第2話 船上事件
船の中に、冷たく重い空気が流れる。
ハルキは、回転式操縦器の前に立ち尽くしたままだ。取っ手を、レザーの手袋がギュっと握り締める。一方クレトは、ゆっくり手を挙げて、唾を飲みこんだ。
「聞こえないのか、操縦士」
ここにきて脅迫か。大事な初日だというのに、厄日になってしまう。
脅迫者は、鋭い視線を操縦士に向けている。感情が昂っているようには見えない。むしろ、不思議なほど冷静さをもっている。
そういえば、この召し使の顔は見たことないな。ハルキは、城の中の記憶を引っ張り出した。新人か?大体、この場合、俺も知っている召し使を使ってくるんじゃないのか。いや、見落としていたのかもしれない。
「ハルキ」
その声は、意味が込められたように聞こえた。
目が死んでいる。たまにしか見せないクレトの目だ。
「……承知しました」
カバンの中から、地図を取り出す。手に収まるほどの丸型方位磁石を照らし合わせ、コースを決める。ゴルド国は、この地方で一番遠い。それに、雨が降る確率が高いと会議で言っていた。
ハルキは仰いだ。雲量は三~四。ゴルド国方面の南東側には、灰色のくもが集まり始めている。これから、強い雨が降ると予想される。ユメルは、雨に打たれてはいけない。外側は鉄で補強しているが、六割は木で造られている。それに、帆も、防水コーティングを施しているとはいえ、強すぎると耐えられない。もし雨に打たれば、二人の命はない。
このまま、ゴルド国に突っ込んで、自滅するようなことだけは絶対に避けたい。
交渉手段でどうにか回避したいが、冷静すぎる脅迫者に、その手は効かないだろうとハルキはみた。しかし、これしか手段ない。
「ねぇ、もう一度確認するけど、オレ達はゴルド国に向かえばいいんだよね?」
「そうだ。本当にゴルド国に向かっているのか?」
「遠回りをしているだけだよ。ほら、あそこに雲が見えない?」
脅迫者は周りを見渡した。雲を見つけて、目を細めた。
目が悪いのか?いや、黒髪で短髪の細身、少し筋肉質。そして、見た目は若い。ここの若者はみんな目がいいはず。変装しているだけなのか?
すると、脅迫者は口を開けた。
「あの雲がどうした」
「あの雲、多分、大雨になると思う。あのまま突っ込んだら、オレ達死んじゃうよ」
「し、死ぬ……?」
脅迫者の顔が歪み始めた。ここから、精神的に追い詰める。
「どうするの? オレは、君に従うよ」
脅迫者は下を向いて舌打ちをした。舌打ちは動揺している証拠だ。
動揺させた後は、選択肢を脅迫者に委ねる。悩みこんだ挙句、暴走したところを二人で抑える。
よし、これで完璧な計画だ。これ以上の策はない。ハルキは、脅迫者が口を開くまで考えを巡らせていた。
「どうする? あと前方三百メートルほどだよ。あと三分くらい」
もちろん、あと三百メートルとか三分とかは、でっち上げである。それは、超が付くほどのベテランにしかできないことだ。今日初めて本格的に始めたぺーぺーの初心者が分かるはずがない。
「さ、三分、だと……?」
おっ、ダメージ受けている。これは中々の手ごたえだ。
ハルキは、表では平然と装っているが、心の中ではしめしめと思っている。しかし、有利な立場になって、平然でいられるのもつかの間だった。
「そう。いや、方向転換するなら、もっと時間はかかるな。あと、一分半」
「小僧、嘘ついてないだろうな」
小僧って言う脅迫者も、随分若いと思うけど。ハルキは心の中で突っ込んだ。
すると、脅迫者はクレトを縛る腕をさらに上げた。クレトは苦しみ始めた。下手をすればクレトが絞殺されてしまう。
「てめぇ、さっさからごちゃごちゃうるさいんだよ! さっさと方向転換しろ!」
「分かった。そのかわり、王子に巻いてる腕を緩めて」
ハルキは、もう一度空を仰いだ。雲量は五以上。さっき南東にあった雲は大きくなり、こちらに迫っている。ヤバい、早く戻らないと死んでしまう。ハルキは、空港へ戻る決心をした。丸型操縦器を左に回し、後方にあるプロペラについている滑車の紐を引っ張り始めた。船を北東の向きから、南西の向きに変える。そして、速度を上げた。
「は、反対方向じゃないか! 何をしている! 俺は、ゴルド国へ行けといったんだぞ⁉」
「もうじき雨が降る! 雨に打たれたら、本当に死んじゃうんだってば!」
「うるさい! ゴルド国に行け!」
グハッ、と嗚咽の声がした。クレトは、溝内を押さえて、その場に座り込んだ。
「クレト、大丈夫か⁉」
クレトが、苦しみながらも頷いたことを確認した。
ナイフが落ちる鈍い音がする。クレトの前に脅迫者はいない。
何処に行った、と周りを見渡す。次に、操縦器が重くなる。
下を見下ろすと、操縦器の取っ手をもって、体重を掛けるように座っている脅迫者がいた。
「この、クッソが……!」
その時、ハルキには既に冷静さを失っていた。左足が勝手に脅迫者の溝内を命中させる。しかし、脅迫者は受け止め、その場を退こうとしない。むしろ、前より操縦器に重みがある。何本も取っ手がある操縦器に手を伸ばし、脅迫者は右へ、ハルキは左へ回そうとしている。両者は一歩も譲らない。ハルキが左へ回し有利かと思えば、脅迫者が右へ回そうとする。
すると、脅迫者は手を解いた。その反動で、操縦器は左へ高速回転し始めた。
脅迫者は、クレトが無理やり退かせ、その場で尻餅をついていた。クレトは隙を逃さず、脅迫者の片手を後ろに誘導し、捻った。ハルキは、脅迫者が痛めている間に、予備に持っていた太い紐を素早く取出し、脅迫者の手首を縛った。
ハルキが操縦器に目を向けると、操縦器はまだ回転していた。慌てて取っ手を掴む。回転の勢いに勝てず、手を下へ降ろされる。もう一度取っ手を掴み、腰を入れて、回転を止める。それに、クレトも加わった。数回取っ手を持ち替えたところで、ようやく回転が収まった。
二人は手を放し、その場に腰を下ろした。
「危なかった」
ハルキが一息吐くと、クレトが叫んだ。
「ハルキ、あれ!」
前方には、崖があった。このままだとぶつかってしまう。ハルキは、とっさに、操縦器を左に回転させた。ユメルは、方向を変えない。勢いをつけ、さらに回転を速めた。すると、ユメルは方向を変えた。崖にぶつかることなく、擦り切れるギリギリの寸前でカーブを描いた。
夢日記 ~滑空する青年~ 倫華 @Tomo_1025
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