01-07 ダメだ考えろ。思考を止めるな

 そうだ、部室だ。部室に戻るべきだろう。


 俺は一歩踏み出す。

 もう一度、足音が世界に響き渡った。静寂せいじゃくを乱すこの異様いよう残響ざんきょうが次の一歩を躊躇わせる。


 ――それでも、動かなければ。


 脳裏のうりに浮かんだその言葉が力となってもう一歩。それが次第に連続となって床のタイルから離れ、俺は歩き出した。




 廊下に出ると、さっきまで立ち話をしていた学生たちはいなくなっていた。

 廊下の窓から差し込んでいた夏の日差しは、いまは無い。窓から空を見上げると、どんよりとした厚い雲のようなおおわれていた。というのも空を覆うそれは、やけに整然せいぜんき詰めらていたからだ。


 ここで光源こうげんが無いことに気づく。

 自分で言っていておかしいのだが、太陽や蛍光灯けいこうとうなどの周囲を照らす光が無いんだとしたらこの世界は真っ暗なはずだ。しかし俺の目にはちゃんと見えている。光源は無くともこの空間には一定量の明るさがあり、物体ぶったい輪郭りんかくを表す明暗めいあんがあり、だからこそこの空間になにがあるのかがわかる。


 しかし、これは物理的ぶつりてきにおかしい。


 だが俺はこれと似たものに見覚えがあった。

 いつだったか竹内千尋が使っていた3Dソフトの画面。あれに近い。照明しょうめいが無いにもかかわらず物体が見える世界。モデリングをするには好都合こうつごうな空間。つまり俺の足もとには、


 ――かげが無かった。


 物体から離れた影は無い。


 異常だ。異常なのだが、まずは――


 文化棟三階にたどり着くあいだに、俺は誰一人遭遇することはなかった。

 部室の前まできてもなにも聞こえない。そもそも人の気配けはいが無い。だがどちらにしろ確かめなきゃしょうがない。俺はドアノブに手をかけゆっくりとあけた。


 やはりと言うべきか、部室には誰もいなかった。


 みんなはどこに行ったんだ?

 いや、俺はどこに迷い込んだ?

 そもそも、ここはどこだ?


 頭が真っ白になりそうだ。なにから考えればいいのかわからない。気を抜くと途方とほうれてしまう。


 ダメだ考えろ。思考しこうを止めるな。なにか――なにか手がかりは?


 ふと目にとまったソファには千代田怜の荷物がそのまま置かれている。

 俺はスマートフォンを取り出して通話履歴つうわりれきを開き、最初に表示された竹内千尋の番号をタップした。呼び出し音だけが部室に響く。怜は? 柳井さんは?


 両親も含め誰にかけてもつながらない。SNSも既読きどくにならない。この空間に俺一人が迷い込んだのか? もしくはつながらないだけで、みんなはこの空間のどこかにいるんだろうか。


 頭の中に浮かび上がる疑問に思考が追いつかないまま、俺は部屋の中に視線をさまよわせていると、ソファの上に置いてあるちばちゃんの鞄が目に入った。


 ――あの大学ノート


 いや、ノート一冊いっさつでこんな得体えたいの知れない空間に放り込まれるなんてことがあり得るのか?


 だが俺はあのノートを見て眩暈をもよおし、そしてこの空間に迷い込んだ。この状況に至った原因があるとすれば、あの大学ノートが一番疑わしいんじゃないのか? そもそもいま置かれている状況が、まったくもってデタラメなのだからなにが原因でも不思議じゃない。


 俺はちばちゃんの鞄に手をばし、すんでのところで止めた。女の子の鞄を勝手にのぞくのは――って言ってる場合じゃねえ。


 俺は半ばヤケクソ気味にちばちゃんの鞄の中から、何冊か収まっている教科書やノートをすべてテーブルの上に出した。


「なんで無いんだよ!」


 たばになったノートの中に、さきほど見たボロボロの大学ノートを見つけることはできなかった。鞄の中をもう一度見たがノートは見あたらない。


 一つだけわかったことは、彼女の教科書やノートに書いてある名前から、本名は霧島千葉だということくらいだ。


 だから、「ちばちゃん」なのか。


 千代田怜やほかの鞄の中もさがしてみた。だが、当然見つからない。

 ぐったりとしながら本棚を見ると、映画『オデッセイ』のDVDジャケットに映るマッド・デイモンと目が合った。


 俺はただ一人、この異世界に取り残されたんじゃないのか?

 そうじゃなければ、あの大学ノートを誰かが持ち出したっていうのか? もし持ち出したのなら、この空間に俺以外にも人間がいるってことなのか? だとしたらなんのために?


 得体の知れない存在への予感に背筋に冷たいものを感じながら、ほかに取られたものはないか部室を見回した。ざっと見た限りでは、どこも変わっているようには見えない。


 ――もう一人の人間


 ふと、文化棟の玄関前で見た光景が頭をよぎった。


 キャスケットの子。


 今日一日、大学ノートのほかに不可解ふかかいな存在があるとするならば、わずかな時間のあいだに視界から忽然こつぜんと消えてしまった彼女、だが……いや、考えすぎだろう。そもそも関係があるようにも思えない。けれども――




「マジかよ」


 文化棟玄関までたどり着いた俺は、目の前の光景に愕然がくぜんとした。


 ――この灰色の世界は、南門までしか存在していなかった。


 いや、正確に言えば、南門から先が、真っ黒に塗りつぶされていた。

 あれが空間なのかもわからない。あらゆる光を吸収する、いわゆる完全黒体かんぜんこくたいのようなもので覆われた巨大な壁なのかもしれない。


 南門まで近づいても、目の前は真っ黒なままだった。

 黒い壁? それとも、何も無い空間? 目の前の黒は、壁のように大学の敷地しきちを取り囲んでいるように見える。


 ……いったん落ち着け。

 このわけのわからない状況を整理しろ。

 この世界は、明らかに異常であることはたしかだ。

 まるで夢でも見ているかのように。


 ――まてよ、これは夢なんじゃないか?

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