第13話 西暦2027 界壁越境トンネル(通称賽の山トンネル)開通十周年。
「ジウ、久しぶり」
「⁉」
習慣的に持ち歩いているコンパクトが淡く発光した。ここ十数年絶えて久しかった反応だ。いぶかしむより先にジウはエコバッグからそれを取り出すと昔のように開いていた。
そのとたん、即座に少女が飛び出してすぐさま実体化する。それは懐かしい姿だった。顎と肩の中間あたりで切りそろえられたボブカット。丸くて大きな目小さな口の童顔。80年代のアイドルにかぶれたぶりっ子が着そうでクソださいとずっと思っていたけれど絶対口にはしなかった、ふんわりしたシャーベットカラーのワンピース。
亡霊が立っているのかと思ったが、その姿はどう見てもチタだった。アカデミーにいたころ一緒にだらだらした時間を過ごしていた頃のチタ。途端に胸が懐かしさでいっぱいになる。
「チタ、チタやないの⁉ いや~、あんた生きとったん? 元気そうやないの~」
チタのつやつやふわふわのボブヘアをくしゃくしゃ撫でまわす。チタは笑いながらもその手をそっとのけた。そういう手つきも完全に昔のままだ。ムッとするよりも懐かしい。
「なんやうちらの国が戦争でみんなふっとんでしもたって聞いてて、あんたのこともあきらめとったんやけどなあ。生きてたんやったらそらよかったわ」
「生きてへんよ。本体はとっくに死んでる。分子レベルですら存在してへんのとちゃうかな」
「あ、せやのん? そういえばあんたアカデミーにおった頃の姿やもんなあ。うらやましいわあ~」
「〝エミリ″のこと覚えてる? あれ、うちの意識を互換できる魔法がかかっててん。本体が死んだ時に気が付いたら乗り移ってた。なんや王子様に敵対してたテロ組織あったやろ? そいつらの呪いでうち永遠に鏡の世界をさまよう呪いをかけられてんやって」
「うっわ何それ、エグいな。せやけど昔の姿に戻してもろてよかったやん。ええ呪いかけてもうたやんかいさ」
「笑いごとちゃうって。そっからずーっと鏡の世界をさまよってた。色々見てきたんやから」
「ふーん。せやけどうちもあんたらに若い時の姿の人工精霊用意してもおたらよかったなあ。そしたら今頃ぴちぴちのJCで生活できとったのに」
「あんたうちの見た目のことばっかり!せやけどジウ、完全におばちゃんやもんな」
「せやろ~。アニマルプリント着るのも全然抵抗あらへんわ」
旧交を温めながらも、ジウはつっかけサンダルのつま先でさっきからぐしゃぐしゃと何かを踏みにじっている。チタは気になったようで尋ねた。
「さっきから何を潰してるん?」
「ああごめん、殺し屋」
勤めているスーパーで買った割引された総菜と日用品が入っているエコバッグを手に階段を上ろうとしたところを黒い服を着た何かに襲撃された。相手は何か、銃のようなものを持っていたらしく、パウっと間の抜けた破裂音が聞こえた。しかしその時はすでにジウは五本の指に指輪をはめた右手でその銃弾を叩き落している。振りかぶって襲撃者の顔面を殴りつけていた。
一センチほどの宝石がリングに据えられた指輪で。
ぐしゃ、と襲撃者の顔面は一発で砕ける。ぴくぴくと痙攣する襲撃者の顔面を、はあ~どもならんわとつぶやきながら履いているサンダルでぐいぐい踏みつぶしていたのだった。
「なんや、しらんけど『魔王、死ね!』言うて時々こういうのが来おるんや。誰が魔王やねん。人を坊や誘拐犯みたいに。うちはシューベルトかっちゅう話やでほんま」
「ああこれこれ。これがさっき言った呪いの効果。あんたもうちらと一緒にテロ組織の呪いの標的になっててん」
「え、うっそマジで?」
「マジ。ちなみにうちもようこんなんにからまれた。鬱陶しいよな」
「なあ~、最近はあんまりぐちゃぐちゃ言うのが少なあなって直接パンパンピストル撃ってくるのが増えたから助かるわ。話が早くすむし」
「ああ~、分かるわぁ~。世界がどうちゃら、故郷の仇とか父母の仇とかなんやごちゃごちゃ言うてくる勇者名乗る子供が一番ダルいよな」
「そうそう~、あれ鬱陶しいねんホンマ」
「『猛スピードで走ってくる列車が走ってくる線路の上で動けなくなってる人が五人います。貴方はポイントを切り替えられる立場にいます。ポイントを切り替えると五人は助かります。しかし切り替えた先の線路にいる作業員を一人を殺してしまうことになります。あなたならどうする?』ってなぞなぞを出すと大抵の子供は追っ払えるからおすすめやで?」
