19-06 それでも、まだ足りないんだ
「……運命」
「私たちの子はね、いま生きていればハルナさんと同い年くらいになるんだ」
自嘲するように、ライナスはつぶやいた。
「わかるかい。いまもなお代理戦争と非対称戦争が繰り返されるその世界で、私の家族を奪ったテロと、その奥にいる大国を止めるための手段に、今また、我が子と同い年の娘を生け贄に捧げなければならないということを」
え? 霧島榛名を生け贄に捧げる?
鷲鼻の男が言い放った言葉が理解できなかった。
「ちょっと待ってくれ。ライナス、」
「この世界のハルナさんが
「この世界の、霧島榛名?」
「きみとここにいるハルナさんでさえ、意識があってしまうことが、この世界を不安定にさせてしまっている」
俺は、ライナスの言わんとしていることをやっと悟った。
「……つまり、あんたらは、この世界の榛名の意識を戻せるってことか」
「合衆国政府は、この世界の安定化のために意図的に彼女を昏睡状態にしている。彼女を犠牲にして、この地球上の七七億人びとの安全を守っているんだ。言い換えれば、彼女を目覚めさせれば、七七億人を危険に晒すことになる」
七七億の人びとと一人を天秤にかけている。この男はそう言っている。
七七億がなんだ。そのために榛名一人が犠牲になるってのか。そんな理不尽――
……俺は、ライナスの奥さんの話を聞いたとき、どんな感情が湧いた?
気の毒だと思う気持ちはあった。
けれど、彼の話を、俺は冷静に聞いてしまっていたんじゃないか? どこかで、他人ごとなのだから、過去なのだから、仕方がないと思っていたんじゃないか?
そう、俺も身近な人が犠牲にならなければ、どれだけ残酷な出来事も人ごとのように受け止めてしまう。
いや、だれもかれも平等に大事にするなんてどだい無理な話じゃないか。それが普通なんだ。なにを悩んでいるんだ?
俺は心のなかの引っ掛かりを振り払おうとして、ライナスの奥さん、お腹のなかのお子さんと、霧島榛名を天秤にかけることについて考えてしまう。
七七億の人びとと一人を天秤にかけるということは、つまりそういうことなのだろう。あいまいな数字としてではなく、俺たちの周囲の人びと、ライナス、ハル、いや、この世界の霧島千葉だって、七七億人の天秤にかけられているんだ。
どちらを選ぼうと、俺は納得なんて出来るはずがない。
だけど、七七億人と一人の女の子が釣り合ってしまう天秤。その秤から、女の子を除いてしまったさきに訪れる未来を、俺は受け止めきれるのだろうか。
この世界の霧島榛名は、昏睡状態でいることで世界を安定化させている。昏睡状態とはいえ、彼女の命が無事であること。それが、この理不尽な問いへの
しかし、もし霧島榛名の命を奪わなければならなくなったら、俺は、あとさき考えずに榛名を選んでしまうだろう。
「富士ジオフロント脳科学研究所にいるこの世界のイソノさんも、同様の理由で昏睡状態にされているはずだ」
ライナスはそう付け加えた。
この世界の、俺。
「じゃあ、この世界の俺と榛名は、意識を回復させないことで、七七億人を救いつづけている。それしか、この世界を現状存続させるには方法が無いってことか」
そう言葉にしたとき、ライナスが言ったのと同じ言葉が、脳裏に浮かんでしまう。
――この世界が消えてしまえばいい。
自暴自棄でしかない。
ああ、それはわかっている。
けれど、俺はともかく大事な人が理不尽を被りつづけてしまう世界なんか――
「二〇年だ。この世界は、八月七日から一週間にも満たないのかもしれない。だが、私のなかには生まれてからの月日と、この二〇年の現実が存在しているんだ。私はね、きみたちのことに限らず、同じような、どうにもならない犠牲とその生け贄がいたるところに存在していることをひたすら見つづけてきた。それを承知したうえでいままでを生きてきた。それでも、まだ足りないんだ。その犠牲が、私の家族を失わせ、今きみたちを生け贄に捧げてなお、まだ足りないと言ってくる。もう、うんざりなんだ。だから、
――一度でいいから、一度だけでいいから、このどうしようもない世界を消し去ることで得られる救いを、味合わせてほしい」
最後のひと言は、とても、弱々しかった。
俺は、答えることができない。
この世界の二人を犠牲にしながら存続していく世界に対して、俺には怒りがある。けれど、解決出来る答えを、俺は持ち合わせていなかった。
ふと、離陸前にロビーで話した内容を思い出す。
――ZOEは、起動した瞬間からネットの海へと増殖し、西側の至るところにあるネットワーク・サーバーに入り込んでいる。
コンピューターウイルスと同義と取れるライナスの言葉。
いままでのライナスの発言を結び付けたさきに出てくる彼の行動は、人類のその運命を、人類を
「非常事態です」
突然、左耳からZOEの声が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます