20-03 ――生きて

 俺は、客室の一番手前の座席にいる榛名と千葉へ駆け寄った。


 千葉は倒したシートに横たわっていた。

 榛名は、気を失っている千葉に防弾ベストを着せている。


「……磯野くん!」

「榛名! 千葉は、大丈夫なのか?」

「うん。さっきの衝撃で気を失っただけだから」


 榛名の表情はうつろだった。目の下のクマが深い。

 ……酷い顔だ。


「……俺の判断が遅かったばっかりに、」

「ちがう。磯野くんが、わたしをここに連れ戻してくれたから。千葉もハルさんも生きている世界に連れ戻してくれたから、だから――」


 俺は、榛名の言葉をさえぎって、抱き寄せた。

 涙が、たがいの頬をらす。


 数分間の死の連続が記憶にきざまれた、俺たち。

 チューブリニアの、千葉の死が存在する世界線。ライナスを、ハルを失ってしまった、絶望の世界。それは、生存世界の収束による肉体的な疲労を大きく上回って、俺たちの心をえぐり取っていた。

 精神が削られた直後の休む間もない窮地きゅうちのなかで、いまこの瞬間の抱擁ほうようは、お互いにとって、わずかな、けれど必要な、救いだった。


「ここから脱出して、安全な場所まで逃げ延びないと」


 榛名はうなずいた。


「俺が千葉を抱えて運ぶ。行けるか?」

「ええ、わたしは大丈夫。……千葉」


 千葉に防弾ベストを着せ終わると、俺はシートから彼女を持ち上げた。


「……痛っ」

「大丈夫?」

「ああ」


 さっきの首の痛みがひびく。

 我慢がまんできる範囲だ。ただ、長くは走れそうにない。


 千葉を抱え通路へ戻ると、ライオネルがジェット機のドアをひらいた。

 エアステアがりるのと同時に、生ぬるい空気が入り込む。

 外を見ると真っ暗な森が広がっていた。


 このなかを行くのか……。


「目を慣らしながら行け」

「はい。ライオネルさんもご無事で」


 別の世界線で俺たちを救ってくれたその男は、表情を変えずに軽くうなずき、拳銃を抜いて外に出た。

 つづいてハルも外に出ようとする。


「ハル!」


 ハルは振り向き、なにかを言おうとしたが、俺に微笑みを見せたまま外に出た。


 …………ハル。


「イソノさん、ハルナさんも、これを」


 ライナスが榛名に眼鏡を手渡してきた。

 しん東京とうきょう駅でも使った、ディスプレイ付きのものだった。


 両手のふさがっている俺に、榛名が眼鏡をかけさせてくれた。


「どう、見える?」

「ああ」

「目的地までGPS経由けいゆで表示してある。ただ、途中、敵からの妨害があるかもしれない」

「ジャミングですか」

「ああ。ここは高度四万フィートとはちがう。いままでのように通信つうしん障害しょうがいを仕掛けてくる可能性は十分にある。気をつけてくれ。ZOE、イソノさんに――」

「一二時の方向、真っ直ぐに七〇〇メートル進んでください。林道りんどうに出ます」


 ZOEの声とともにディスプレイに進行方向が表示された。


 それほどの距離ではない。

 しかし、千葉を抱えている俺と、杖をついて歩く榛名では時間がかかってしまうだろう。


「乗用車が一〇分後に到着します。カーキのSUVです。それに乗り込んでください」

「よし、イソノさん、ハルナさん気をつけて」

「ライナス」

「すぐに追いつくさ」


 ライナスもまた、エアステアを下りた。

 俺は榛名にうなずくと、ライナスにつづいてエアステアに足をおろす。


 しめっぽい外気がいきの生暖かさが肌に触れた。

 エアステアを壁にしながら、踏み外さないよう慎重しんちょうに降りる。

 振り返ると、榛名は杖をつきながら後をついてくる。


 抱えた千葉の頭や脚が、敵の進攻方向から死角しかくになっているエアステアからはみ出ないよう、身体をななめに向けた。榛名が下りる切るのを待つ。


 ここからだ。


「榛名、森のなかじゃあどっちにしろ全力では走れないだろう。お互いはぐれてしまうほうが心配だ。俺の上着うわぎそでをつかんで歩けるか?」

「わかった」


 榛名の、握力あくりょくの弱い左手が、俺の上着をつかむのを感じた。


 俺たちは歩きだす。

 前方にある森のなかへと、榛名の感触をたしかめながら。


 七〇〇メートルを歩き切るまでに何分かかる?

 そのぶんの時間を、ハルとライナスとライオネルが稼がなかればならない。けれど、これ以上はやく移動することはできない。


「ZOE、ハルたちとの通信はまだ出来るか?」

「三〇秒なら」

「頼む」

「……磯野さん」


 ハルの声がイヤフォンに届く。


「ハル、大丈夫か?」

「わたしは大丈夫です。ここは食い止めますので、安心してください」


 そうじゃない。


「ハルたちは、ちゃんと……逃げられるのか?」


 ……馬鹿やろう!


 言葉を吐いてから、あまりにも頭の悪い問いに気づく。

 そんなことを訊いてどうする。ハルは俺たちを安心させるために、気休めの言葉しか返してこないじゃないか。そんな言葉など聞きたくないのに。


 けれど、彼女の答えはちがった。


「あの……磯野さん、わたしは――」


 ごめん。ちがうんだ、ハル。

 俺が思い浮かべた返事の先回りなんて、しなくていいんだ。


「こういうときの、お別れの言葉が」


 ……お別れの言葉?


「ZOEは賭けに出たんだろ? なんでそれがお別れになるんだよ!」

「磯野さん、」

「……ハル、ダメだ」

「わたし、苦手で――」


 俺は、なにをしているんだ。

 どこかで、こうなることに気づいていたんじゃないのか?


 ZOEがどうにかしてくれる。

 そんな甘い言葉を、俺はどれだけ期待していたんだ?


 俺はただ、その言葉にすがっただけじゃないのか?


 ……なのに、


「ハル!!」

「だから、」

「……ねえ、ハルさん」


 俺ではさえぎり切れない彼女の言葉を、榛名がさえぎった。

 榛名が作り出した、三人のあいだの、わずかな沈黙。


 その沈黙を、彼女がふたたび破る。


「わたしたちが、この世界を救うから。ハルさんが生きていてもいい世界にするから、だから、


 ――生きて」


 発砲音が、響いた。

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