09-09 お姉ちゃんのこと、どう思いますか

「俺に伝えなければならない話?」


 それって、


「榛名がいたら話せないことなの?」

「いえ、おねえ……姉がいてもつかえはないんですが、けど、


 ――やはりつらいことだと思うので」


 つらいこと? 榛名にとって?


 と、そこへ水出しアイスコーヒーが運ばれてきた。

 ちばちゃんは丁寧ていねいにガムシロップとミルクを入れてストローで軽くかき混ぜ、ひとくちつけると、小さくほころんだ。ちばちゃんはグラスを置き、一度目を閉じたあと、すっと顔を上げて口をひらいた。


「あの、一昨日おとといの部室で磯野さんがお話ししていた映画研究会の世界の姉は、杖をついていたんですよね?」

「え? ああ。一年前にも見かけていて、そのときは車椅子だったんだ。だから一年のあいだに杖をつけるくらいに――」


 そこで、俺はハッとしてちばちゃんを見た。

 ちばちゃんはこくりとうなずく。


「こちらの姉も、二年前に事故にいまして。たぶん、その事故は同じ時期なんだろうと思います」


 二年前ってことは榛名が大学に入る一年前か。


 同時期に事故に遭って、映研世界の榛名は足を不自由にし、この世界の榛名は五体満足に過ごしている。運命とはいえ、こうもその後の境遇きょうぐうが変わるのか。なんとも言葉にならない。


 あれ? ちばちゃんはさっき、って言ってたよな。それって――


「そのときの事故で、父がくなったんです」


 え?

 ……いや、まってくれよ。


 模型研で名前の由来の話になったとき、榛名は父親が亡くなっているのに、あんな、平気な顔をして話してたのか?

 サークル旅行の運び出しのときのあのエアガンは、亡くなった父親の遺品いひんってことなのか? だから……父親じゃなくて、柳井さんたちがアドバイスを……。


 血の気が引くのと同時に、悲鳴のようなものが心の中を埋め尽くす。


 おい、なんだよ。あいつはそんな大事なこと、なんで俺たちに……黙ってたんだよ。水くさいなんてもんじゃないだろ。だけど……あいつは。


 もう一度ちばちゃんに顔を上げると、ちばちゃんは、俺の動揺どうようがおさまるのを待っていてくれたのだろう、切なさを隠すように微笑んだ。


「自動車同士の事故で。そのとき、姉が助手席に乗っていて、父はぶつかる車から姉をかばうために、無理やり車を横に向けて。姉が気づいた時には、父が……姉に覆い被さるように、守って……。だから姉は、自分自身を――」


 ちばちゃんの瞳から、つうっと一筋ひとすじ、頬へと流れ落ちていく。


「あの……ごめんなさい」


 俺は、返事を返すことが出来なかった。


 ちばちゃんは、ポケットからハンカチを出して涙をぬぐい、顔を上げた。


「ふだんの……お姉ちゃんのこと、どう思いますか?」


 突然の質問に俺は戸惑とまどう。


 ……榛名のこと?


 数瞬ののち、目の前にいる少女の訊きたいことが、なんとなくわかった。


 榛名のこと……か。

 俺……いや、オカ研のもう一人の俺の記憶をたどる。

 そう、あいつは、


「……話しやすくて、親しみやすくて、いたずら好きなところはたまにうんざりするところもあるけど――」


 けど、


「あいつは……実は人をよく見ていて、そして気を遣うやつだなって思う。そんな榛名は、本当は、そう、いまにも崩れてしまうような、それくらい繊細せんさいで、だから見ていて心配になることが……たまにあって、だから気にかけてやんないとって」


 そして、多分、俺は、

 この世界でも、榛名のことを――


 ちばちゃんは一度大きく瞳を見開いたあと、ほつれるような微笑みをたたえながら、もう一度、ハンカチで目元をぬぐった。


「……ごめんなさい、お姉ちゃんのこと、そう思ってもらってるって、そのことが嬉しくて」


 ちばちゃんは「ありがとうございます」と言った。

 伏せるように目をテーブルへ落とす。


「お姉ちゃんは、父のことで自分を責めてしまっているんです。全然悪くないのに。お姉ちゃんのせいじゃないのに。……お姉ちゃんも、それはわかっているのに、どうしても。どうしても自分自身を追い詰めてしまって。それで、お父さんの分まで家族のこと頑張ろうとして、お母さんやわたしに悲しい顔させないために明るく振舞ふるまって……」


 そうか。


 榛名のあの明るい態度って、

 無理している感じって、


 そういうことなのか。


「ここ一年のあいだ、お姉ちゃんがオカ研の皆さんと仲良くしているの、わたし、とても嬉しかったんです。無理してるのはわかるんだけど、それでも、みんなと仲良くして、笑って、過ごしているのを見てとても嬉しくて――」


 だから、と、ちばちゃんは、目を濡らしたままで俺を見た。


「ありがとうございます――って、どこかで言わなくちゃって」


 濡れた笑顔のまま崩れてしまいそうな、そんなちばちゃんを、俺は微笑んだままうなずいてやる。


「映研の世界のお姉ちゃんの手がかりになるんじゃないかって。やっぱり伝えなきゃって。それに、今夜はわたしもお姉ちゃんも、部室には行けないから――」


 そこまで話すと、ちばちゃんはハンカチで涙をおさえて呼吸を整えた。そうやって、ちばちゃんは気持ちを落ち着かせたあと、目元めもとせ、少しためらい気味に言った。


「……あの、磯野さん。もし向こうの世界の、映画研究会の世界のわたしに会ったら、もし差し支えなければですが……家族のこと、訊いていただいてもいいですか?」


 そんなことなら――

 それくらいのことなら――


「ああ。任せとき」


 俺は答えた。

 わざと、笑顔で。


 ちばちゃんは、顔をほころばせ、微笑んだ。

 そして「はい」と返事をした。

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