10-02 大変なことになったね

 八月十六日 二〇時三二分。


 ようやくれたお盆明ぼんあけの夜、部室の蛍光灯けいこうとうをつけたところでドアがひらいた。


 ご機嫌きげんようの挨拶あいさつとともに三馬さんが入室してくる。

 三馬さんは、俺たちに笑顔を振りまきながら、


「遅れて申し訳ない。ドッペルゲンガーだって? 大変なことになったね」


 そこまで言うと三馬さんは目を止めた。

 視線の先には千代田怜。


「なんだい柳井。このサークルには美人しかいないのかい?」

「え、わたしのことですか?

「あ、最近はこういう言葉もセクハラに当たりますな。大変失礼しました。どうも三馬です」

「あ、いえいえ。あは、千代田怜です」


 怜はれ笑いしながら挨拶を返し、俺たち野郎三人にドヤ顔をむけた。

 なんというか、その、ちょろい。


 微妙びみょうな表情を浮かべた俺と柳井さんをよそに、三馬さんは、部室ドアの横にあるパイプ椅子を慣れた感じで取りだして座った。


「これは返すよ」


 三馬さんは、かばんのなかから例の大学ノートを手に取り、中身を軽くめくってから俺に手渡した。


「とは言っても、さっそく使うことになるのだがね。時間が無いのだが、柳井から聞いたドッペルゲンガーに対する一時的対処について少し時間をとろう」


 俺はノートをペラペラとめくり確認してみたが、特に異常はなかった。文字が追加された形跡けいせきもない。


「さて、柳井が送ったというSNSについてだが、もしドッペルゲンガーの磯野君から返事があったら厄介やっかいなことになる」


 厄介なこと?


「三馬、それはどういうことだ?」

「柳井、もともと磯野君が二つの世界をしている時点で、この世界に負荷ふかがかかっているんだ。いわゆる正常な世界から変質へんしつしてしまうゆがみの原因となる。この場合、ねじれと言ったほうが良いかな。しかし、いままでは世界に対して大きな変化が起こらなかったため心配は無かった。この世界において目の前の磯野君が観測かんそくされ続けているわけだから、二重スリット実験のように、磯野君が重なり合う状態でも結果的には君一人に収束しゅうそくされるはずだったんだ」

「二重スリット実験?」

「あーつまり……量子力学りょうしりきがくの世界だと、電子でんしや光は一つの粒子りゅうしとしていろんな場所に同時どうじに存在しているが、いざ観測されると、その粒子の位置は一箇所いっかしょに決定されてしまう。ようするに、量子の世界では粒子でありなみであるという両方りょうほう性質せいしつを持つということが、二重スリット実験で示されたんだ」


 と、柳井さんが俺たちに補足ほそくした。

 三馬さんは「ところがだ」と言って俺を見る。


「大学ノートによって重ねられた磯野君が、君一人に収束されずにドッペルゲンガーとしてこの世界に現れたとなると、この世界に二人の磯野君が存在してしまう。これはこの世界にとって、とても大きなねじれとなる。そのねじれた状態から我われとのやり取りが発生した場合、そこから分岐する無数の世界が新たに発生してしまい、比較的正常だった映研世界とのへだたりが拡大かくだいしてしまう」

「三馬、それはつまり、ドッペルゲンガーとやり取りをしたら、その事実によって、このオカ研世界がさらにねじれてしまうってことか?」

「そういうことだ、柳井。どうやったって大学ノートだけでおさまるしかない事象じしょうのはずだったのだが。目の前の磯野君一人に収束するとタカをくくって、ドッペルゲンガーの発生可能性について考えていなかった私があまかったよ。申し訳ない。インフレーション状態から情報を引きだそうと少し欲張よくばりすぎてしまったらしい」

「いえ。……けど俺には話がまったくわからなくて」


 柳井さんは深刻しんこくな顔を向ける。


「磯野、俺もあやまる。さっきのSNSは迂闊うかつだった。……事態を簡単に説明すると、ドッペルゲンガーとの交信こうしんによって、このオカ研世界が、映研世界から急速きゅうそくに離れはじめてしまう危険がある」

「それって――」

「今回はあと三〇分もすれば映研世界に戻れるだろうが、次にこちらの世界にきたら、オカ研世界と映研世界のあいだの距離きょりが離れすぎて、最悪さいあく


 ――帰れなくなる可能性が出てくるってことだ」


 ……それって、つまり――


「このあと俺が映研世界に戻ったら、むこうにいられる時間内にすべての決着をつけなきゃいけないってこと、ですか」


 柳井さんがうなずく。


「難しい……ですね」


 俺の言葉に、三馬さんが代わりに答える。


「柳井がSNSに送信したとき、ドッペルゲンガーがすでに消えていたらいいのだが……。こればかりはいのるしかないな。しかし、まずはこのあと発生する入れ替わり時間の話をしよう。正確な時間がわかった。八月十六日二一時〇四分五七秒。これがこのあと発生する入れ替わりのタイミングになる」

「二一時四分五七秒ですか?」

「そうだ。あと……二〇分程度か」


 三馬さんは腕時計から目を離す。


電磁波でんじは研究所で公開されている、電離層でんりそう観測装置の八月七日のデータを見てみたんだよ」


 電磁波研究所? 電離層観測装置?


「三馬、八月七日に太陽フレアでも起こっていたのか?」

「そう思うだろう? 違うんだ柳井。電離層はいたって静穏せいおんでね。それにもかかわらず八月七日の午前一〇時十五分から三〇分のあいだ稚内わっかない観測所イオノグラムに通信障害つうしんしょうがいのようなノイズが発生したんだ。この観測は一五分のインターバルで行われているんだが、その後は正常に動作どうさしていた」

「デリンジャー現象でも起こったのか? いや、電離層が静穏って言ったな。ならそんなことは起こらんか」

「ああ。仮にデリンジャー現象――電離層の異常による通信障害――だったとしても、非常に些細ささいなもので、無視むしできるレベルのものだったらしい。しかしやはり気になってね、今度は気象庁の地磁気ちじき観測所に問い合わせてみたところ、一〇時二一分三七秒に一秒間、こちらの観測装置でも誤検出ごけんしゅつとされるノイズを見つけることが出来た。計測けいそくの関係で一秒単位となっているだけで、実際は一秒に満たないわずかな時間だろう。なぜ誤検出とされたかというと、普通では考えられない規模きぼの、電磁気でんじきみだれを観測したからだ」

「三馬。その規模って一体どれくらいのものなんだ?」

「それが磁気じきあらしだった場合、電圧制御でんあつせいぎょ不能ふのうになり数日間に渡る停電ていでんが起こる。つまり大規模災害だいきぼさいがいレベルだ。ところが実際には、稚内の観測所が一時的に不調ふちょうになっただけで、他には何も起こっていない」


 ただし、と三馬さんは続ける。


「よくよく調べてみると、この誤検出が四箇所の地磁気観測所から同時に発生していた。そして、今確認しているところでは、アメリカ、カナダ、イギリス、スウェーデンの各観測所でも同じ時間に、同様どうようのノイズが発生していることが分かった。つまり――」


 三馬さんは一度言葉を切り、この場にいる全員を見渡して言った。


「この異常観測は世界規模で起こっている」

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