「マジで? いや~そんなええ技があんねんたらもっとはよ教えて欲しかったわ~。今来るのはヤクザばっかやもん。なんやしらんけどうちのこと倒したらアウトロー業界で名前があがるみたいでな」
ジウにとっては十数年ぶりに口をきくというというのに二人はペラペラしゃべる。その間もジウは死体の隠滅作業に余念がない。右手の指にはめられた指輪のうち、オニキスのように黒い石のはまったものを選んで外すと呪文を唱えて宝石の部分を少し傾けた。
ぽたりぽたり、そこから黒いしずくが垂れて死体にかかる。
しずくは肉体と反応するとじゅわじゅわ泡立ち、死体を覆いつくした。むわっと酷い匂いが立ち込めたが、すぐに風で分散された。
ものの数分で、身に着けた衣類やセメントについた血痕ごとさっぱり死体は消え失せる。
「なにそれ、便利やな。魔法?」
指輪を元通り指にはめなおしながらジウは答えた。
「魔法魔法、こっちも魔法が広まりつつあんにゃで? せやけどこれは非合法のやつ。使ってんのバレたらお巡りさんに捕まるやつ」
ふーん、とチタは口にした。
「そういえばあんたの故郷は見つかったん?」
ジウは話を変えた。チタの前世の山下えみりがいた世界には1999年に恐怖の大魔王は来ていないし、代わりに世界の各地で大きなテロが起きたり大災害が起きたりしていた。魔法なんて存在しない世界だったのだ。
そんな鎖国中の島みたいなもん見つけてどうすんねん、とジウは呆れていたが、あの頃のチタはかたくなに故郷を見つけようとしていたのだっけ。
「……それを話に来てん」
少女時代の姿をしたチタは寂しそうに微笑んだ。
そんな顔をされては、おばちゃんになったジウとしては放っておけなくなる。自分を殺しに来たヤクザは死体ごと消すことに。すり減った良心が呵責を覚えたりはしないけれど、十三~四の女の子に目の前でしょんぼりされてはたまらない。
「まあ、入りいや。お茶ぐらい出したるさかい。飲める? お茶」
「飲めるわ。うちのとこの実体化技術舐めんときや」
カンカンカン、と音を鳴らしてアパートの階段を上った。
煌々とまばゆい高層ビルとは対照的に木造の低層住宅が立ち並ぶ、再開発待ちのとある一画。
今でもまだこんなのが! と驚かれるような古びたアパートにジウは暮らしている。
殺し屋の銃声も、ジウが指輪のはめられた手で襲撃者を殴りつけて階段にぶつかった音も結構大きかったはずだが、一帯の住人が飛び出して様子を見に来るような様子は何もない。
ただどこからかテレビの笑い声と、晩御飯の匂い、お風呂の湯の匂いが漂っているのみだ。あまり治安のよくない地区の住人らしく、他人のトラブルに首を突っ込まないという態度が徹底している。
ジウのような経歴を持つ人間には暮らしやすい町だった。
ベッドにこたつ机に収納用の棚、最低限度よりやや多い家具がぎゅうぎゅうにつまったジウの部屋の目立つところにはやっぱりテレビがある。
家に帰るなり電灯をつけてすぐにテレビの電源も入れるジウ。静まり返っていた部屋が一気に明るく、賑やかになった。
「まあこたつにでも入っとり」
チタのような体だと天候のいい・悪いが精神の快・深いにつながるかどうかは不明だったが、今はもう晩秋である。
案外大人しくチタはこたつに足を入れ、天板にぺたっとほっぺたをくっつけた。
「なんか懐かしいなあ……おばあちゃんの家みたいや」
「おばちゃんとばしておばあちゃんかいな」
ジウは手を洗ってうがいをすませ、お茶と自分用の食事を用意する。勤めているスーパーで買った半額の弁当だ。
普段はそれなりに料理もするのだが、今日は毎週楽しみにしている番組があるのだから家事のついでのながら見なんかしたくはないのだ。
たとえ十数年ぶりに直接会った友達であってもだ。
チタにも湯呑に淹れたお茶とみかんとせんべいを渡し、ジウはこたつに入ると弁当の蓋をあけた。一応チタにあんたも食べるかと尋ねたが要らないと答えてみかんの皮を剥き始める。
ほどなくして20時になった。CMが終わって、ジャンとロケの映像が始まる。しばらくしていつもの例の二人が登場し、いつものレギュラーメンバー相手にロケの趣旨を説明し始めた。
