第38話 目は密かに元の持ち主たちに返された
「黒猫の舌」の首領のフィガロは、硝子の塔のオブジェウスの依頼を受けて、オゾン大公の跡取りのデックス公子の誘拐を試みるべく、大公邸にたった一人で侵入したが、恐るべき力を持った腕どもに見つかり、取り押さえられ地下牢に入れられ、先に囚われていた男にジュリアン・サロートと名付けられた。
フィガロはいざりより鉄格子に手をかけ、ミトレラに話しかけた。
「お前が処刑人か? あの男を殺してしまったのか? あの男こそがジュリアン・サロートだな?」
フィガロはミトレラの沈黙から、要領よくすべての事情を察した。
「あいつが言ったことは嘘だ。あたしは詐欺師でもあるから人が嘘をついているかどうかすぐ分かる。どう考えてみても、あたしが神の王のはずがないじゃないか。あの男のほうがジュリアン・サロートだ。でもあいつはもう死んでしまった。眠れる書物のことなんかさっぱり分からないけど、ジュリアンの意思はあたしが引き継ぐよ」フィガロは笑みを浮かべて言った。
「あたしが神の王ジュリアン・サロートになって、呪われたオゾン大公家を滅ぼすよ。大公妃も処刑する。あたしはこれから横穴から外に出て行く。あたしの体なら抜けられる。例え、穴が途中で終わっていたとしても、盗賊だから脱獄の一つや二つはできるさ」
「何でぼくにそんなこと言うの?」
「さあ、あたしにも分からないな。でもね、言っておきたかったんだ。あたしが穴を抜けて出て行ったら、あんたはあの変態妃に罰を受けるかもしれないからね、あんたには悪いけど。……でも、あんたなら、この穴を通って逃げることができるかもしれない。あたしと一緒に逃げる?」
フィガロの言葉は救いと誘惑の響きを秘めていた。差し伸べられた手のような言葉だった。
「でも母さまが……」とミトレラは逡巡した。
「あたしについてくるなら覚悟は決めな。もし、あたしとここから出てしまったら、あんたは二度と母親に会うことはできないと思って間違いはないよ」
燭台の炎はすべてを黙認していた。
「……ぼくは残るよ」
そのような手を前にして、目をつぶることは、とても辛い。
「そうだね。じゃあ、ちょっとの間、待っててな。必ずあんたとあんたの母親を助け出しにまた戻ってくるから。そのときは、あんたは眠りの騎士団でも黒猫の舌でもない。あたしだけの騎士になるんだ。あんたはこの場所であたしのために戦ってくれ。詐欺師の言うことは胡散臭いかい?」
これまでの十七年間の間にもフィガロは多くのものを盗んだ。パン、紙幣、宝石。
この上、フィガロはミトレラから何を盗むのだろう?
ミトレラは信じた。これからさらに、多くの人間を騙し、盗み、誘惑し、殺すことになるフィガロを、どんな占い師も同じことを占うフィガロの運命を、瞳の首飾りを、ミトレラは信じるほかなかった。
そのような憂鬱を、占い師ではないミトレラが抱えていたかどうかは分からないが、もうすでに、昨日によって決められていた同じフィガロの明日がやってくることはなかった。誰かの手によって、静かに瞳の首飾りは外され、目は密かに元の持ち主たちに返された。いや返されてはいない。まだ奪う前だから。フィガロは後ろを向いていたのか、そのことには気付かなかった。
鉄格子の間からミトレラはフィガロの手を握った。彼女の掌には苦難の痕が残っていた。それはフィガロがパンを盗んだときの手と同じものだったが、未来に受けるはずの苦難が今、フィガロの掌の中には顕われていた。暖かい手だった。これが神の王になろうとしている者の手なのか。ジュリアンの手に触れることができなかったことを繋ぎ合わせ、この手の温もりをミトレラは忘れなかった。
「もう、あたしは行くよ」
フィガロはそう言って、握っていた手を離した。
ミトレラはほとんど泣きそうになった。待って。その心の声が声帯に響くのを押し留めた。
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