01-06 異常なのはこの世界のほうだ

 眩暈めまい

 遊園地ゆうえんちのコーヒーカップのような揺れと浮遊感ふゆうかん


 そんな感覚に襲われている目の前で、俺の視線の先に気づいたのか、ちばちゃんはかばんをソファの奥に押し込めてしまった。


「さっき館内をまわっていたと言っていたけど、うちのほかにどのサークルを見てきたんだ?」


 柳井さんの問いに、青葉綾乃は指をりながら答える。


「えーと、文学会に、SF研究会に美術研究会……模型研究会に、サバイバル……」

「サバイバルゲーム館、サバ館だな。やけにマニアックなサークルが多いな」

「あと四階のオカルト部です」

「オカルト部って、むかし柳井さん入ってましたよね」

「え? ああ」


 ダメだ。この眩暈はいつまでつづくんだ?

 俺は立ち上がってドアをあけた。


「磯野どこいくの? 顔色悪いよ」

「ちょっと飲み物買ってくる」


 千代田怜の言葉を背に、俺は部室から抜け出した。




 文化棟と大学図書館を渡す廊下の中間ちゅうかん地点に学生食堂と学生生協があった。その手前には三台の自動販売機と木製もくせいベンチがならび、学生たちのいこいの場となっていた。


 俺は廊下で立ち話をしている二人の学生を横切よこぎり、自販機の前までなんとかたどり着いた。


 ベンチに座る前に飲み物は買っておくべきか。一度座ってしまったら動けなくなりそうだ。


 俺は財布から一四〇円を取り出した。ふだんなら迷うことなくコーラを選ぶところだが、いまはそんな気分とは程遠ほどとおい。俺はとなりのお茶のボタンを押した。取り出し口からペットボトルを拾い上げると、その先にあるベンチへくずれるように座り込んだ。


 眩暈はさっぱり治まらない。

 あのノートを見た直後だったよな。貧血ひんけつなのだろうか。ともかく治るまでじっとしているしかない。


 俺はペットボトルのキャップをあけてお茶を一口飲んだあと、なるべく下を見ないように、午後の日が差す廊下の窓を見つめた。


 さっきノートを見たときの、妙に引っかかるあの感じはなんだったんだろう。ちばちゃんの鞄にあった汚れたノート。なんの変哲へんてつもない、ただの大学ノートのはずなのに。そう。なぜか前に見た覚えがある。デジャヴュ? けど、どこで? 

 そういえば俺が大学ノートを見たときに向けてきたちばちゃんのあの表情。あれは、さっきの絶望とは違う種類のこわばった顔だったよな。緊張きんちょうと恐れが入り交じったような――


「前にどこかで会ったことがあるのか? もしそうだとしたら、なんで俺を見てあんな顔をする?」


 そうぼそりと口にして目線を落とすと、ちょうど腕時計が視界に入った。


 ――目に映るものの色がやけにうすい。


 不思議に感じて一四時二四分を指すG-SHOCKから顔を上げると、色彩しきさいが抜けたかのように視界に入るすべての色が淡白たんぱくだった。まるで俺自身を含めたこの空間全体の色調しきちょうが、モノクロへと薄められたかのように。


 試しにまばたきをしてみたが、治らない。

 俺はあたりを見まわそうとしたが、身動きすることを躊躇ためらった。

 空気が動くことでこの世界がドミノのように崩れていくような予感。


 ……そういえば、音が無い。


 いや、その表現は正確ではない。

 俺の口から発する呼吸音や心臓の鼓動こどうは、音が無いからこそ強調されたかのようにしっかりと俺の耳に届く。しかし、さきほどまであった自販機の稼働音かどうおんや、廊下から聞こえていた話し声、外の自動車の往来おうらいなど、あらゆるものの音が無かった。


 まずは落ち着け、深呼吸だ。

 この呼吸もまた、周囲の無音によってやけに大きく聞こえてくる。


 しばらくその場でじっとしていたが視覚も聴覚も元には戻らない。

 これは大人しく病院にでも行ったほうがいいのかもしれない。とりあえず、鞄を取りに部室へ戻ろう。だが、動いても大丈夫だろうか。


 意を決して、ゆっくりとゆっくりと文化棟のほうへ顔をむけた。

 よし。思ったより視界は揺れない。大丈夫だ。

 思い切って腰を上げてみた。


 やはり揺れない。いつの間にか眩暈は治っていたらしい。


 それならばと一歩足を踏み出したとき、カーンという足音がこの無音の空間をどこまでも反響はんきょうしていった。


 ――そう、俺の生み出す足音だけが世界に響いた。


 この足音を聴いてはじめて気づいた。

 俺の視覚と聴覚が異常なんじゃない。


 ――異常なのはこの世界のほうだ。


 いままで聞こえていた呼吸や心臓音などの生理的せいりてきな音とは違い、ゆかを鳴らす足音は外的がいてきな音。この音が鮮明せんめいに響いているということは、俺の聴覚ちょうかくは問題ないってことだ。自分の体調のせいだと思い込んでいたがどうやら違うらしい。


 もしそうだとしたら、俺は異世界いせかいにでも迷い込んだのか? それなら、


 ――みんなは?

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