#4 魔法をこの手に
食堂のマノア
実験場を出ると日はだいぶ傾いていた。
マクシミリアンは実験塔にいる知り合いの所に寄っていくと言っていたが、それは図書塔の合成獣を造り出した狂博士のことらしかった。
バールは朝から引きずっていた精神的な消耗とは違う心地よい疲れを感じながら、一人歩いていた。
自然と足はある方角に向かっている。
幻獣たちの意思のこもった不思議な目と、さっきまでの夢のような時間を反芻する。師匠は見世物じゃないと言ったが、バールひとりを相手に惜しげもなく魔法をいくつも披露してくれた。
次は自分の番だ。
(こんなにしてもらってるのに、おれに魔法を使う才能がカケラもほんちょっともなかったらどうなるんだろう)
師匠に試される重圧よりそれ以前の問題があった。
(もしも魔法が使えない致命的な欠陥があったら? ……師匠は冷めてる人だけど、それでも少しがっかりするかな、……つらいのは本人だってわかったうえで、心を痛めそうな気がする…)
魔法が使えないことはもはや自分一人の悩みでは済まされないような気がした。
(ああっどうしよう!!! ……うわぁあー、どうしようっっ)
心の底で絶叫しながら、黙々といつしか講義塔の近くまできていた。
はたと重要なものを忘れていることに気がつく。
「しまった……朝から具合が悪くてそれどころじゃなかったんだ」
うぅーんと悩んで、来た道を少し戻ることにした。
講義塔に隣接した講師たちの住居棟である〈魔術士の館〉を回り込んで、その脇にある食堂を目指す。
縦に長い魔術士の館を横にしたような広々とした低層の建物は、胃を満たすための拠り所でありマリテュスが王立の威信にかけて二番目に金をかけている場所と云われる。
無償で提供される食事はバールのような苦学生にとってはそのままの意味で生命線だった。
あたりをつけて搬入口に向かった。夕飯の時間帯はまだ先で人の出入りは落ち着いていて、裏手の芝生には午前中に使い終えた布類が干され、バタバタと一面に風にあおられていた。
洗濯物の林の向こうに人の気配がする。バールは話し声に向かってまっすぐ乾いた布をかき分けて行った。
「いやぁ若いみそらでかわいそうよ」
「旦那がいなくなったばかりで、ほんとよく働くよ」
「大変だろうにねぇ」
風に乗って会話が流れてくる。
少なくとも三人の年配者の声がした。
「マノアさんの前で口にしちゃいけないぜ?」
「言わないよ」
「そうかい? こっちが知ってるってわかってた方が、頼りやすいんじゃないかね?」
「本人が言わないんだ知らないふりを……」
(誰だろうマノアさんて……)
立ち聞きしているのと変わらない状況になっているバールの背中で「あの」というか細い声がしてぎくっと振り返る。
白い前掛けをつけた小柄な女性が大きなカゴを抱えて立っていた。
深い瑠璃色の親しみのこもった瞳を向けられて、バールは知り合いかな? と見入った。
「徒弟さんですか?」
優しい目元は少し垂れていて、
(とていさんですか……、ですか……、ですか……)
まるくて心地よい声がバールの頭の中で残響のように尾を引いていく。
年の頃は20代前半から百歩ゆずって半ば、明らかに年上である女性にバールはマリテュスに来てから初めて、まともそうな人間に出会ったような安心感を覚えた。
「食堂になにか御用ですか?」
呆けているバールを心地いい声が貫く。
「はっ……ええと、えと、あの」
すっかり何しに来たのか忘れている。
「洗濯もの重そうですね、おれが持ちます」
気がつけばそうはっきり告げていた。
相手がきょとんとした顔をしていようが、今思いついた提案だろうが、バールは自分の行動がぜんぜん間違っていない気がする。
「おやマノアさん、おかえり」
バールのでかい声を聞きつけた面々が井戸端会議を打ち切り、干し物をめくって現れた。
「誰だ、このあんちゃん」
(この人がうわさのマノアさん!?)
