第9話 聖暦379 首相、条約を根拠に参戦を表明、小競り合いは世界大戦に発展する。

 黒羽根少女が博物館の鏡を陣取って数日経過した。


 悪魔の王女を名乗る未知の人工精霊によって世界はかつてない危機を迎えていたのだが、そのことを知るのはこの国のごく一部しか知らされていない。海の向こうで小競り合いが始まったり、その戦争に参加するべきだと一部の議員が盛んに主張し始めたり、なんとなーく不穏な気配が漂っていたが世間は呑気な日常が繰り広げられていた。

 ただ休館を継げる札のかかった博物館の鉄扉を前に、残念そうな観光客が帰っていく姿だけがいつもと異なっていた。


 

 チタは技師たちを呼び寄せて黒羽根少女の駆除に取り組んでいた。


 アハハアハハハ、けたたましく笑いながら黒羽根少女が金色と銀色の大樹の間を飛び回り、時々戯れに手のひらから無数の光の弾をはじき出す。迎え撃つのは‶エミリ″だ。背中にアクリル板を思わせる質感の羽根を生やした‶エミリ″は手にした杖を一振りして、やはり同質の光の弾を繰り出しては撃墜する。

 くるくると空を飛び、光の弾を撃ち合い追いかける少女の姿はチタの目には前世で見たアニメかゲームの一場面のように見えた。派手で華麗だ。見ごたえがある。しかし、黒羽根少女の打ち出す光の弾は金色の木、銀色の木に悪い影響を与える悪質な魔法だ。

 二つの木をむしばむ呪いの害虫が、黒羽根少女の打ち出す弾には仕込まれている。


 チタはどうしてもにじみ出てしまう涙をぐいぐい擦りながら、今まさに銀色の木をむしばむ害虫をなんとか取り除こうと躍起になっていた。

 チタの目の前で銀色の木が、すっかりやせ衰えている。自由に繁茂した枝に元気がなくなり、まるで打ちひしがれた病人のような有様に変わり果てた。金切り声のチタが技師たちに叫び、その場で作らせた対抗魔法ワクチンを投与してなんとか生きながらえている状態だ。

 

 銀色の木がこうなったのは、もちろん黒羽根少女の仕業だ。



「あ~おっかしい。王子たちにいやがらせできるものを探していたらこんな最高のおもちゃが見つかるんだもん。あんたたちただの人間って本当~にバカなんじゃない? 大した魔法の力も知識もないくせにこ~んな危険極まりないもんうっかり作っちゃってさ! 面白すぎ!」


 数日前にケラケラと笑った黒羽根少女は、枝からふわりと飛び上がる。


「面白いから嫌がらせついでにちょっと遊んだげる」


 と、同時に‶エミリ″を閉じ込めていた鳥かごの扉ががちゃんと開いた。おそらく黒羽根少女が開錠したのだろう。少女時代のチタとそっくりの顔をした人工精霊は、アクリル板のような羽根を出現させて自分を閉じ込めていた人工精霊を追いかける。黒羽根処女は挑発的するように微笑むと、手の中にボウガンをを出現させると素早く構えた。狙う先は銀色の木だった。

 

 ‶エミリ″がそれに気づき、素早く杖を振るう。杖から放たれた流れ星のような光弾が向かった先は、銀色の木の幹だ。


 黒羽根少女のボウガンから放たれた弓矢よりコンマ数秒速く、‶エミリ″の放った光弾が銀色の木に到達する。

 ダダン、と銀色の木が短く二度揺れた。銃を消した黒羽根少女が楽し気に笑う。


「へえ! やるじゃない」


 ‶エミリ″が放ったのは動作不良を起こす悪い魔法から鏡を守る対抗魔法ワクチンだ。今まで発見された質の悪い魔法ならばこの対抗魔法ワクチンで対処ができるはずだった。

 しかしチタには絶望しかなかった。黒羽根少女は‶エミリ″なんかよりずっと性能がいい人工精霊だ。噂の通り本当に悪魔の王女かもしれないと信じてしまいそうなほど。そんな悪魔めいた存在が放った魔法を自分たちが防げきれるはずが無い。結果は見なくてもわかっていた。


 チタが一瞬で思い浮かべた通りの絶望的な光景がほどなく目の前で展開される。銀色の大樹が目の前で急激にやせ衰えだしたのだ。特に黒羽根少女が矢を打ち込んだ箇所が酷い。矢は黒々とした芋虫に変化すると銀色の木をかじりだす。虫が口を動かすたびに銀色の木は枝を震わせる。まるで身をよじり悲鳴をあげているようだ。


 博物館の館長が、研究者が、学芸員が悲鳴をあげる中、チタは目を見開いた。


 銀色の木は異世界、前世のチタやジウがいたあの世界の歴史だ。それが魔法の虫に食われている。それがどういう影響をもたらすか、チタにだって想像はついた。


 指が折れそうな勢いでチタは銀色の木の付近の鏡をタップし、様々情報を浮かび上がらせる。今虫が食い荒らしている部分は西暦でいえば1999年。浮かんだ映像にはチタがテレビでしかない首都の上空に怪物の影が浮かび上がり、怪光線や火の玉を地上にぶつける光景が広がった。

 

 こんな時だというのにチタは笑った。笑うしかなかった。だってそれはテレビで時々やっている古い怪獣映画みたいだったから。前世のチタである山下えみりは怪獣や特撮なんて全く興味が無かったから、テレビで放送されていてもすぐにチャンネルを切り替えていたけれど。


「ノストラダムスの大予言だ……」


 こんな時だというのにチタより異世界の情報に詳しいリッツァーが呆然と呟いている。そのシリアスな様子がやっぱりおかしくてチタは笑った。爆笑した。だってそれは21世紀生まれのチタにとっては前世紀にそんなくっだらない噂が流行って老いも若きも震え上がったという本物の笑い話だったんだから。そういえばチタと初めてあった頃のジウも聞いてきたっけ、「1999年になんかあった?」って。


 なにこれ、悪い冗談すぎる。ジウがおったらめっちゃ笑ったかも。

 笑うしかないチタの目の前で、1999年の世界が燃え上がる。東京にあった有名なランドマークが燃え上がる。ひしゃげる。穴が開く。チタの知ってる2017年の世界に現存していたものが。


「チタ、しっかり!」


 同じように鏡から目を離せないリッツァーがチタの肩を強く抱いた。チタは激しく首を左右にふる。


「違う違う、こんなん違う! こんなことは起きてない! 1999年にはなんもなかった! おきひんかった! こんなん嘘や!」


「嘘じゃな~い。残念ながらたった今、これは異世界の本当の歴史になりました~」


 この場でチタの語る異世界の方言を理解できたのは黒羽根少女だけだった。ひらひらと鏡の中を飛び回りながら愉快そうに嘲笑う。


「あーおっかしい。本来そっちの世界に存在しなかったバケモノ大暴れで都市壊滅だって! 我ながらあったまわるーい! アハハハハハ!」


 笑う黒羽根少女を‶エミリ″が追いかける。杖を振るって流れ星のような光弾を何発も発射する。しかし黒羽根少女は撃ち落とせない。余裕を見せてひらひらと紙一重でかわしてみせる。


 違う違う、違う違う、と繰り返すことしかできなくなったチタに代わって技師が鏡に様々な魔法をかける。博物館の学芸員、研究者たちが異世界の歴史が変更されてしまったことにパニックを起こす。それがこの国にどういう影響をもたらすかをそれぞれがなりあう。慇懃さを保っていられなくなった博物館の館長はなんとしてでも第一転生王が存在した歴史だけは死守しろと技師に命じる。



 悲鳴、怒号、黒羽根少女の高笑い、それらがチタの耳に反響する。気づけば意識がぷっつり耐えていた。



 それが数日前の出来事だ。

 

 チタはそれから数時間ほど気を失っていたらしい。気が付くと医務室のベッドに寝かされて、隣には心配そうなリッツァーがいた。


「……おはよう。体調はどう?」

 力を振り絞ってなんとか浮かべたような笑みと、自分の体を気遣う言葉にチタは目覚める前の出来事が夢ではなく真実だったと認めないわけにはいかなかった。


「私、何時間くらい寝てた?」

「丸一日って所かな? ここ数日疲れていたのにあんなことがあったんだもの。仕方がないよ」


 そういうリッツァーの体調も酷そうだ。目の下に黒々としたクマが浮き出ている。


「それから、木の様子はどう?」

「……一進一退って所だね。きみそっくりの人工精霊が先にかけた魔法のお陰でなんとか君たちの世界が損なわれずに済んでいると技師さんたちが言ってた」


「そう……」

 