「あれ、この番組終わって無かったん?」
チタが驚いた。
わけもなくジウは誇らしくなる。
「せやで! 今年で放送35周年なんやで!」
チタと初めて話した時、2017年段階ではとっくに終了していると聞いたフジテレビ系列日曜夜20時の番組はジウが今暮らしている2027年では放送が続いていた。
トンネルを通ってこちらの世界へ帰ってきた時、ジウはそのことに歓喜した。ジウの神様だったあの二人はまだこの番組でいつものメンバーと体を張ったロケやコントで頑張っていた。ジャリズムは解散していたけれど。
観光で訪れた東京はところどころとんでもないことになっていてあちこちに大きなクレーターや慰霊碑が立っていたし、東京タワーはひしゃげていたが、あの丸い球体が特徴的なフジテレビ社屋は無傷だった。初めてそれを目の当たりにしたジウは、旅行にどうこうしていたリッツァーの袖をつかんで指さしたものだ。
「リッツァー、あれっ、あれがフジテレビ!」
リッツァーは、あああれが……と、感心したように深く何度もうなずいていたものだ。戦争が終わりさえすれば故郷に帰れると、信じていた平和な頃の思い出。
しかしチタは興味無さそうに、リモコンをいじってほかのチャンネルにあわせようとする。
「ふーん、イッテQはやってへんの?」
「? なにそれ。何チャンでやってる?」
「日テレ系」
「はあ~、特命リサーチ復活させてまだやっとるわ!」
チャンネルを変えられないようにチタはリモコンを取り上げた。
毎週日曜のお楽しみを、ジウは弁当を食べながら堪能した。
過酷なロケに翻弄される、もう全員いい年なタレントたちの奮闘に噴き出し、お金のかかった装置がくりだす容赦なく痛そうな罰ゲームに悲鳴をあげながらも笑い、奇想天外なコントに爆笑した。
その間チタは大人しくミカンを食べてはじーっとしている。一応テレビの画面を見ているが、淡々と眺めているのみだ。
自分が面白いと思ってみている映像を、同室の人間がノーリアクションだったりするとわけもなく不安になる。ジウはおちつかなくなって聞いてみた。
「何、面白いやろ?」
「おもしろなくはないけど……みんなもうええ歳したおっさんやし、おっさんが体はって面白いことしようとしてんの見ていて辛い」
もそっとこちらのテンションが下がるようなことを言う。
あー、チタはこういうやつだった! とジウは一瞬でかつての自分がよく感じた憎たらしさをよみがえらせた。チタはジウが自分が見聞きした面白いものやことについて熱意を込めて説明していると、冷めた目で「ふーん」と返してすぐに話を変えてしまうのだ。ジウはそれが嫌いだった。
せっかくのお楽しみが台無しになった気持がする。せっかく家に招いてお茶も出し立ったっていうのに、なんやねんこいつ。
ジウの不機嫌が部屋の空気を悪化させる。
六畳一間が沈黙に沈んだ。テレビから聞こえる笑い声がむなしく響く。
「なあジウ」
「……何?」
五穀米ご飯を口に運びながらジウは答えた。
「〝エミリ″の機能停止呪文、覚えてへん?」
「……ああ」
苦々しい思いを強めながらジウは二人が大喧嘩したあの日のことを思い出した。
〝エミリ″という人工精霊の大事な呪文を勝手に設定したとチタがジウに理不尽な言いがかりをつけた上に殴ってきたことがかつてあった。その瞬間、ジウがチタに感じていたいら立ちや憤りが一気に噴き出してつかみ合いの大喧嘩に発展したのだ。
あのケンカの日以来、二人は有名無実だった同居を解消したり、チタが鏡だらけの部屋に引きこもったり、その間にほったらかされたリッツァーをジウが略奪したりで完全にこじれてしまい、お互い顔を合わせる機会は二度と無かったのだ。
そもそもジウはあの日酒を飲んで酔っ払っていたのだ。酔っ払っていた時に何を歌っていたのかなんて覚えているわけがない。大体、人工精霊が呪文を受け入れる状態にしたまま寝落ちしてしたチタが一番悪いのだ。
「なんとかして思い出してもらえへん?」
チタはジウのむしゃくしゃに気づかず、元気を失くした声で頼む。
「無理やって。うちあんときかなり酔おてたし」
「うちな、消えたいねん」