バールの体を激震が走る。
「干すのはこっちでやっとくよマノアさん」
食堂の仕込係らしい頭巾を巻いた人々に囲まれているマノアの姿をバールは遠巻きに眺めた。
話が本当なら、未亡人というにはあまりに若過ぎる。
マノアは洗濯カゴを引き取った壮年の男に礼を述べながら、バールに視線を向けた。
「マリテュスの徒弟さんみたいです」
紹介しつつ同意を求めてくる
「あんちゃん、道に迷ったのか?」
「ちがいます、ちがいます……あのう、小さい子が喜びそうなおやつを分けてもらえませんか?」
マノアがくれたそっとつままないと壊れてしまいそうな丸い焼き菓子は、口の中に入れるとほろほろと崩れて、香ばしい
「ぉおいしぃいい」
味わったことのない食感と
「ポルポローネというんですよ」
相当に甘かったが軽い食感にいくらでも食べてしまいそうだった。危険危険、これはキケンなおやつだ。
バールの頼みに食堂のおじさんおばさんは眉根を寄せたが、マノアがいいものがありますと厨房に消えて行くと、合点がいったのかバールを残してそれぞれの仕事に戻っていった。しばらくして小さな包みを持ったマノアだけが戻って来た。
「これ本当にもらっていいんですか?」
家系的に太りやすいことを家族全員から指摘されているバールは、淡い焦がし色の素朴な菓子を慎重に見つめる。
「うちの人が好物でつい作ってしまうんです。けれど、そんなに作っても食べきれなくて……」
(うわ、気まず……)
「もらってくれたら、うれしいです」
「……マノアさんのご主人は……いないんですか?」
マノアの顔からふっと表情がなくなる。
「主人は先月旅立ちました」
乾いた洗濯物は取り込まれ、新しく干された湿った布が重くたなびく食堂の裏手に人は絶え、建物から聞こえる仕出しの音が遠くで鳴っていた。
(またおれは余計なことを言ったのかな……)
師匠の叱る時の気配をバールは思い出していた。
ネリーの件にしても、頭では反省しているつもりでも、自分のうかつさが招く本当のところを理解できているとは言いがたかった。
「おれが代わりに食べます」
口をついて出た言葉はバール自身を動揺させる。
「え?」
止まっていたマノアの瞳が大きく揺れた。
「いや、あー、おれの友達もきっと喜ぶと思います」
瑠璃色の双眸から目をそらしバールは言い直した。
「気に入ってくれたら、また作りますね」
微笑むマノアの目には穏やかなうるおいが戻っていた。
「なんかいいことあったのか? バール」
図書塔の入口で昨日と同じ管理官にバールは声をかけられた。
「あ、ルシアスさんどうも〜、いぃえ、べつにぃ?」
「お前、大丈夫か? ……昨日はなんか悪かったな。ふらっふらだったから心配したぞ?」
昨夜マクシミリアンからの要請でネリーを運び出すのに手を貸した管理官は、ネリー・オーズの変わり果てた姿とおまけのようにぐったり憔悴したバールを目にしていた。どちらにも許可証を渡したのは自分で、無関係とは思えず責任の一端を感じていた。
うって変わって今日のバールはふわっふわしている。
「人って案外、単純かもしれません」
ひと言詫びを入れようと決めていたのがバカバカしく思えてくる腑抜け面を眺めながら、これが昨日よりマシな状態と言えるのか、管理官にはよくわからなかった。
「ごきげんだなバール。おれなんかマックスにめちゃくちゃ怒られたんだぞ。あいつ怒るとさー、浮気がバレた彼女から
「なに言ってるんですルシアスさん、例えがおかしいですよルシアスさん」
我に返ったバールが指摘しても図書塔の管理官は真顔だった。
「そこがいいんだけどな?」
「おれ師匠にそんな怒られ方したことないけど、叱られたいならルシアスさんも師匠に召喚術習ったらいいんじゃないですか?」
はっはとルシアスがはじくように笑った。
「バカ言うな、命がいくつあっても足りねぇよ」
(絶賛、教わってる最中なの目の前にいるおれなんですけどっ?!)