 黒羽根少女がボウガンを撃つ数秒前に‶エミリ″が杖を振るった光景を、チタは思い返した。その直後に黒羽根少女が浮かべた愉快そうな表情。まるで幼い子供とゲームの相手をすることになった大人が浮かべるような余裕気な笑み。

 性能の劣る人工精霊である ‶エミリ″はハンデを与えられたのだ。チタはそのことを噛みしめずにはいられない。チタの頭の中で黒羽根少女の憎たらしい笑みがフラッシュバックする。悔しい悔しい。自分たちはおちょくられれている。でも、あんなんにどうやって勝っていいのかわからへん……。


 だらだらとチタの両目から涙が漏れる。

 リッツァーがその涙を指で拭う。


 その指先を感じながら、チタは前世の記憶をよみがえらせる。


 山下えみりだった自分。小さいころは日曜日の朝にやってるかっこよくて可愛い女の子のアニメが好きだった。制服みたいなコスチュームに身を包んだアイドルグループの歌の振り付けを真似ていた。大災害を報道するテレビの画面が怖くて何日も眠れなくなった。ショッピングモールにおいてあるアイドルゲームがやりたくてお母さんを困らせた。つまらないことで友達とケンカした。別の友達と男の子のアイドルグループに夢中になった。別の友達とはイケボ声優が出てくるアニメの話で盛り上がった。ファッション誌に載っている読モの子よりも自分のほうが可愛いとこっそり思っていた。インスタ映えしそうな自撮りを撮ってみてSNSにアップするギリギリのところでやめたことが何度かあった。


 その記憶のどこにも、1999年に東京がどうにかなったという記憶はなかった。

 スカイツリーができたって今でも東京タワーは観光名所だし。新宿新都庁はしょっちゅうテレビに出てくるし。浅草の雷門は外国人観光客で人気だとか、オリンピックに向けておもてなしがどうとかこうとか、そんなことをしょっちゅうテレビのニュースで言ってたけれど、1999年に恐怖の大魔王が降ってきたとかそんな事実はやっぱりない。チタの記憶にはない。


 ないということはやっぱり事実ではない。少なくともチタの記憶はあの銀色の木の歴史のように改ざんされていない。


 ずっと、チタは鼻をすすった。


「……ティッシュある?」

「ティッシュ?」

 

 リッツァーは訊き返した。そうだ、こっちにはティッシュで鼻をかむ習慣がなかった。みんなハンカチで鼻をかむのだ。どうしていままでティッシュを発明してくれる転生人が出現しなかったのだろう。そんなくだらないことを考えると、少し口元がほころんだ。


「異世界にあったの。鼻をかんだりお化粧直しをするときに使う薄いひらひらした紙のこと。リッツァーでも異世界について知らないことがあったのね」

「鼻をかむ時に使うものについて言及する転生人が少なかったんだよ」


 リッツァーも微かに笑いながらハンカチを差し出した。遠慮なくチタはそれで鼻をかんだ。鼻が詰まっていては何も考えられない。


 

 食堂で簡単な食事を撮るとチタは鏡の前に戻った。チタに代わって‶エミリ″をバックアップしてくれた技師たちをねぎらい、状況を聞く。


「‶エミリ″の対抗魔法ワクチンのおかげで虫が食い荒らしている個所より下の時代はおおむね無事です。保護されています」


 銀色の木の付近に浮かび上がる映像は、いよいよ荒唐無稽になっていた。巨大な怪物にゲームの登場人物のような恰好をした少年少女や戦うヒーローやヒロイン番組から抜け出たような大人たちが様々な技を繰り出して戦っている。

 巨費を投じてコミックを実写化した映画のようだ。チタは頭を振る。


「私の記憶ではこんな光景、映画にしかなかったわ」

「エイガ? ……ともかくあれは‶エミリ″の魔法の効果が異世界の人間に超常の力を与えてあの怪物を倒すという形になって表れたと推測します」


 ああこの世界には映画はなかったんだった、チタは再度気づいた。これは自分たちが先に鏡でテレビをつくってしまったからだ。


「あなたたちも適宜休憩をとって。長期戦になるから」


 映画がなんであるかチタは技師に説明せず、禿げたネイルを塗りなおしてチタは鏡の前にたった。



 そこから不眠不休でチタ達と黒羽根少女の攻防は続く。

 

 どうせ自分たちは黒羽根少女に勝てはしない。とにかく相手が遊びに飽きるまで銀色の木を守り続けなければならない。飽きて向こうがこのゲームをやめるまで、銀色の木を守り、‶エミリ″を援護する。それが仕事だ。そしてチャンスがあれば、1999年を食い荒らす虫を退治しチタが知っている歴史に戻す。


 うるさい学芸員や研究者は下がらせた。今ここにいるのは技師達だけだ。


 チタは鏡をタップする。

 死ね死ね死ね死ね、連呼しながら黒羽根少女を凝視する。戯れに攻撃する黒羽根少女の光弾が命中し、何体もの‶エミリ″が撃ち落とされる。その都度チタは技師に命じて‶エミリ″のバックアップを用意させる。死ね死ね死ね死ね。チタは自分が‶エミリ″に乗り移ったようなかのように錯覚しながら黒羽根少女を追いかける。杖を振るう。


 タップし続けて爪が割れるとグローブを用意させる。

 見開きすぎた目から涙がこぼれる。それを擦る。


 黒羽根少女は一向に飽きる様子を見せない。疲れも知らずケラケラ笑い続ける。


 

 そんな日が何日か過ぎた。


 自分の背後で技師たちがざわつきだしたことにチタは気づくが、それどころではない。チタの頭の中は黒羽根少女を追い払うことでいっぱいだったから。


 自分を呼びかけるものがいても無視をする。

 何度か呼びかけられてもうるさいと追い払う。


 それが何度か繰り返された時、ぐいっと肩をつかまれて後ろに倒された。


「邪魔。どけ」

 

 よろめいて倒れるチタの耳にその声だけが聞こえた。


 不眠不休で鏡を叩き続けたチタはそのまま床に崩れ落ち、呆然と自分の前に立ったものを見上げた。


 黒と白の縦じまの貫頭衣を着た子供の後ろ姿だった。髪は少年のように短く刈られ頭の両脇から渦を巻いた牡羊のような角が生えている。むき出しの足はひざ下あたりからウロコに覆われ鉤づめが生えていた。


 異種族の子供だ。それもかなり怪物に近い方の。



「やあやあ、チタ。ご苦労だったね~」

 背後から能天気な声が聞こえたので振り向くと、小ざっぱりした姿の第一王子が立っていた。技師たちが慌てて直立する。


「話は聞いたよ。なんだか大変なことが起きてたんだって? 悪いね、ちょっと外の世界でも色々起きてたもんんですぐに対応できなくって」


 王子はチタに手を指し伸ばした。反射的にチタはその手を取る。


「でももう大丈夫だよ~。すごい魔法の使い手を見つけてきたから」


 ホラ、と王子はチタに目くばせしてみせた。その先にはあの黒白縦縞の貫頭衣をきた子供がいる。

 子供は鏡を上から下へ見下ろすなり、吐き捨てた。


「なんじゃこりゃ、ひっでえもんこさえちまったなお前ら」


 言うなり、子供はむんずと鏡の中に手を突っ込んだ。文字通り‶突っ込んだ″。


「⁉」

 

 それまで余裕をかましていた黒羽根少女の顔色が初めて驚愕に彩られる。子供の手は無造作に黒羽根少女を頭から掴んだ。それこそ虫か何かのように。

 こどもは技師の手からタブレットをひったくると、つかみだした黒羽根少女をぐいっと押し込めてつきかえす。


「お師匠っしょさんの言ってた通りだ、知恵もねえくせに鏡なんぞをいじくるからこうなっちまう」

 

 子供はぶつくさ言いながら、銀色の木のあたりに再び指を突っ込み、1999年にすくっていた虫をつかみだす。それを自身の口のなかに放り込む。


「うへ~っ」

 ぐちゃぐちゃと咀嚼音をたてながら虫をかみつぶすのを見て、王子は首をすくめた。どことなくふざけた様子だ。

 チタは目を見張る。この子供はなんでもないことのように、鏡の中だけで実在するはずの人工精霊や魔法の虫を手づかみし、噛み潰す。


 そんなことできる人間なんか、いやしないはずだ。たとえ古い魔法に慣れている異種族にだってそんなこと。


 

