19-05 こころが押し潰されてしまうくらいに長く感じられた、わずかな時間だった

 八月一七日二二時〇一分。

 飛行機が離陸してから四〇分が経過していた。いつの間にか眠りに落ちていたらしい。G‐SHOCKから目を離し、機内を見回すと、シートベルト着用サインはすでに消えていた。一つまえの座席にいる千葉のそばに榛名が移って話し込んでいるのが見えた。



「おはようイソノさん」


 ライナスの声が左耳のイヤフォンから聴こえてきた。


「すっかり寝てしまいました」


 通路を挟んでライナスを見ると、ZOEを介して、周囲に聞こえないよう、小声でつぶやくようにして話しかけてきていたことがわかった。


「それはなにより。着陸後もまた慌ただしくなるからね。ところで――」


 ライナスはそこまで言うと一度言葉を切り、しばらく考え込むように押し黙ったあと、ふたたび口をひらいた。


「イソノさんは、この世界にしばらくいてどう感じただろうか」


 この世界のことをどう感じたか。


 突然の問いに俺は戸惑う。

 そりゃあ最初は、未来的な空間に面食めんくらったというのが正直なところだ。そして、訳のわからぬまま、霧島榛名と同じ容姿をしたハルに会い、そして……。


 彼女が撃たれる光景が頭に浮かび、それを振り払う。


 そう、この世界のこと。

 それは、夜空を見上げながらした榛名とのやり取りのとおりだった。


 ハルがいる、そしてライナスもいるこの世界を、なんとかして救いたい。

 救う方法はどこにも無い。けれど、それでも、


「私はね、この世界が消えてしまえばいい、そう思っているんだ」


 俺は思わず彼を見た。

 ジェット機の窓から照らされた月明かりの外光がいこうが、彼の横顔のシルエットを浮かび上がらせていた。


「この世界にも911、アメリカ同時どうじ多発たはつテロと似たような事件があってね。二〇年前のことだ。いま冷戦れいせんが続くなか、軍拡競争にふたたび火をつけるための軍産複合体による陰謀だなどと、当時は言われたが」

「911と似たような、ということは、この世界ではワールドトレードセンターは無事だったんですか?」

「この世界でも当然ターゲットとなり、ツインタワーのうち北棟きたとうにジャンボ旅客機りょかっきが激突し倒壊とうかいした」

「ということは、もう一つは」

「南棟は現在も残っている。その日は、君たちの世界の事件と同様、アメリカの複数の経済重要拠点への航空機激突および爆弾による同時テロが起こった。その目標の一つとなったロックフェラー・センターに妻がいた」

「奥さんが?」

「私はそのとき、MIT――マサチューセッツ工科大学にいてね。研究室からかけた電話が妻とつながった。ビルが崩れ落ちるまでの五分間だ。彼女の意識が失われ、途切れるまでのその時間は、こころが押し潰されてしまうくらいに長く感じられた、わずかな時間だった」


 ライナスは、一度沈黙したあと、ぼそりと言った。


「妻はね、身籠っていたんだよ」

「そんな」

「そのときに、私は妻と子を亡くした。八月七日以前にはこの世界は存在しないのだから、記憶や歴史があったとしても、それは嘘になってしまうのだろう。だが、私のなかには確実に存在している」


 ライナスは、座席に用意されていたミネラルウオーターのペットボトルをひと口つけた。


「あのときの通話記録は、当時使っていた携帯端末に今でも残っていてね。それはニセモノの記憶かもしれない。だが、そのときの絶望は、私にとってリアルなんだ。嘘の歴史だと頭で理解してさえ、その記憶を現実だと捉えてしまう原始的な人間という生き物。その一人である私にとって、その絶望はこれから先の人生を虚無と諦念で埋め尽くしたんだ。我々人間にとって、記憶とはこの世界をどう見るか、その目と同じものなのだろう。記憶が、己を作り、人生となるんだ。それが、嘘の記憶であろうとね」


 ライナスの経験した苦しみは、正確にはわからない。けれど、近いものを俺は七日に経験した。


 さっきも頭から振り払った、駅でのハルへの銃撃。


 あの瞬間、俺は絶望した。

 彼女を奪った相手への復讐と、それが出来ない無力感が、無数の発砲の振動となって己の体に響き渡った。


「テロを恨むのは当然のことだろう。だが、人類が七七億人に至ろうとしているこの世界では、どこかでかならず紛争が存在し、東西の摩擦によって人びとが死ぬ。短絡的な陰謀論などとは違う。この世界を維持するために起こされた儀式とその生け贄を、この世界は日々求めてくる。冷戦が終わろうとも、世界を維持するための犠牲は変わらないだろう。七七億の人口のうち、東西問わず、先進国のために犠牲を強いられる貧しい国の人びとが無数に存在し、祖国であっても私の妻と子のように、必要とあれば生贄を求められる。


 二〇年のあいだ、私は祖国に奉仕し、その光景を嫌というほど見せつけられた。テロ事件によって心を覆った失意。それでも、だからこそ、妻と子を奪った社会システムをいかにして是正するか。しかし、その研究は、挑戦は、ことごとく失敗に終わった。


 人びとが集う社会とそれを構築するシステムには、どうしても犠牲がともなってしまう。それが、自然なことなんだ。


 私は、すべてがどうでもよくなった。私にとって失ったものがあまりにも大切でありすぎた。それでも、全ては、この世界を維持するためには仕方がないことだと、そう私は頭で納得した。己を納得させるためにも、私はある言葉を当てはめた。


 それは「運命」だ」

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