第10話 赤く染まっていく布の中身
ブザーの帰りが遅いことを心配したプーは、族長代理のブンボローゾヴィッチに相談した。ブンボローゾヴィッチは砂時計の砂を移し変える儀式を何回か行った。砂の粒になった小人のブザーが溺れているのを砂時計の中に見つけた。ブザーは落ちていく砂に埋められ、手にした横笛を水中呼吸具のかわりにして何とか空気を吸おうとしていたが、指穴から砂が入ってしまうのか、しきりに横笛の穴からくじらの潮のように砂を噴き出した。目を近付けてその様子を見ていたブンボローゾヴィッチはすぐさま砂時計を逆さまにして、ブザーが片一方の瓶に流れ込むのを確認すると、素早く砂時計を真横にして、砂の流れを止め、ブザーの窮地を救った。斜めに傾いた砂漠が出来上がった。
ブザーは砂丘に腰を下ろし、被った砂を衣服から払っていた。硝子の外のブンボローゾヴィッチの血走った巨大な眼球を、ただの空に浮かぶ眩しい太陽のように見ていた。
「かなり良くないな。ブザーは捕らわれている。暗いところにいるな。地下だな。大公妃の怒りを買って、地下の牢獄に幽閉されているかもしれん。何を仕出かしてくれたんだ、あいつは?」
早速ブンボローゾヴィッチとプーは、ドラクロワがしたためた恐ろしく丁寧な文字の嘆願書を持って、ブザーを解放してもらうためにオーゾレムの都にある大公邸に向かった。
大公邸前の並木道をまっすぐに直進し、邸宅の門を抜けて中庭を歩いていたとき、プーは地面の下から横笛の哀しい旋律が聴こえてきたような気がした。地面に顔を近づけ、
「必ず出してあげるからね、父様」と励ました。
開いた扉から現れた花柄の覆面を被った男は、大公邸の執事長を名乗った。覆面は赤い花柄で、右目の部分だけが穴になっていて、庭園にいたアゲハ蝶が花と間違えたのか蜜を吸おうと布地に止まっていた。覆面の縁から白い長めの髪が覗いていた。花柄の執事の肩にブンボローゾヴィッチが両手をかけて、プーがその後ろについて肩に両手をかけて、一列になって大理石の廊下を歩いた。蝶も一緒に入ってきて、執事の頭にくっ付いたり離れたりした。
「およそ猫一匹分の重さまでなら、床の爆弾は反応しません。ですが、それ以上は……」
先頭の執事が説明しながら斜めにステップを踏み出すと、後ろの二人もそれに倣った。
右側の壁の向こうは中庭になっていて、窓から光が差し込んでいた。ここが爆弾屋敷で命懸けで歩いている、とは、知らされていない者から見たら、子どものお遊戯のような不思議な光景だった。途中にある小振りの花置き台の花瓶の手入れをしていた女中が、来客者が気になったのか、つい余所見をして爆弾を踏んでしまった。激しい爆音と爆風が巻き起こり、女中の右脚が血飛沫と共に千切れて飛んだ。ブンボローゾヴィッチとプーは顔を背けて片手で爆風を防いだ。装飾を施した壁や飾られた絵に血がかかり、絵の中の風景も貴婦人も凄惨になった。花瓶も台も粉々になった。若い娘は「いたあい。痛いよう」と脚を押さえて泣き叫びながら、廊下の上を血で汚して転げ回り、今度は右手まで爆発して失ってしまった。千切れた右手は、磨かれた床の上を滑ってきて、プーの足近くまで血の尾を曳いていた。花柄の執事は、肩に掴まっている後ろのブンボローゾヴィッチに止まるように制止させると、悲劇の渦中にある女中の元に歩いていった。腰帯に差してあった短剣を抜いた。切る前から血でこびり付いていた刃の切っ先は、喚いて暴れ回る女中に向いていた。
「その手でどうやって仕事をするというのです。お前はもう使い物になりませんね」
プーはどこに爆弾が埋め込まれているかも分からない床の上を、迷うことなく踏み出して、花柄の執事の短剣を持つ腕を掴んで止めた。プーの手首には自身の短刀によるいくつもの傷が見える。執事はプーの懇願する瞳を見て、ため息をひとつ吐くと、掌の中で回した短剣を腰帯に戻して、集まってきた女中に命じた。
「この女を連れて行きなさい、一人は千切れた足と手を持って。残った者は血で汚れた床の掃除をしてください。窓を開けて換気を。梯子を使って天井も拭いてください」
「さあ、大公妃の待つ部屋にご案内します。このようなことは日常茶飯事ですよ」
花柄の覆面の口元は、多分、笑っていたのであろう。天井にまで達した血が、滴になって遅れて落ちてきた。また三人が一列になって人間ムカデのように歩いているとき、プーは気になって後ろを振り向いた。手足を失った女中は、使用人室らしい部屋に連れられて入った。血が垂れないように布でくるんだ手と足を抱える別の女中が、死んだ目をしてプーたちの後をついてきた。多分、赤く染まっていく布の中身は、本人と縫合されることもなく捨てられて、可哀想な女中は暇を言い渡されるのだろう。
「私の可愛い猫を見つけてきたら、ブザーといったか、あの下賤な占い師は返してやろう。これほどの恩情があろうか」とオゾン大公妃は口元を押えて笑った。
「これを貸してやってもよい」
背景が黒く塗られている猫の肖像画をプーに渡した。
全身が白い体毛で覆われている少々小太りの猫で、額に焼け跡のようなハート型の黒い毛が生えていた。正面を向いて、礼儀正しく座っていた。現実の猫を絵の中に閉じ込めたような奇妙な存在感があった。絵によって飼われている猫といっていいほどだ。
この絵を描いた画家は充分な報酬をもらったことだろう。画家は大公妃にもらった金で義眼を買ったのだという。
「せめてブザーに食事を与えてやってはくれませんか。入り用な物を持って参りましたので。プー」
プーは急いで肩にかけた袋から、バナナやオレンジにパン、水筒を取り出した。
「駄目じゃ。いや、そうじゃな。お前たちの血肉なら届けてやってやらんことでもないぞ。手の指とか、耳とか、な。その水筒の中身を捨てて、血を満たせば良い。お前、あやつの子のプーといったか、あやつも自分の子の血なら喜んで飲むじゃろうて」
二人は拳を固く握りしめて、跪いていた。
「早くアヴェルを見つけて参れ」
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