第37話 神とどんな約束をしたのか何も思い出せない

 ジュリアンはムカデを手で掴み、岩の地面に擦り付けて息の根を止め、鼻をつまんで食べた。ドラクロワが外に出され、爆弾が爆発する音が聴こえてから、三日が経った。

 ジュリアンは思い悩んだ。もし、自分が神の王と呼ばれ、ドラクロワが云うように罪過も消えたのなら、鉄格子の扉は外側からも内側からも、どちらからでも自由に開かれるだろう。鉄格子に触れてみたが、扉は硬く閉ざされていた。

 ジュリアンは燭台に揺れる炎を見ていた。燭台は囚人が何をやっているかを監視するためにあったが、囚人の視力を失わせないためにもあった。爆弾刑に処されたとき、吹き飛んだ自分の体を自分の目で確認させるためである。ジュリアンはドラクロワがいなくなってから、自分に死が迫っていることにようやく気付き始めた。ジュリアンを死んだものだと認識したのか、足のつま先から、死が登ってきた。死刑執行を待てない残虐な処刑人のように。ジュリアンは未来の処刑日に連れ去られる自分の体を、必死に現在に留めようとした。

 膝の丘を登ってきた死は小人の群れに変化した。土の穴から這い出てきた彼らは「救済者。救いの手を」と誰もが口々に言った。その言葉は連呼され、何人もの声によって唱和されると、震える呪詛に変わり、ジュリアンは眩暈がしてきた。足首に食らい付き血を吸おうとする小人を煩わしいと思い、手で追い払ったが、この感情は神の王には相応しくないとも思った。人々を救うはずの存在が、救われたいと思う者の襲撃から救われるのを待っていた。この牢が開かなければ何も始まらない。このままでは死ぬ。私を殺していいのはドラクロワだけだ。ジュリアンは鉄格子にしがみつき、取り乱した声で命乞いをしたが、花柄の覆面の少年は取り合ってくれなかった。

 私はまだ神の王を名乗っていない。そう思ったとき、ジュリアンは神の王と名乗ってしまうことで、新しく罪過が加えられるのではと恐れた。名乗ること自体が罪になるのなら、殺されてもその一つが減るだけにすぎない。原初の罪過とは何であったのか?

 永遠に悪魔に罪を与え続ける存在にジュリアンは畏怖の念を感じた。

 もう私は神の王と、ジュリアン・サロートと名乗ってしまっただろうか?


 ある日、果てしのない無限の絶望から、ジュリアンは嘘をついてしまった。

「あなたが来るのをこの地下牢でずっと待っていました。私は預言者です。神から言葉を預かっています。よく聞いてください……」

 ジュリアンは新たな囚人として入ってきた十七歳の女盗賊に、未来の神の冠を授けた。

「あなたが神の王ジュリアン・サロートです」とジュリアンは言った。神の王は嘘をついた。

 神の王が誰にも知られずに死ぬよりずっといい。

 私はもう名乗ることができない。終わることのない苦しみはもう受けたくない。

 ジュリアン・サロートは翌日、磔刑にされたとき、地下牢の中で出会ったものに、神の王が複製されればいいと思った。それが奇跡を呼び起こすか、死刑囚のための救済になり得るのかについては、ジュリアンは深く考えなかった。

 ジュリアンは神とどんな約束をしたのか何も思い出せなかった。ドラクロワと同じ場所に行くのだなと思い目を閉じた。

 花柄の処刑人は震えながら、ジュリアンの首に爆弾の首輪を嵌め込もうとしたが、指は反り返り、呪われた作業を拒絶していた。背後のオゾン大公妃からの視線を恐れて、指の関節に動けと命令し首輪の止め金をかけた。

 ジュリアンを殺した罪人は処刑場から逃げ去り、花柄の覆面を脱ぎ捨て、ミトレラの少年の顔に戻り、目に見えない誰かの叱責から遠く離れようとしたが、叱責は体内に入り、いばらのつたは彼の魂の表面を咎めるように這っていった。ミトレラは地下牢の階段で泣いた。流れ零れ落ちる涙はジュリアンの血ではないかと怯え、ジュリアンを処刑してしまった光景を思い出し、視界を奪われ階段を踏み外した。

 どうしよう。ジュリアン・サロート様をこの手で殺してしまった。仕方がなかったんだ。オゾン大公妃さまが見ていたから。どうしよう。神の王を殺した手で、これからどうやって神に祈ればいいのだろうか。そんなことはもう許されないだろう。生きるために殺したこの手で、生きるためにパンを食べなくてはならない。殺したことを忘れる努力をして、救われることを望みながら? 

 ミトレラの魂は二度と処刑場から出ることはなかった。


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