第56話 すべての記憶を黄金の海に返して

 息子を連れてきたこともあり、船長でもあったバティオンは責任に縛られていた。

 息子は何も知らないのだ。生き残りたい乗客たちは、愚かな言い訳を考える物言う塊に過ぎなかった。

 バティオンはこの子は「神の子だ」と乗客たちに嘘を付けばよかったのではと思った。

 世界の幸福のために、この子の命は守らなければならない、これは試練だ。我々は試されているのだ、とでも嘘を吐けば?

 神の子のためなら乗客たちは、刃の向こう側へ、死を捧げることに賛成しただろうか?

 神の子を生かすために、我々は次々と命の天秤から飛び降りただろうか?

 逆に、神の子の立場なら、愚か者のために神の子自らが死を選んでいたかもしれない。その意思に触れて、バティオンの手には神が宿り、バティオンは神の子を海に捨てていただろう。本当に救わなくてはならないのは、そのような利己的な考えに思い至った我々、愚かな人間なのでは、と。

 海賊の後ろには、神がいたのだろう。

 すでに答えは出されていた。子供を救ったほうが正しいのだと。

 そうかもしれない。そうであるべきだ。ただ私はその答えには辿り着けなかった。

 自分の子供を海に捨てるところを、乗客たちに見せて、彼らに苦しみを与えたかった。彼らの多くは、まだ生きることができる喜びで、苦しみを感じなかっただろう。生が何でもなくなるときに、あの赤子を犠牲にして、我々は生きているのだと思い出し、やっと苦しみを感じ始めるだろう。あるいは、赤子を踏んだことを二度と思い出さない者もいるだろう。そのために幽霊船はやってきた。神の子を見殺しにした罪を贖わせるために。

 私が呼んだのだ。私が幽霊船に彼らを収容するように命じたのだ。私が彼らの乗船券を一つ残らず盗み取り、別の乗船券とすり替えたのだ。

 苦悩が与えられたことに気付かない愚か者は、もっと愚か者だ。

 問いの回廊の果てに、幽霊船に乗っていることが正解なのか。

 子供は海にではなく、海賊の手に渡されるべきだった? それを理解しない乗客たちのために、愚かな者たちは、生きることも死ぬことを許されなかった。子供の命を犠牲にすることで永遠に苦悩を、手足のない子供のように与えられなければならなかった。だから幽霊船の乗船券は配られた。幽霊船に乗ることは、一つの選択として正しかったのだ。

 そのために、どこにも寄る辺のないバティオンは、神の子が命じるままに自分の息子を海に捨てたのだ。それなのにも関わらず、バティオンはどこにも辿り着けなかった。


 ようやく幽霊船の船長と乗客たちの魂はどこかに辿り着いた。アレフオが彼らを導いたのかもしれなかった。

 アレフオが幽霊船に乗ってから十年が経ったある日、船を形作っていたネジや釘などの部品が役目を終えて、次々に勝手に板や柱が外れていった。幽霊船は存在の礎を失ったかのようにばらばらになって崩れていった。アレフオは板から、次の板に飛んで、バティオンのもとへ、幽霊たちのもとへと向かった。幽霊たちは体の均衡を崩し、波間に投げ出された。木片は波に散らばり、取るに足らないものとなった。アレフオは浮き沈みする頼りない板の上で這い蹲り、死の予感に船が呑み込まれていくのを、恐れを持って眺めた。船体は沈みゆこうとしていた。幽霊たちは水に浸かり、透き通る体は水を取り込みながら沈んでいった。海中の幽霊たちは手を振りながら、アレフオの顔を見上げながら、次々と海の底へと沈んでいった。バティオンも手を振って沈んでいった。アレフオは板から飛び出し、海中に潜って、彼らを助けにいこうとしたが、体がヤシの実になってしまったかのように浮いてしまい、沈んでいく幽霊たちに辿り着けなかった。


 水面に浮かびながら、アレフオは眠っていた。蒼い絨毯が永遠に広がるような、誰もいない海だった。またアレフオは独りぼっちになってしまった。アレフオは本当にヤシの実から産まれたのだろうか。

 海賊に犯された女が海賊船から海に飛び込んで、陸地に向かって泳いで逃げ出し、長い月日をかけ、何十番目かの無人島で休んでいるところで、穢れた海賊の血を引く子などいらないと、ヤシの木の根元に赤子を産み捨て、さらに海賊の追っ手から逃がれるために、また泳ぎ出しているうちに、いつしか子どもを捨てたことや、海賊から逃げていることも忘れ、自分が人間であったことさえも思い出すことなく、神から預かったすべての記憶を黄金の海に返して、人のいる砂浜に辿り着いても、何で陸を目指していたのかなどを思い出せるはずもなく、幸せそうに踵を返して海の底に深く潜って、輝く花のような珊瑚礁の合間を美しい魚の群れと抜けながら、アレフオの母親は人魚になってしまったのだろうか。

 伝説の人魚の国シュリーヴィジャヤというのは、アレフオの母親のような、海賊から逃げ出した女たちが、海の中で寄り合ってできた国なのだろうか。

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