チタはこたつの天板に突っ伏してから言った。
「さっきも言うたやろ? うちの今の体は〝エミリ″がベースやから〝エミリ″が消えさえすれば自然にうちも消えるねん。完全消滅すんねん」
「……ちょっとちょっと」
ジウはご飯を飲み込んで、チタの頭を軽くはたいた。
「今、週に一度のうちのお楽しみタイムやねん。これがあったらまた来週がんばれるっちゅうやつなん。それをあんたは急にやってきてそれをおもいっきりじゃましてくれてんねんで? わかってる?」
頭をはたかれてもチタは無反応だった。力なく天板に突っ伏したままだ。
「分かってる。悪いおもてる。せやけどもう限界。うち、今日までいろんな世界を見てきた。山下えみりがおったほんまの2017年がないか、どっかにあるはずやって今日まで頑張ってきた。一人で、鏡の中で。せやけどもう耐えられへん」
つっぷしたチタがぐずっと鼻を鳴らした。どうやら泣き始めたらしい。
「ジウ、なんでうちがあんたのとこに来たと思ってる? あんたにうちを消してもらおう思たんや」
涙を流しながらチタはぐずぐず語った。
「〝エミリ″は本来感情が設定されてへんねん。そやけどな、鏡の世界でなんかもう自分でもようわからんくらい長いこと生きてたら勝手になんや感情が生まれてん。一旦あ~しんどいな~たまらんな~とか気づきだしたら、もう止まらへんねん。つらいねん。なんでうちばっかりこんな目に遭うんかって気になるねん」
ジウは片方の耳でチタの嘆きを聞き、もう一方の耳でテレビの音声を拾いつつ、弁当をもしゃもしゃ食べる。
「そしたらな、本来なかったはずの感情がわーっと蘇ってきてな。うちらのおった世界が焦げ焦げになった瞬間のことが急に怖あて怖あてどうしようも無くなってきて……。そうなったらもうあかんかった。耐えきれんなってしもて気が付いたらあんたんとこにおった」
聞きながらジウはまたうんざりした。
チタはいつもすぐこうやってへこたれて泣き出すのだ。鏡の開発に行き詰まると「うちらには無理やったんや」と言ってぐずぐず泣きつく。リッツァーと付き合っていた時は、だるいだつかれただとなんのかんのと甘えて寄り掛かっていた。リッツァーははそれを赤ん坊か何かのようにあやしていたっけ。
うちは死んでもこんなふうに泣き言は言わん。甘えるより甘えさす方なんやからな! うちが甘えて泣いたのはトバコが連行されたんを聞いておんおん泣いたあの時で最後や! の気概で生き抜いてきたジウにはチタのこの態度に腹立って仕方がない。
とはいえ、やっぱり消えたいは穏やかではない。
いくら腹の立つあまったれだったとしても、チタは今子供の外見だし、なにより古い友達だった。
ジウは立ち上がり、冷凍庫からとっておきのアイスクリームを取り出した。有名メーカーの期間限定フレーバーで、ジウが今日の楽しみに取っていたものだ。
それをスプーンとともにチタの前にどんと置く。
「なにこれ?」
「アイス」
「見たらわかる」
「うるさいな! 甘いもん食べたら元気が出るやろ! 黙って食べ。言っとくけどあんたの言うてること自殺幇助やで⁉」
「……あんた、さっきあんな風に人殺してたくせに、なんで人工精霊一体消すのをためらうのん?」
「あんたは人工精霊ちゃうやろ! チタはチタや。腹立つけどうちの友達や! 消させるかいな!」
日曜の夜のお楽しみが台無しになった憤りをたっぷりこめて、ジウは吐き捨てた。
「……それに、その呪文も思い出されへんから、消したあなっても消されへん。無理っ」
「……ジウ……」
顔を天板にくっつけたままチタは顔をこっちに向けた。涙と鼻水が垂れ流されて酷いありさまだった。
「……ツンデレ気持ち悪い……」
「ああ~もううっさい! その呪文覚えてへんかったことを今悔やんどるわ」
チタは体をおこし、ティッシュでビーっと鼻をかんだ(人工精霊なのに鼻をかむらしい)。
「……ありがとう、ジウ」
「……ええよ、別に。うちも時々話し相手が欲しい時があるし、あんたと一緒にまた暮らすんも悪ないおもてる」
「そういや部屋のグレードがだいぶ下がったな」
「まあ、今はパトロンもおらへんさかいな。その分気楽やで」
「リッツァーはどうしたん?」