「まぁでも、元気そうで安心したよ」
ルシアスの荒削りな笑顔は、言動や男前の顔つきから厳しい印象を受ける図書塔の管理官の、案外頼りなくも憎めない面をのぞかせる。
どこか郷里の男たちに似た気安さをバールは感じていた。
「今日は何しに行くんだ」
「……結局借りられなかった本を取りに」
「昨日の今日じゃなくてもいいだろうに」
あきれるルシアスに苦笑して返す。
「おれもそう思います」
許可証と
うつし身の地上とは違い眠るような沈黙に包まれた図書の城は口を開け、臓腑に導くようにバールを飲み込んでいく。
沈黙と圧迫感に追われるバールは気を紛らわせようと思考をめぐらせた。
(講義塔を造るのだって大変なのに、どうして地下に同じものを造ろうとしたんだろう……)
順番的には図書塔の方が先で、後から講義塔が増築されたはずだが、当初の計画から決まっていた構造なのか。それとも、
(他に場所がなかったのかな……)
来館者と何度かすれ違い、それだけで気分が軽くなっていく。
図書塔を下りはじめてすぐにわかったことがある。人が多かった。
書架の間に講師のような
(ミンシカ、出て来てくれるかな?)
管理官にはまた嘘を言ってしまったが、本は口実でここに来たのはミンシカとの約束を守るためだった。
あれからどうしたのか、危険な目に遭わなかったか、急に別れた少女のことが気にかかる。
(ミンシカなら大丈夫)
そう思った。
さっきまで実験塔で目の当たりにしていたマクシミリアンの魔法と違い、ミンシカの魔法は、詠唱も杖も必要としないことにバールは気づいていた。
(ひょっとして魔法の上級者なのかな……そういえばミンシカのこと、おれ何も知らないんだ)
やがて昨夜ミンシカに出会った召喚術の棚まで降りて来る。
心配していた通りあちこちに本を探す生徒の姿がまばらだが目についた。
(会えたのはミンシカがおれに会おうと思ったからだって言ったよな)
待ち合わせをしていないミンシカに会うには、一人きりになることくらいしかバールには思いつかない。
来館者の数は図書塔を下るにつれ明らかに減ってきていた。
さらに続く回廊の先にバールは目を向けた。
(また死霊術の棚まで行かなきゃならないのか?)
今ならわかる。
(なんで昨日はなんの知識も準備もないままネリーを探しに行けたんだろう)
魔法に対する小さな気構えができたことで、今ならそれがどれほど無謀なことだったかわかる気がした。
突っ立っていても時間だけが無駄に過ぎていくので、仕方なく下層区に続く縦に下る階段で近道を図る。
(なんでおれ師匠に昨日のこと何も聞いてこなかったんだろう!!)
図書塔を下りはじめてバールが気がついたことは、来館者が増えていること、ミンシカに会う方法を決めていなかったこと、そして昨日の件から自分がまだ立ち直っていないことだった。
見覚えのある死霊術の書架を目前にしてバールは足を止めた。
ここへ来て人の気配がぱたりと途絶えている。
(知らないままの方が怖いのに、思い出したくなくて、最後に見たこともネリーの身に起きたことも知る勇気がなくて、師匠に確かめなかったんだ)
死霊は人の心理の隙をつく。
マクシミリアンの言葉を思い出し、そこから踏み出すことができない。当然予想された死霊に遭遇した時の対処さえ怠って来ていた。ぎりぎりまだ自分は安全だと思える場所から一歩でも近づけば、不安の方が優位に立ってしまう。
「……これじゃあ昨日とおんなじだ」
バールはかすかに呟いた。
(来るだけは、来たんだし……)
「もう、帰ろうかな」
「どうして?」
気配もなくかたわらに水色の髪の少女が忽然と立っていた。
その不思議さにバールはもうあまり驚かなかった。
「ミンシカ……本物?」
「本物かって聞いてニセモノだったらどうするの? 実体には影があるから本物よ?」
面白そうに赤い瞳を光らせて片足を上げて見せ、影が動くことを示す。
「ミンシカ、どうしてもおれは魔法を使えるようにならなきゃいけないんだ」
帰ることをやめて願いを口にする。
約束もミンシカも自分のために藁にもすがる思いで利用する気持ちがあることをバールは正直に悟った。
隠すつもりはなかった。
赤い瞳はバールの言葉をじっと見つめたあと、問い返すことなく願いを聞き届けた。
「わかった」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます