第10話 聖暦382 界壁越境トンネル開通。

 黒羽根少女が銀色の木に魔法をかけた影響が、徐々にこちらの世界に現れる。


 表向きなんの変化もないこちらの世界だったけれど、国境付近の大きな山の裾野に大きなトンネルを掘削する国家事業が始まった。いつの間にか。それも異世界へつながる巨大トンネルらしい。



「界壁越境トンネル開通まであとひと月です。待ちきれませんね♡」

「このトンネルは我が国と異世界の友好の証です。二つの世界がともに発展せんことを。それでは新曲です、お聞きください♡」



 王子の息のかかったアイドルグループが完璧な笑顔でそんなMCで新曲を紹介していた。

 チタは知らない。異世界と通じるトンネル計画なんていつの間に立ち上がっていたのかまったく知らない。なのに王都の人々はそれを当たり前に受け入れている。



「……どうやら、この前の騒動の余波みたいだよ。二つの世界の歴史を改変したつじつまを無理やり合わせた結果、こんな形で表れたみたいだ」


 リッツァーはニュース番組や新聞を通じてわかったことをチタに伝えた。鏡にいくつもの荒唐無稽な光景が繰り広げられていた。


 王都の上空に魔法の杖をもった少女時代の姿をしたチタそっくりの姿をした‶エミリ″が現れ、可憐な様子で国民に呼びかけていた。

 

「私たちの故郷が魔王に襲われてピンチです。お願い、皆さんの力を少しずつ貸して!」


 ‶エミリ″のが杖を振るうと空にはチタがあの日見た、東京の街を破壊する怪物とそれらを戦うコミックやゲームのヒーローたちの様子が浮かび上がる。

 鏡では、異世界の危機に立ち向かうためどうすればいいのかミリタリー調スーツのジウが具体的な方法を教えていた。いまご覧になっているチャンネルからハート型のボタンをタップし続けてください。そうすれば‶エミリ″の杖に魔力がチャージされ、怪物と戦う戦士たちのパワーとして異世界に届けられます。



 チタが博物館の資料室で不眠不休で鏡に魔法をかけ続けたあの数日間、本来なら残り僅かなの平和で平穏な一日で済む筈だったその数日間の王都は、2017年の子供番組で見かける視聴者参加ゲームのような一日に変化していたのだった。



 王都の民は突然始まったスペクタクルに戸惑いながら、こぞって鏡をタップし続けたようだ。みんな本当に異世界のピンチだと信じたわけではない。中にはただ面白がっていたもの、派手好き新し物好きの王子が手掛けたゲームだろうと割り切ったもの、さまざまな反応を示すものがいたが大多数の人間が鏡をタップし、‶エミリ″の杖に魔力をチャージした。


「ありがとう! みんな! これで世界は救われます!」


 ‶エミリ″は魔力で満タンになった杖をかざして、異世界の空へ飛んで行った。そしてヒーローたちとの戦いに参加する。



「もういいわ、やめて」



 吐き気を催す映像から目を背け、チタは毛布にくるまった。あんなバカげた歴史が本当の歴史になってしまったというのか。チタは自分の頭の中にある本当の歴史にすがりつく。

 何が恐怖の大魔王だ、何が異世界からやってきた勇者やヒーローや魔法少女だ。そんなもの存在しない。自分の前世にそんなものはなかった。


 ベッドに腰をおろし、震えるチタの背中にそっと手を置くリッツァーにもすがった。

「ねえ、リッツァーは歴史の専門家でしょ? あんなのは冗談だ、嘘だっていって。幻覚だって。お願い」

「……」


 リッツァーは残念ながら嘘が言えない性分だった。チタはリッツァーの沈黙で、冗談ではなくなったことを悟らなければならなかった。


「……あの日、博物館の外にいた人間の記憶がまるっきり上書きされているんだ。そして、あの部屋の遠くにいた職員から順に記憶が書き換えられていっている」

「わかった。やめて」

「多分、僕の記憶も近いうちにこの光景をあの日本当にあった出来事だと信じるようになると思う。それを防ぐ手立ては――」

「やめて! お願いだから」

「せめてあの日チタが目にした光景を書き残しておくよ。本当に何があったか――」

「やめてって言うてるやろ!」


 金切り声でチタは叫ぶ。


 チタが自分の前世に固執したところで、悪い魔法によってねじ曲がった歴史はそれで固定化されてしまう。 



 リッツァーが予言した通り、数日後にはリッツァーも鏡の情報番組を眺めながらこうつぶやいていた。



「あの時の‶エミリ″を応援した成功体験が忘れられなくなってる人がいるみたいだね。たしかに国民を一つにまとめる大イベントではあったけれど……。なんだか不安だな。あれは王子が仕組んだショーだって噂も……おっと」

 あわててリッツァーが口をつぐんだのは、王子の悪口を言うと黒い服を着た秘密警察がかけつけるという噂が王都にはびこっていたためだ。黒羽根少女の次は秘密警察。噂はすっかり新陳代謝ずみだった。


 

 あの日、タブレットの中にぎゅうっと押し込められた黒羽根少女はそのままチタの会社が身柄を預かることになった。


 その体を調べつくし、チタ達では作り上げられない魔法を解析するという仕事があったためだ。


 何もしないと悲鳴をあげてしまいそうな精神状態の中、チタは黒羽根少女を解剖した。構成されている呪文や核の構成を調べつくした。おかげで黒羽根少女の素体となったのは、警察署に封印されていたはずのギーチを殺した美少女人工精霊だったこと、警察署の上層部にいた旧名門魔法士族で構成されたテロ組織のメンバーがその鏡を持ち出して機能停止いしていた美少女人工精霊を黒羽根少女としてよみがえらせて世に放ったことなどの事実が判明する。


 そしてチタが知りたくて知りたくてたまらなかった虚像を実体化する魔法の仕組みも明らかになった。それがわかるや否や王子は小躍りせんばかりの勢いで駆け付けて、満面の笑顔でチタを抱きしめた。



「お手柄だよ、チタ~! 虚像を実体化できる魔法さえわかれば僕らの国の発展は間違いなしだ! ではさっそく、このコ見たいな美少女の精霊を作ってくれないかな。でも外見は指定させてもらうよ、髪はブロンド、瞳の色はブルー、ドレスは気高い純白だ。背中には白鳥のような翼を取り付けてもらおう。そう、ベタだけど天使のイメージだね。……え? どうしてそんな人工精霊をわざわざ作るのかって? この前の異世界の危機をみんなが救ったことを思い出しただろ? 君の少女時代そっくりの人工精霊の呼びかけに王都のみんながみずから率先して魔力を提供したじゃないか。みんな可憐な美少女の呼びかけにはすすんで協力するんだよ。どんな厭戦家だってさ」


 王子の傀儡と揶揄されている現与党の首相が戦争参加を表明し、数年経っていた。

 虚像を実体化できる魔法がつかえる天使のような美少女人工精霊を、王子はどのように使いたいのか。誰だって想像できるだろう。魔法で生み出した虚像の爆弾を実体化するのか。神々の戦争を再現するのか。


 去り際に王子はもう一度チタをハグをする。


「チタ、君少し眠った方がいいんじゃないかな?」



「あのドぐされ王子に心配されるようじゃあんたもおしまいね~」

 鏡の中に捕らえられている黒羽根少女はチタを嘲笑う。


 悪趣味にも、解剖台に括り付けられ生きながら腹を切り分けられている哀れな実験体に扮してみせている。

 自分の前世の世界を失った悔しさと悲しさを黒羽根少女の解析にぶつけるしかなかったチタを挑発しているのは明らかだ。人工精霊には恐怖も痛みもインプットされていない筈。腹を切り裂かれても痛みを感じていない模様。


「さ、あんたもあたしの体について調べたいことは調べつくしたでしょ? てことでさあ、報酬としてあたしに教えてくれない? あたしをこんな鏡に閉じ込めたあのガキは何もんなの?」


 チタは答えない。奥歯をギリギリ噛みしめて黒羽根少女の言葉を無視する。しかし黒羽根少女の甲高いキャンディボイスは鼓膜に突き刺さる。


「あたしも悪魔の王女を名乗っていたけどさ~。あいつの方がよっぽど悪魔じゃない。ひょっとしたら本当に悪魔なのかもね~。鏡の向こうからやってきた本物の悪魔!」


 我慢の限界に達し、黒羽根少女を封じ込めた鏡をチタは放り投げた。板状のそれは床にぶつかって粉々に砕け散る。

 並みの人工精霊ならその生命は宿っている鏡と一連托生だ。しかし相手は悪魔めいた性能を持ち凶悪な魔法を使う黒羽根少女だ。きっと体よくどこかの鏡の世界を実体化して逃げ去っただろう。チタは確信している。



 あの一件が起きたあと、本来異世界で死んだ人間がこちらの世界で赤子として転生するしかすべのなかった交流方法が劇的に変化した。

 スポットと呼ばれる異世界と異世界をつなげる小さな通路を通じて、向こう側の人間がこちらへ行き来するようになったのだ。


「今まで異世界の進んだ科学技術や学問をこちらに移入したいときは転生人のあやふやな記憶に頼らなくっちゃならなかったけどさあ、こうして直接交流できるようになればそんな手間かけなくてすむだろ?」


 というわけで異世界交流事業を王子が積極的に後押ししていた。

 初めてこの国を訪れた異世界の特使たちを招いた宮廷晩餐会に、チタやジウも含む転生人たちも招待される。


 その場でチタはジウと久しぶりに顔を合わせた。あでやかなイブニングドレス姿のジウはパーティーなれした女性らしく堂々とふるまい、異世界からやってきた冴えないおじさんたちとそつのないトークを繰り広げている。前世の方言をこれみよがしに披露して異世界の特使たちを沸かせていた。

 チタのパートナーとして出席したリッツァーも異世界の学者と熱心に言葉を交わしている。チタはこのところ頭痛が収まらないが、二人の会話の通訳を勤め上げている。


「我々の世界で死んだ魂がこの国で新たな人間としての生を受けるとは。こういうとあなた方は気を悪くされるかもしれないが、我々にとっては死後の世界という見方もできる」

 

 異世界の宗教学者だか文化人類学者だか何だか知らない学者はくだらないことを興奮したような口調でべらべらとしゃべる。


「界壁越境トンネルが完成すれば、我々は死後の世界と地続きで交流できるようになる世代になると言える」

「ええ、今までにない世界が広がることでしょうね」

 頭が痛い、夜風が気持ちよさそうなテラスに逃れたい、学者の言葉を訳しながらチタはリッツァーに視線で訴えるが、研究者モードになったリッツァーはチタを一顧だにしない。


 チタは段々イライラしてきた。

 いやだいやだ、料理も音楽も、きらびやかな照明もご婦人のドレスも宝石も殿方の勲章も整髪料の匂いも何もかも嫌だ。


「時にお嬢さん、あなたも私たちの世界からこちらの国へ転生されたと伺いましたがなにか前世についての記憶はございませんか?」


 学者はそう尋ねた。チタの中で何かが限界に達する。


「1999年には何もなかった!」


 前世の方言でそう怒鳴った。

 

「私の知ってる1999年には何も起きてない! 恐怖の大魔王とかは単なるしょうもない噂! 笑い話! あんたらの世界はいま何年? 言うても21世紀頭やろ? うちは2017年に死んだことになってるから多分うちの前世は今そっちの世界で生きてる」


 1999年には何もなかったなど何を世迷言を……と余裕めかしていた学者の表情がチタの怒鳴り声に合わせて見る間に変化した。転生した記憶を持っているとはいえたかだが現地の小娘とみていた若い娘が操っているのが流ちょうな関西弁である意味に気づいたのだ。

 チタは構わずに怒鳴る。持っていたグラスの中身を目の前のいらつく学者にぶちまける。


「異世界に転生するとかなんとかは漫画とかアニメとかネットで量産されてる小説とかにしかなかった話なん! そやのにあんたらのこのここっちにやってきて……アホと違う? 帰れや、タチの悪い冗談みたいなそっちの世界に!」


 優雅なパーティーの場にふさわしくないチタの怒号に、異世界の客人が何事かという視線を向けた。手近にあったテーブルの料理をつかみ、投げる、テーブルクロスをひっくり返す。

 本来ちょっっぴり気取り屋で自惚れやで極力みっともないことをしたくない性分のチタの狂乱をリッツァーが抱きかかえて止めた。カクテルでスーツを汚された学者にリッツァーが謝り、泣きながら暴れるチタを抱えて会場を辞する。



「1999年には何も起きてない! 本当に何にも起きてないの! あいつらあたしの知ってる世界とは別の世界から来たのよ。ねえ」

 リッツァーとともに乗り込んだ蒸気自動車の後部座席でぐずぐずとチタは泣き続けた。泣くと余計に頭が痛くなった。



 そのパーティーの夜からチタは外に出なくなる。

 日がな一日ベッドに横たわるか。鏡をのぞいては自分の知っている本来の2017年が見つからないか、探す日々が始まった。


 

 こちらの世界と異世界をつなぐトンネルが開通したらしいが、そんな歪んだ歴史のことなんてどうでもいい。


 戦争が拡大して、「魔法兵器に耐性がある」というような理由で異種族の民から若者が徴兵されだしたが知ったことではない。

 世間をかく乱しているという罪状で、通称七氏族と呼ばれている旧名門魔法士族のメンバーや、鏡は悪魔の国に通じているから使用をやめよと訴える異種族を中心としたカルト教団の者たちが一斉に検挙され、どこかの強制収容所に連行されたというニュースも飛び込んできて世の中を騒然とさせたがチタには全く関係ない。



 どうせこの歴史は間違った歴史だ。私はただしい歴史を取り戻して、あの博物館の日の前の、正しい日常に戻るのだ。



 ベッドに横たわるか、鏡をのぞくか。思い出したように、リッツァーが残しておく食料を口に突っ込み、催せば用を足す。チタの毎日は荒んでいく。


 そんな部屋にリッツァーはいつしか寄りつかなくなった。


 自分がいた2017年を探すことに憑りつかれているチタに、リッツァーは何度も呼びかけていたのだ。

「チタ、君の前世の世界が消えたとしても、君は今ここにいるじゃないか。それで十分だろ? 君がいた前世の記憶は僕がしっかり書き留めておくから」

「あんたにはどうせわからへん。うちの寂しさが、辛さが。わかるわけないからそんなことが簡単に言えるねん」


 髪も肌も乱れるに任せたチタは、血走った眼を見開いてリッツァーに前世の言葉でいう。リッツァーには前世の方言は理解できない。恋人の言葉が文字通り理解できない。心だって通う気がしない。視線を合わそうにも血走った眼にはねのけられる。


 宮廷での晩餐会の夜以降、リッツァーはジウに合うようになった。

 最初のきっかけはジウに呼び出されるようになってから。芸能関係者が使うという高級クラブのVIP専用の個室にいくと、最近のジウが来ているミリタリー調スーツを脱ぎ捨てガウンをまとったジウがいた。


「久しぶりやなあ、何やこないだチタえらい荒れてたけど元気にしてる?」

 ジウは琥珀色の酒をのんでいた。すでによって目がよどんでいる。

 異世界方言でそう話しかけられて戸惑うリッツァーに、ジウは王都公用語で同じ意味のことを尋ねた。リッツァーはあいまいに微笑む。



「こんなところでごめんなさいね。こう見えて私もえらくなりすぎちゃって敵が多いものだから。下手なところで下手な相手に下手なことをしゃべっているのが聞かれると強制収容所に入れられかねないの。……あら、噂じゃないのよ? 本当よ、王子様の意向に背くようなことをすれば強制収容所に入れられて死ぬまでずっと界壁越境トンネルのをツルハシで掘らなきゃいけなくなるの。トンネルを掘るだけですめばいいんだけどね~」


 物騒なことをケラケラ笑いながらジウは言った。


「……それで、最近君が手掛けるタレントには君らしさが見られなかったんだ」

「そういうこと~。あたしだってあんなつまんないいいこちゃんのお嬢ちゃんお坊ちゃんのアイドルなんて作りたくなかったわ。コント一つさせようにも笑いの勘がないし。高みをめざせだのみんな一つにだの、虫唾が走る」


 ジウは吐き捨て、酒を煽った。ぐいぐい煽り、しまいには泣き出した。

 昨日、王都にテロを起こそうとしていたという罪で連行されたトバコを思って泣いた。ギーチのことがあって以来、鏡では芸を見せず、寄席小屋に戻ってピン芸人としていたトバコは、鏡への不信感が蘇りテロ組織に指定されたばかりのカルト教団へ身を寄せていた。教団が一斉検挙された時のメンバーにトバコがいたのだという。


 逮捕者には裁判を受ける権利は与えられず、一律強制収容所へ入れられる決まりだ。それを知っていたジウは権力者であるツテに人脈をフル活用してトバコを救おうとした。しかしトバコはジウからの使者の勧めを突っぱねた。


「気持ちはありがたいけど、これも俺の運命だったんだよ。やっぱひいばあちゃんの言うことは正しかった。あんな鏡に出るんじゃなかった。鏡に出なけりゃギーちゃんだって死ななかったし、きっと今でも二人で寄席でみんなを笑わせられた」


 数年前まで愛らしい女装姿でファンの女の子たちをキャアキャア言わせていたアイドル芸人の面影は、激しい拷問によってお化けのようなありさまに造り変えれていたという報告を聞いた時、ジウは動揺を表に出さないようにするので必死だった。

 天使と呼ばれる人工精霊の少女を、新たなアイドルとして生み出すプロジェクト会議の場だったからだ。


 リッツァーの目の前でジウは泣いた。おいおい泣いた。自分があの二人を鏡の実験台に選ばれなければ、二人の悲惨な運命を避けられたかもしれないのにといって泣いた。その背中をリッツァーはさすった。以前チタにしてやったように。


 

 それから二人はちょくちょく合うようになった。

 


 戦争が烈しくなり、当初世の中を攪乱する恐れがあるとされた旧魔法士族や異種族の民だけに該当していた法律の適用範囲が広まり、異種族というだけで強制収容所に連行されるようになるという噂が席巻する。恐怖にかられた民衆は、余裕のある民から開通したばかりの界壁越境トンネルを通して異世界へ逃れようとする。陸続きで異世界へつながる長距離バスの乗り場に長蛇の列ができる。


 昔、アパートで世話になったセリとグミに外国へ逃れるための資金とビザを手配したのはジウだ。二人は感謝し、異種族が取り締まれることのない外国へ家族と共に逃れる。二人の家族全員を異世界へ連れ出す資金を目立たぬように調達するのはジウにも無理だった。



「チタ、君も異世界へ行こう」

 久しぶりに二人の部屋に戻ってきたリッツァーはチタの背中へ呼びかけた。荒れ果てた部屋でこうこうと輝く鏡を睨み続けるチタはリッツァーの方を振り向きもしない。


「僕とジウは界壁越境トンネルで君たちの故郷へ渡ることにしたんだ。ねえ、君も行こう」

「トンネルの向こうにあるのは私の故郷じゃない。どこか嘘っぱちの異世界よ。私はそんなところへ行かない。絶対に行かない」

「……ごめん、君を裏切ったことは心から謝る。だから僕たちと一緒に行こうよ、ねえ!」

「嫌だったら! しつこいわね。私は自分で帰るべき世界を見つけるの。あんたたちはそんな悪ふざけみたいな異世界で幸せに暮らせばいいじゃない。自分たちが何をしでかしたのか奇麗に忘れてさ!」

 やせ細って目だけを輝かせたチタは、宗教にかぶれた画家が描く地獄の鬼のようだった。目を背けたい思いに駆られながらリッツァーはその腕をつかむ。力づくでも連れていくつもりだった。


 枯れ木のようになってしまった体のどこに、というような力を発揮してチタはリッツァーになぐりかかる。自分を見捨てた怒りや悲しみも上乗せにして殴る。もう二度と姿を見せるなと言って喚く。手に触れたものはなんでも投げつける。


 チタが最後に投げつけたのが長方形のコンパクトだ。スマホが恋しくなったチタが作った鏡だ。その角がリッツァーの額に命中して血がダラダラと流れる。


 部屋の外で事の次第を見守っていたジウが現れて、半狂乱のチタを殴り返した。

 血が流れ続ける額に手を当て、呆然としているリッツァーの首根っこをつかむ。

「……」

 もう二度とこない部屋、きっともう二度と逢うことはない友達。チタの投げたコンパクトに視線を停めたジウはそのコンパクトをつかみ、ぐいっとコートのポケットにねじ込んだ。



「ほんならバイバイ、ジウ。バスがあるうちにあんたも来いや」


 ジウは最後にそう言い捨てて、トランクとリッツァーをつかんで部屋をでた。


 チタはその時にはもう鏡の中を探索する作業に戻っていた。 

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