第32話 私にはムカデを食べる必要はありません

 鉄格子の向こう側の燭台の炎だけが、茫漠とした闇から地下牢を呼び出し、同じ炎の力が地下牢を延命させている。硬く存在する牢獄を忘却するためには、蝋燭の火が消える日を待てばいい。そのとき囚人の意識は誰のものでもなくなるだろう。闇に操られる器官になって、闇と一つになれば、安心して眠れるのだろうか。静かな狂人になれるのだろうか。炎の揺らめきによって壁の影は這うように踊っている。


 壁に閉ざされ光の届かない左斜め前方の闇の奥から、沈殿した空気層に微妙に気流が生じるのか、耐え難い糞尿のすえた臭気が、定期的に嗅覚に押し寄せてくる。どうやらそこが糞尿を排泄する区間らしく、牢に住む者の唯一の秩序だった。匂い消しのために土で覆っているのかは、闇が一つの場所に集まりすぎているために判別できない。排泄地帯に近づくと、蝿の羽音が聴こえ、何匹もの蝿がドラクロワの顔を襲った。何十匹もの羽音の集合が、認識できない空間に輪郭を与えたが、どれだけの糞が地下牢を占めているのか、想像することさえ憚れた。

 横穴から這い出てきた黒光りするムカデが目の前の地面を蛇行していった。

 牢から出る前にアヴァロンは、無数の足を動かし身をよじるムカデをドラクロワの手の上にかざした。

「もう私にはムカデを食べる必要はありません。これはあなたの食料です。横穴から這い出てきたムカデは必ず食べてください。でないと恐ろしいことになります」

 アヴァロンは忠告して、ムカデを握りつぶした。紺色の体液がドラクロワの手の平に滴り落ち、石造りの手相の皺に沿って運命を読むように流れ出した。

 

 ドラクロワはムカデを見送った。足がいささか多すぎる生物は排泄区域の闇へと向かっていった。ふと地面に目をやると、バラバラに切断されたムカデの死骸の塊が無造作に捨てられていた。ムカデを食べた者が、体内への吸収を拒まれて吐き出したのかもしれない。不快な匂いが足元からも漂ってくる。胃酸の匂いなのか、ムカデの刺激臭なのか、よく判らなかった。

 占い族の村にいるときは人間と同じ食事をしていたが、水と塩以外の鉱物も食べることができた。冷たい眼で見られるのを恐れて、人前で岩石類を食べることは極力避けていた。牢の壁の岩を剥がして口の中に放り込み、飢えを凌いだ。ドラクロワはいつか金剛石や戒律が刻まれた石版を食べたいと思っていた。アヴァロンが置いていった光る石も十分に食指をそそられたが、石の体に相応しい自制心で何とか食欲を抑えた。虫や鼠を無理して食べる必要はなかった。また一匹ムカデが闇のほうへ這っていった。

 何とかしてここから脱出して、プーを取り戻さなければ。でなければ、闇の濃度が濃い、悪臭の根源である糞尿の区域へ、何度も排泄しに行かなければならなくなる。


 ドラクロワは囚われたことの恐怖から逃れるために様々な想念に心を委ねた。

 裏切り者ウラギョルへの怒り。自害したプーへの哀惜。石の赤子のプーへの愛着。マリアレスへの悔悟。そのマリアレスとの間にできた我が子カルへの戸惑い。奪われた槍。

 囚われたときに槍は奪われてしまった。戦いのための武器であり、占いの道具だった。槍さえあれば安らぎを得られた。他人の手に渡ったのは、これで二度目だった。

 ドラクロワが何頭ものジャッカルを槍で殺したとき、ブンボローゾヴィッチは、「我々は人の運命を読むだけだ。人の運命に干渉するには荷が重過ぎる。お前はジャッカルの死を予言し、それに合わせてお前が手を下した。それは占いではない。占い師は死神でも殺し屋でもない。他人の運命に積極的に干渉してはならん。お前はいつか過ちを起こすだろう。槍は占い師が持つべきものではない。これは封印する」と厳しく戒め、槍を取り上げた。

 ドラクロワは十三歳のプーに手首から血を滴下させ、槍が封印された場所を半ば強制的に占わせた。血の滴は回転し、砂の上にぬめり紋様を描いた。プーにしか見えない小さい目印は、北の洞窟の隠喩を描いていた。

「山の影。岩窟の奥にある秘密。氷と婚約している。闇に包まれた槍は前より刃先が冷たい。氷と婚約している槍はドラクロワが恋しいのか泣いている。岩窟には、恐ろしき人間がいるが、この者には害意はない。この者も氷と婚約しているが、我々は悲話を聴くべき耳を知らない。槍を持ち出したとしても、この者から災いを与えられることはないだろう」

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