01-02 俺ひとり安堵していればそれでよいのだ

 玄関に顔を戻すと、彼女の姿はすでになかった。


「なあ、そこに人がいたよな」

「人?」

「玄関前にいただろ。帽子の」

「え? 誰もいなかったじゃない。暑さで頭おかしく、」

「なに言ってんだ、さっきまでそこに――」

「いやいやいや、いなかったから。誰もいなかったから。いるのは暑さで頭やられたアンタだけだから」

「やかましい」


 千代田怜は、へらっとした顔を向けてくる。

 ったく、さっきの泣きっ面はどこにいったんだよ。


 俺は、キャスケットの子が立っていた玄関前へ駆けよった。

 が、その立ち位置から周囲を見渡してみるも、それらしき人影はない。俺のいた場所から死角になるとすれば、彼女の行き先は目の前の文化棟玄関とそのさきのロビーくらいしか無いのだが。


 玄関から文化棟ロビーへと入る。

 ふだんなら軽音けいおんサークルなどの地下にあるスタジオを使う連中がたむろしているのだが、昼飯時ひるめしどきというのもあってかガランとしていた。


 キャスケットの子も見あたらない。


 ロビーの両端りょうたんにある階段をすでに上ったのか?

 杖をついたあの足で移動できる距離とは思えない。実は杖はかざりで、足は悪くなかったのだろうか。


「無視してるだろ。さっきからわたしのこと無視してるだろ」


 ロビーのほかにどこか行ける場所はないか? ……うーん……まったく思いつかん。


 ――あれ? なんで俺はここまでして彼女を探しているんだ?


 たしかに入学式のあの日、彼女を一目見惚ひとめみほれて――ああそうだよ、惚れししまったのはそのとおりだが、ここまでする必要がどこにある?

 もし見つけたところで、見ず知らずのこの俺が「足治ってよかったですね、ふふっ」なんて声かけてみろ。不審者ふしんしゃあつかいされるのがオチだろう。


 俺ひとり安堵あんどしていればそれでよいのだ。

 ……それでよいのだ。


 部室のある三階まであがると、男女数名が廊下中央にあるソファを占拠せんきょしていた。映画研究会のとなりの住人、演劇えんげき研究会である。

 彼らは台本とおぼしきコピー用紙のたばを持ちながら、なにやら議論ぎろんをかさねていた。


 俺は、彼らの熱心さに軽く会釈えしゃくをして通りすぎる。

 部室までたどり着くと、ドアの横ある「映画研究会」と書かれた木製の表札が目に入る。

 それはまるで内閣組閣ないかくそかくのときに掲げられそうな達筆たっぴつ題字だいじだった。

 誰が書いたんだろう。初代しょだい映研会長? いや顧問こもんだろうか。どちらにしろ、相当年季ねんきの入っているシロモノなのはたしかだ。


 と、背後から「お疲れ様でーす!」とかろやかな声が。

 振りかえると、千代田怜の営業スマイルがそこにあった。


 ……なんでそんなにキラキラしてるの。さっきのゲス顔はどこいったんだよ。


 演研部員たちの発声練習のような挨拶あいさつ応酬おうしゅうを背に、俺は部室のドアをあけた。


「あ、磯野おつかれー」


 竹内千尋たけうちちひろ。俺や千代田怜と同じ二年である。

 涼しげな水色パーカーの美少年は、外光がいこうが射し込んでまぶしいだろうに、なぜか窓際に配置してある映像編集用パソコンに向かっていた。


 高校からの付き合いとなる竹内千尋は、あどけない少年のような……いや、女の子のような名前とあいまって、そう、可憐かれんだった。


 だがだまされてはいけない。

 すべてを受け入れてしまいそうな穏やかな雰囲気とは裏腹うらはらに、ただひたすらに空気を読まないという特技もまた持ちあわせていた。そのため、近づいてくる恋する乙女たちのフラグを、あはは、みたな笑顔のまま容赦なくたたつぶした。


 というわけで、映画制作以外に興味を示さない竹内千尋から、色恋いろこい沙汰ざたなどという浮いた話は聞いたことがなかった。


「怜もおかえりー」

「ただいまー。アイス買ってきたよ」


 部室に足を踏み入れると、まるで那須なす高原こうげんにでもいるような、冷んやりとした空気が肌に触れた。ちなみに俺は那須高原には行ったことがない。


 あー生き返る。これで本日の業務は終了しました。本当にお疲れさまでした。


 俺は、背後でガサゴソと揺れる音を聞きながら『オーロラの彼方かなたへ』や『天国から来たチャンピオン』などの映画タイトルがならぶ本棚を通りすぎ、これから日が暮れるまでお世話になるであろう、部室左手にある三人がけベンチ・ソファへ腰をおろし、優雅ゆうがにくつろぎモードへと移行いこうした。


 千代田怜は、そんな俺の前をコンビニ袋をわざわざ揺らしながら、あきらかに邪魔者じゃまもののようにまたぎ、ソファの奥へと腰かけた。


 怜てめえ、避暑地ひしょちでの貴重きちょうなひと時の邪魔じゃまをするんじゃねえ。


「はい千尋、ジャイアントコーン」

「ありがとう」

「どう? 直った?」

「うーん、どうもデータの復元ふくげんは無理そうだね」


 竹内千尋の不吉ふきつな言葉に、俺は耳をうたがった。


「は? データの復元?」

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