04-08 やっぱり文字がちがう……かな

 学生食堂にむかう途中、学生生協がくせいせいきょう前のベンチを通りすぎたとき、俺は色の薄い世界のことを思い出して背筋せすじが寒くなった。


 あの誰もいない無音の空間には二度と迷い込みたくない。

 そんな怖れからか、目に入ったあのベンチが色の薄い世界の入口に見えてしまう。だが昨晩さくばんの世界の切り替わりの瞬間に感じたあの色の薄い世界と同じ「匂い」のことを考えると、この事態を解決かいけつさせるには、もう一度どこかであの世界におとずれなければならないんだろうな。




 学生食堂は、おぼん前ということもあって、昼食をとる学生はまばらだった。ちばちゃんは到着してすぐに窓際の席を取っておいてくれた。俺と柳井さんはそれぞれ注文ちゅうもんを受け取ったあと、ちばちゃんの横と向かいに座った。


「磯野だけならともかく、ちばちゃんも見たって言うしなあ。常識的に考えれば、見間違えじゃないかと疑うんだが……。実際のところ、俺も見てみないとなんとも言えないな」


 俺はただうなずかざるをえない。


「あとでなにかしら再現さいげんができればいいな」


 柳井さんの言葉に俺と同じようにうなずくちばちゃん。

 目撃者もくげきしゃとしてみんなに信じてもらいたい気持ちが強いのか、ちばちゃんのうなずきにもいささか力がこもっているのがわかる。柳井さんは俺たちの様子を見ながらカレーを口に運んだ。


 俺も麻婆豆腐丼まーぼどうふどんをひとくち入れる。ひさびさに食べたけど三九〇円でこれはおいしい。


 再現か。


「最初に書いた箇条書きと……そのあとの「あいうえお」のなにかがちがうから再現できないってことか」


 俺のひとりごとに柳井さんはうなずいた。


 まず明らかにちがうといえば――


「やっぱり文字がちがう……かなあ」

「あのなあ……」


 あきれ顔の柳井さん。そこへ竹内千尋が、俺とちばちゃんの向かいに牛トロ丼をせたトレイを置きながら座った。コイツ、いつも牛トロ丼頼んでるな。


「そもそも磯野はなんで書き込もうと思ったの?」

「あ、わたしも気になってました」


 プリントの裏に書き出した――正確には書き出そうとしたものが浮かび上がった――あの箇条書かじょうがきについて、どこまで話すべきだろうか。


「ここ数日あわただしかったからさ、一度出来事できごとを整理してみようかと」


 俺の言っていること、間違っちゃいないよな?


「なるほど」

「確かに一昨日は大変でしたねー」


 千尋とちばちゃんは、それぞれ似たような反応をしながら昼飯に口をつけた。一方の柳井さんは、いつの間にかカレーを大半たいはん食べ終えて、グラスの水を一気飲みしていた。相変わらず早食いだなこの人。


「二つを比較ひかくすると、箇条書きは、磯野の言うところの頭の中を整理するためのメモなわけだ。だが言いえれば、自分自身とはいえなにかしら相手に伝えようとする、いわゆる伝達意志でんたついしがあったとも言える。しかし「あいうえお」は文字どおり、ただの意味をなさない文字の羅列られつだ。そこに伝えようという意志もない」


 なるほど、言われてみればその通りだ。


「一方で、そういう要素ようそは関係なく、場所と時間が重要ってこともあるかもしれない」

「ちょっと! わたしがいないあいだに話進めないでくださいよ」


 千代田伶がそう言って、ちばちゃんのとなりに腰をかけた。こいつの昼飯は、学生生協で買ってきたたまごサンドとコーヒー。そして、


「はい、これ必要でしょ?」


 と言って、大学ノートを手渡てわたしてきた。


 大学ノート……。


「ルーズリーフとかリングノートのほうが便利かなと思ったけど、さっき大学ノートって言ってたから」


 こういうところは気がくよなこいつは。素直にありがたく受け取っておこう。

 怜を見ると涼しい顔をしていたが、わざわざ気を利かせるあたり、今回の件についてこいつも内心ないしん盛り上がってるのかもしれない。


「一二〇円」


 そう言いながら手を差し出す千代田怜。


「え? 学生生協なら税込ぜいこみ九八円だろこれ」

手間賃てまちんだよ言わせんな」

「おまえのこと少しでもめようと思った俺が馬鹿だったわ」

「当事者はあんたでしょ」


 そりゃそうだが……釈然しゃくぜんとしねえ。


「なるほど、たしかにさっきのプリントの裏とノートの比較も必要だね。あのプリントだけで発生するのか、ほかの紙でも文字は浮かび上がるのか。そもそも磯野じゃなくても文字を浮かび上がらせられるのか。なんだかワクワクしてきたよ」


 俺たちのやり取りなどおかまいなしに、無垢むくな少年のように竹内千尋ははしゃぐ。ほかのやつが言うのならわざとらしく聞こえるのだろうが、こいつの場合は本心だからなあ。

 千尋の言葉が心強こころづよかったのか、向かいの席のちばちゃんもまた目を輝かせながら千尋を見つめていた。


「ところで磯野、さっき書き込んでたのって――」と千代田怜。

「ああ、九月祭のなんかの申請書類しんせいしょるい……だったかな」

「ちょっと、なんでそんなものに書き込んでるの? また委員会に取りに行かなきゃいけないじゃない」

「手ごろな位置にあったんだからしかたないだろ」


 俺の無理筋むりすじな言い訳に、怜はぶつぶつと文句をつづけた。


 とりあえず、みんな乗り気なのはありがたい。このままあの超常現象を上手く再現できればいいんだが。

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