「元気やで。魔王様なうちのそばにおると危ないし、離れた所にくらしてるけど連絡はとりあってる。子供らがだいぶ大きなったで? 今度会わしたるわ」
「ええ~、要らんわ。あんたらの遺伝子引き継いだ生命体とか、見たない」
チタは心底不快そうに顔をしかめた。愛するわが娘に対してなんて言い草……! という母親としての腹立ちと、愛する男と最終的に家族を構えることになったのは自分という優越感がジウの中でせめぎあう。
その時、番組がエンディングにさしかかる。日曜日の夜にぴったりな、せつなくものがなしいメロディーが流れてくる。
「あれ、この歌……」
チタは画面に目を据えた。画面では妙な扮装をした出演者たちがメロディーに合わせてゆっくり行進している。
「ああ35周年記念のセルフカバー版やねん。懐かしいやろ」
チタが「ごっつええ感じ」を見たことが無いのを忘れて「懐かしいやろ」という程度にはジウのテンションがややあがり、メロディーに合わせて口ずさんだ。
最近だんだんわかってきた
僕が死んでも誰も泣かない
いろんなことが見えてきた
見たくはないものばかりだけど
「……なにこの歌詞、めっちゃ悲しいやん」
「せやろ、30過ぎたらこの歌詞めっちゃ身に染みるねん。風呂場で歌ったりすると泣くで?」
昔はゲラゲラ笑いながらうたってたんやけどな~、と間奏の間にジウは告げ、慌てて続きをうたった。
ジウの歌声は年を経て程よくハスキーになり、マイナー調のメロディーがよく似合うようになっていた。職場の全員でカラオケへ行くと、ブルースをうたってみたらどうかとパート先のジャズ好き店長に勧められることもある。
チタは食い入るように画面を眺め続けている。
表情が消え失せ、まるで人形になったようだ。
今日のエンディングはフルバージョンを流すらしい。ジウはちょっとトイレに立つことにする。
ああ明日になんかならなきゃいいのにー
ああ明日になんかならなきゃいいのにー
どうせ今夜も金縛り
三日連続金縛り
トイレから出て手を洗い、リビングに戻る。
そこには誰一人いなかった。
チタの姿は影も形もなかった。
「チタ?」
こたつの布団をめくる。ベッドの布団もめくる。カーテン、押し入れ、自分がでたばかりのトイレ。
チタが隠れそうな場所はすべてざっと探してみたが、チタの姿は影も形もなかった。
忽然と消え失せている。
天板の上にあったのはミカンの皮と、ほどほどに柔らかくなったアイスのみ。
「……」
ジウはエコバッグからコンパクトを取り出した。
指でその表面をこつこつと叩く。しかし鏡はもうなにも反応しなかった。そこにあったのは中年女になった自分をうつす、ただの手鏡だ。
現実が受け入れられないジウは、チタが手を付け忘れたアイスクリームを食べた。冷凍庫でカチカチの状態から常温で数分放置され、皮肉なことに食べごろになっていたのだ。今食べなきゃもったいないと、脳がとっさに下した命令に従う。
さっきの歌が呪文だったのだとその事実をかみしめたジウは、その後ほんの少し泣いた。
チタのアホ、とつぶやいて泣いた。あんたいっつも勝手なんや、と罵って泣いた。
翌朝は元気に仕事先のスーパーに元気よく出かけ、フルタイムでレジを打ち、そして時折襲ってくる勇者という名の殺し屋を撃退しながら、急性心不全で世を去るまでジウは寂しくはあるが非常にパワフルな余生を過ごした。
お笑いという生きる楽しみがあったジウには土壇場の生命力に関してはチタより旺盛で往生際がわるかったのだろう。呪いによってやってくる殺し屋を返り討ちにし、アンダーグラウンド魔法使い業界では『不沈の魔女』の名を終生ほしいままにしていた。
生前ジウと親しくしていた職場や近所、ソーシャルワーカー、そしてジウのもう一つの顔であった非合法魔法を使う魔女の顧客であった人々は死後数年経ってもそのうるさいくらいに明るくて図々しいが憎めない人柄を懐かしそうに語る。
「呪いとか悪意っちゅうもんはな、毎日笑てたらなんとかなるもんや」
これはジウの晩年の口癖だったようだが、実際、七氏族の呪いにより界壁をこえてやってきた勇者(その半数はヤクザ)を魔法の鉄拳で撃退し続けた魔王の言葉となると説得力があるように思える。
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