09-08 父親の顔見たくなくてね

 俺の胸の奥に、チリチリとした痛みのようなものが浮かんだ。

 いやいや、まだなにも解決していないなのに、なに感傷的かんしょうてきになってるんだよ。


 俺は気を取り直して顔を上げると、枝豆をつまんでいる榛名と目が合う。

 晴れやかな浴衣のその美しい着姿きすがたに、油断するとまたもや見蕩みとれてしまいそうだ。

 いや、油断していたのだろう。しばらくのあいだ、見蕩れていたらしい。気がついたときには、ほんのり頬を赤らめた榛名が俺にグラスをかたむけるジェスチャーをしていた。


「おっと……」


 グラスのふちに口をつけていたままになっていたことに気づいて、ジントニックをひとくち飲んだ。


 榛名から目をそらし、グラスを置いてそれを眺めると、今度は「色の薄い世界」の海岸、そして俺に向けられた榛名の悲痛な表情が思い浮かんでしまう。


 オカ研世界にいるあいだはなにも出来ない。考えても仕方ないんだ。だから、


 ――十六日の夜、映研世界に戻るまでは悩んじゃいけない。


 そう頭のなかで言い聞かせて、ジントニックの残りを飲んだ。

 一気に飲みすぎたのだろうか、酔いが早めにまわったらしい。

 気を取り直して顔を上げると、俺を見つめていたらしい榛名が、慌てて目をそらした。その仕草がまた……いや、頭を冷やせよ俺。



 飲み会もひと段落すると、おもに元気な連中――千代田怜、霧島姉妹、竹内千尋は盆踊りに参加した。

 つまり俺と柳井さんはそれを眺めるわけだ。こういう時間をのんびり過ごしていると、さっきまであった焦りのようなものも、いくぶんやわらいでいった。


「磯野は踊らなくていいのか?」

「俺は遠慮しときますよ」


 盆踊りなんて中学以降いこうまったく踊っていなかったことを思い出す。

 まあ、いまさら衆目しゅうもくさらされながら踊りたいとも思わないのだが。


 ちばちゃんがこちらへ駆け寄ってくる。

 と、俺の前でつまづいた。


「おっと」


 俺は数歩踏み込んで、倒れこむちばちゃんを正面から受け止めた。

 ちばちゃんは俺の胸に飛び込むような形で抱かれ――って、なんというラッキーなんとか展開てんかい

 いい匂いのするちばちゃんをまた転ばぬよう抱き起こして、俺は適切な距離に戻った。最高の思い出だ。この瞬間を記憶に刻めよ磯野!


「ごめんなさい」

「どういたしましてですとも」


 ちばちゃんは頬を赤らめながら「磯野さんと柳井さんも一緒に踊りましょう!」と、俺たちの手をつかんだ。


 俺と柳井さんは苦笑いを交わしながらも、目の前の美少女に誘われては、野郎二人、されるままにならざるを得なかった。


 盆踊りを楽しみひと息ついたころには、おひらきの時間になっていた。

 てなわけで、おもに千代田怜ご所望しょもうのサークル旅行プラス夏祭りイベントは無事ぜん行程こうていを終了したのである。


 それぞれ帰路きろくことになったのだが、


「そっか、榛名とちばちゃんは十七日まで部室来れないんだね」


 怜が残念そうに言う。


「墓参りがあるからなー。というか、ほかのみんなも墓参りだろ?」


 榛名の問いに怜以外の全員がうなずいた。


「おい、怜。そういえばおまえは実家に帰らないのか? 苫小牧とまこまいだったろ?」

「父親の顔見たくなくてね」

「まだ喧嘩けんかしてるのか。いや、べつに人様ひとさまの家庭事情をとやかく言う気はないが」


 ちばちゃんを見ると、なんだか切ない表情で怜を見つめていた。

 が、俺の視線に気づくと笑顔になってこちらを見た。


 そういえば、今夜これで解散だとしたら、ちばちゃんの話も十七日以降になってしまうんじゃないか?

 しかし、その後もちばちゃんに声をかけられることもなく解散かいさんとなり、八月十四日は終わった。




 翌日、八月十五日は、さすがにオカルト研究会も休業となった。

 ……ていうか、ふだんもなぜ毎日通っているのかと一人ツッコミが入る日々ではあったのだが、まあ今日は休みだよな。休み。


 磯野家も市内の霊園れいえんで墓参りを済ませ、親戚しんせきの家で珍しく回らない寿司を食べたことで、つかの間の幸せに浸ったのだった。


 帰ってきた午後四時ごろ、SNSの通知に気づいて待受まちうけ画面をひらく。

 ちばちゃんからだった。




 八月十六日 午後三時一二分。


 お盆明けのその日、円山公園まるやまこうえん近くにある喫茶店きっさてんで待ち合わせとなった。

 

 ちばちゃんは霧島家の親戚が集まる中を抜けだしてくるらしい。

 それならばと俺はちばちゃんに恐縮きょうしゅくされながらも、霧島宅に近いこの喫茶店を提案ていあんしたのだった。


 地下鉄から地上に出たあと、公園から聞こえてくるミンミンゼミとアブラゼミのたがいにきそい合うき声にうんざりしながら店内に入ると、世界は、すずやかな空気と落ちついたジャズという極上ごくじょうの空間へと切り替わった。


 シックな雰囲気の静かな店。

 ちばちゃんの「お話」を聞く空間としては悪くない。

 ただ「抜け出す」という言葉から苦戦くせんしているのであろう、ちばちゃんは待ち合わせ時間よりも一五分ほど遅れてやってきた。


 カランと鳴るドアベルとともに入ってきたちばちゃんは、白のブラウスにカーディガン、そして、スカート姿。

 彼女は店内を見回して俺を見つけた。こちらに振り向いたその姿に、一瞬、映研世界の霧島榛名を見ている錯覚さっかくに襲われた。


「遅れてごめんなさい」


 そう言って目の前の席に腰かけたちばちゃんは、いつもとはちがった気品きひんかもし出していた。


「着替えるのに時間がかかってしまって」

「ううん。大丈夫だよ」


 俺はそう言ってメニューを渡すと、ちばちゃんはさっと目を通し顔を上げたところで、ウェイターが水を運んできた。


「あの、水出しアイスコーヒーで」


 注文のあと、ちばちゃんは緊張した面持ちで言った。


「お時間いただきありがとうございます。実は磯野さんにお伝えしておかなければいけないお話があります」

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