 虫の駆除された銀色の木の世界でも、東京の空に現れた怪物が断末魔を上げて倒されていた。ヒーローたちが勝鬨の声を上げている。本当に悪い冗談みたいな光景だ。

 それには目もくれず、子供は手を伸ばし木の枝をまさぐる。


「……あー、虫が喰ったとこより上の枝はダメだな。どうにもなんねえわ」


「最低限第一転生王の枝だけは必ず残しておきなさい。いいね」

 口調こそやさしいが王子がしっかり子供に命令する。それまで鏡から視線を写さなかった子どもがその時初めてふりむいた。瞳孔が縦長で、爬虫類を思わせる目だ。


「おめえの命令を聞く筋合いはねえぞ?」

「聞いてもらわなきゃ困るね。この世界をまもることは君の師匠の悲願でもあっただろう?」


 子供は忌々し気にペッと床につばを吐くと、まず最初に自分の指を口に含んだ。唾液でぬれた指先を金色の木に擦り付ける。


 王子はそれを見てまたウエ~と冗談っぽくうめいた。

「どうにも君の魔法はエレガントさに欠けるね。先生はそういうのを嫌ったはずだけど?」

「こっちの木の安全すりゃ守られれば文句ねえだろ、第一虫除けの魔法なんざこれで十分だ。まだるっこしい呪文なんざかけてらんねえ」


 一本の枝だけよりわけると、そのほかの枝をグイとつかむ。そして乱暴に引きちぎる。その動作が何を意味するのか、呆然としていたチタにも気づいた。

 子供が今掴んでいる先端の枝。それは自分が転生していたことを示す枝だった。


「待って、やめて!」

 

 チタは悲鳴を上げた。子供の体に取りすがる。


「その枝が引き離されたら私がこの世界からいなくなる!」

「いなくなりゃしねえよバカが。さっきおれがこっちの木に魔法をかけただろうが! 黙って見てろ!」


 尖った肘をチタに突き立てチタを邪魔そうに振り払うと、子供はチタの目の前で無造作に枝を引きちぎる。ぶちぶちと。

 

「こっちの木の歴史がちっと変わっちまうだけだ。それだけのことで大騒ぎすんじゃねえ」


 枝を切り払われたあたりから銀色の木はそろそろと新芽を伸ばしするすると成長を始める。そしてそれはまたさっきとは別の形へと成長する。


 子供はむしり取った枝を一目見て、鏡の中に投げ捨てた。無造作に、ポイっと。


 慣性にしたがっているのか、枝はくるくると回転しながら、鏡の中を飛んで行く。どこまでもどこまでも。


 チタはそれを目で追うしかなかった。自分が生まれた1999年以降の歴史がかなたへ飛んで行く。

 

 わあっ! と叫んでチタは子供を叩いた。すると間髪入れずに殴り返される。目から火花が散るほど容赦ない反撃だった。


「こらこら、ご婦人に手をあげない」

 倒れて鼻血をふくチタを抱き起して王子は子供を注意した。


「お師匠っしょさんはおれの物覚えの悪い時は容赦なくガンガンぶっ叩いてきたぜ。しかも杖でよ。くっそ痛かったぜ」


 子供は全く悪びれない。

 王子はやれやれと肩をすくめてからチタに高級ブランドのハンカチを差し出した。


「チタ、ごめんね。紹介が遅くなって。この子は先生の最後のお弟子さんだよ。覚えているだろ? 君たちがあの鏡をプレゼンした時に激昂されたあの偉大なる魔法士の先生の。先だって身罷られた時に立ち会った最後のお弟子さんさ。ま、魔法のアレンジが斬新すぎて最初は目を疑ったけれど」


「約束だろ。とっとと檻の外へ出してくれよな」


 子供は再び粗野なしぐさで床につばをはく。


「おめえの部下がどっかのお貴族魔法使いさまの団体の奴らとまちがえやがって豚箱に放り込まれてからこっち、ひでえ目に遭わされたんだぞ。何日もくっせえ飯食わせやがって」

「ははは、それは申し訳なかったね。その埋め合わせはするよ」



 王子は朗らかに笑った。

 とりあえずこちらの世界は守られたんだ、だからなにもかもハッピーだ。そういわんばかりの明るい笑顔だった。


 王子に手渡されたハンカチを鼻に押し当てるチタの頭には、子供が投げ捨てたあの枝のことしかなかった。むしり取られ、くるくると鏡の世界を飛んで行く枝。


 本当の1999年以降の歴史があった枝。



 チタの頭にはその様子だけが何度も何度も繰り返された。



 

 宮廷魔法士最後の弟子を連れて現れるまで、王子は優雅にランチを楽しんでいた。

 そして、海の向こうで始まった戦争に我が国も参加した方がよくない? これからの国の発展のことを考えるとさあ……というような趣旨のことをそれとなーくお友達と話し合っていたのだが、そのことをメディアが報じるのは数日後のことである。

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