると、フィガロは父親を娘の腕の力だけで助け出そうとして、二人とも死んでしまうだろう。フィガロに先に避難してもらいたかった。

 眠ったドラクロワが燭台を倒し、テーブルを燃やすと、酒場は燃えていった。エリーは外に出ずに、炎の中で残ろうとした。熱気によって体が汗ばんできた。こぼれた酒の臭いが、空気中を漂っていた。酒場の亭主は必死に床や壁に水をかけて消そうとしたが、魔法の炎なのだろうか、なかなか消えなかった。意思を持つ炎は亭主の腕に飛びついた。

 エリーはその様子を見ていた。

「俺は死ぬ運命にあるんだろう、エリー。そうさ、俺はここから出るつもりはない」

 酒場の亭主は空の水瓶を眺めていた。

 エリーは占いの残酷な決断に後ずさりして、酒場を後にした。街のものが協力して、桶に水を汲んできた。エリーは、ブザーに見つからないように、人混みの中に紛れた。エリーが運命から逆らうように振り返ると、持っていた横笛の中から声がした。

「いいか。ブザーと出会ってしまったら、フィガロを炎の中に放り込む」

 占いの声は悪魔のように冷酷に告げた。

 エリーはブザーの顔を見つけた。占いによって、どんな顔をしているかは分かっていた。

「いつか、私を探して、ブザー。そのときまで待っているから」とエリーは心の中で呟き、すべてを捨てて、その場から逃げるように、人と人の間を走り抜けた。


 何故、あたしにパンを買いに行かせた?

 あたしがパンを買いに行かなかったら、ここにあたしがいたら、親父を助けることができたのに。どこに行ったの? エリー姉さん。


 フィガロは父親から『黒猫の舌』を受け継ぎ、オブジェウスからの仕事の依頼のために、亡き父に代わって硝子の塔にいた。同じ塔の中に硝子の娼婦としてエリーがいたことに、気付かなかった。

 オブジェウスは、大公妃がデックスという厄介なものを大公家に入れてしまった、と嘆いていた。その後、フィガロはデックス公子誘拐に失敗し、大公妃に囚われ、エリーはアヴァロンの子アヴェルを残して他界した。


 アレフオはジュリアンの紹介で、パン屋で働くことになった。以前アレフオが盗みを働いたパン屋と同じ店だったが、亭主まで同じではなかった。パン屋の亭主は、妻のミィサと二人でパン屋をやっていた。砂時計を釜戸の近くに置いて、パンの焼き加減を、調整していた。妻のミィサは三日に一回しか食事をしない、断食が趣味の変わった女性だった。

 アレフオは二人にパンの焼き方を教えてもらい、熱心に働いていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る