09-02 腑に落ちない……ですか?

呼吸こきゅう一つ、ペンのかたむけかた一つ、些細ささいなことから少しずつ大きな違いが生まれていく。それが、この文章のとなってあらわれている」

「じゃあ、あの文字の浮かび上がり現象はどうして起こるんですか? 俺が書く前から浮かび上がるのは」

「予想だが、この大学ノートは、無限に近い磯野君を結びつける役割やくわりを果たしているんだ。


 重なり合う磯野君の中で、


 ――私たちの目の前にいる磯野君より早く書かれた文章があれば、先ほどの、文字の浮かび上がり現象してあらわれる。


 同様に、重なり合う磯野君よりも、


 ――目の前の磯野君が一番最初に書いた文章は、文字の浮かび上がり現象が起こることは無く、そのまま書き込めるはずだ」

「けど、それだったら俺がペンを近づけたことで文字が浮かび上がる原理げんりはどうなっているんでしょう?」

推測すいそくだが、すでに他の世界の磯野君がノートに書き込んでいる状態で、


 ――この世界においても書き込むという事実


を与えてやると、文字の浮かび上がり現象が起こる。つまり磯野君がノートに書く――正確に言えば、ペンをノートに近づける――ことで、他世界からの書き込みが反映される。つまりこの瞬間に、シュレーディンガーの猫の入った箱をきみは開けているんだ。

 ただし、やはり書いている事実があるからだろう、文字の浮かび上がり現象で何ページにもわたる長文ちょうぶんになった場合、磯野君にも疲労ひろうが出るというわけだ」


 三馬さんは開いたページを指さす。


「さらに、磯野君が意図いとしてないと思われる文章がここにもある」



 そこには身に覚えのない一文が書き加えられていた。


 ――インフレーションが起こっている。あまりに集約しゅうやくし過ぎるのは危険かもしれない


「これも、俺の字……です。けど、」

「心当たりは無い?」

「はい。思い浮かべてはいません」


 三馬さんはうなずいた。


「見てくれ。この一文は他と比べて、それ程にじんではいない」

「……たしかに、三馬これはなんだ?」

「柳井、語弊ごへいがあるが突然変異とつぜんへんいのようなものだよ。無数の磯野君の中から、突如とつじょ、違う観点かんてんから書き込まれた文章が現れる。ただ現在は、無数にいる磯野君の重なり具合はまだ強いと思うんだ。だが、そろそろそこから大きく逸脱いつだつした磯野君の書き込みも増えてくるだろう」

「それって、俺が経験していない内容の書き込みが出てくるってことですか?」

「その通り。突然変異からの磯野君の多様化たようかの爆発的加速へとつながるわけだ。覆水盆ふくすいぼんに返らず――エントロピーの増大ってやつだな」


 ……突然変異?


「三馬、この大学ノートに関わっている磯野はどれくらい増えていると思う? フィボナッチ数的に増えていると言っても一週間程度だ。それなのにこのノートの書き込み具合からすると相当な数になっている気がするが」


「柳井、おそらくだが九日の時点、初めて大学ノートに書き込んだ起点となる瞬間に、すでに無限に近い磯野君がノートに関連付けられているはずだ。そこからまた増殖する磯野君も含めて、書き込まれる文章の差異さいがあらわれるわけだが、その差異の増加の単位時間が一秒なのか一分なのか、それとも一時間なのかはわからない。だが書き込みとにじみ具合を見るに、すでにこのノートに関わる「差異を伴った磯野君」は、膨大な数に至っている可能性がある」


「だが三馬、この文章はその多様化、インフレーションに関して危険だと警告けいこくしているぞ?」

「この文章は内容から、が、磯野君に書かせた文章のようだ。とはいってもに落ちないがね」

「腑に落ちない……ですか?」

「ああ。現時点では、この大学ノートに出来るだけ多くの磯野君を関連かんれんづければ、そのぶんわれわれの知り得ない情報と接触出来る確率かくりつは高くなる。メリットしかないのだが、この警告とは別に――」


 三馬さんは、大学ノートの白紙部分の厚みを俺たちにふたたび見せる。


「その私たちの知り得ない、もしくは特に共有したい情報をメッセージとして書き込むには、悲しいことに二〇ページ程度しかない」

「……あの、もしノートがなくなったとしても、新しいノートを用意すれば――」

「ここまで多様化された磯野君たちをたばねている状態は、この大学ノートでしか維持いじ出来ない。新たなノートを用意するとして、この大学ノートに関連づけられた磯野君たちが、次もまた全く同じノートを用意出来るとは限らないんだ」


 そうか。すでに俺の意図してない書き込みが増えているのに、その磯野たちが、かならずしも次に俺が手に入れるノートと同じであるわけではないのか。


「けど、このノートの二〇ページには手を出さずに、新たなノートに比較的ひかくてき重要ではない情報を書き込むっていうのはどうです?」

「それも、この大学ノートとは別にもう一冊用意した時点で、二つのノートを所有しょゆうしているという条件じょうけんに合わない世界は、関連づけから切り離される可能性が出てくる。なるべく、いま関連づいている状態から動かさないことが、この多様化を効果的に利用する前提ぜんてい条件となるだろう」


「とは言ったものの」と三馬さんは一度言葉を切って、わざとらしく笑顔を見せた。


「ここまでの話は結局『オールトの雲』について語っているようなものなのだがね」

「オールトの雲?」

太陽系たいようけい球状きゅうじょうに取り囲んでいるとされる仮想的かそうてき天体群てんたいぐんのことだ。三馬が言いたいのは、実際そうであるかは確認できてないから誰にもわからないってことだな」と柳井さんは補足ほそくした。

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