十五、僕の剣、俺の魔王

目が焼けてしまうのではないかと思うほどに眩い光を放つ、あの金色が好きだった。

 届きそうで届かない。

 胸に湧き上がったその想いが叶わないことをアスモデウスは知っていた。

 偉大なる長兄、ルーシェル。

 兄に抱く想いにしては随分と重く、どろどろとしたそれを飲み込んだ結果、アスモデウスは男で居ることに疲れてしまった。

 父である神と大喧嘩をして天界を離れると言った彼に一番初めに付いて行くと手を上げたのはアスモデウスだ。

 大好きな兄を独り占めできる。最初はそんな風に考えていた。

 けれども、彼の傍らにはいつもアリスが居て。

 アスモデウスの幼い恋心は日の目を見る前に死んでしまった。

 ルーシェルが笑えば、アリスも同じように顔を綻ばせる。

 そんな二人のやり取りを微笑ましく感じるようになった頃、アザゼルがアリスを攫って、二人の仲を引き裂いた。


「ねえ、知っていた?」

 言葉はいらない。

 そう言わんばかりに降り注ぐ矢の雨を、アスモデウスは毒の息で溶かしていく。

「貴方が引き裂いた二人は、必ず出会うようになっていたのよ」

「何の話だ!」

「ルーシェル兄様とアリスの話に決まっているでしょう? 他にお前と話すことなんてないもの。相変わらず鈍いわねぇ」

 ふふ、と天界に居た頃を思い出して、アスモデウスは笑った。

 あの頃は毎日がただただ楽しくて、こんな風に弟と本気の殺し合いをする日が来ようとは思ってもいなかった。

「魔族(ルーシェル)と人間(アリス)の縁は結ばれない。お前はそう言っていたけれど。それは違うよ」

 アザゼルは攻撃の手を緩めない。

 次から次へと、雷の如く唸りを上げる矢がアスモデウスの肌を掠めていく。

 全て紙一重で避けきったアスモデウスを見て、アザゼルは悔しそうに表情を歪めた。

「縁は一度結ばれたら、そう簡単には断ち切れない。本人たちでもそれを切ることは難しい。例え遺伝子がアリスの複製だったとしても、それは同じこと」

「まさか!?」

「そのまさかよ。当代の王には、ルーシェル兄様の血が混ざっている。あの紅色の瞳を見たでしょう? あれは、兄様の色。血が薄まってもあれだけは見間違えるはずがない」

 アザゼルの拳が、怒りでぷるぷると震えていた。

「何故、俺を選ばないんだ。どうして、いつも彼女はあいつを選ぶ」

「お前の愛は重すぎた。アリスにはとても受け止めきれなかったのよ」

「そんなことはないっ!! それでは、俺の愛が間違っていたことになるっ! 俺は……! 俺はただ傍で笑ってほしかっただけだ! あの笑顔を、俺にも向けてほしかった、それだけなのに!!」

 ゆらり、とアザゼルの姿勢が不安定な動作で後ろに傾いだ。

 アスモデウスは目を細めると、髪を伸ばして彼の身体に巻き付ける。

 身動きを封じられたというのに、何の抵抗も示さないアザゼルにアスモデウスは眉根を寄せた。

「相変わらず、子供みたいなことを言うね。お前は」

「……っ」

「愛は大きすぎると形を変える。膨らみすぎたそれはやがて己の身をも亡ぼす狂気になり果てるだけだ。――お前のように、ね」

 髪を元の長さに戻すと、所在なく彷徨う瞳が子供の頃のそれと重なって、アスモデウスはアザゼルに向かって腕を伸ばした。

「愚かで、優しい弟。お前は愛を注ぐ器を間違えてしまった」

「に、いさま」

「俺と同じで歪で異質な愛を持つお前のことは痛いくらいによく分かる。だからもう、これで終わりにしよう」

 アスモデウスのしなやかな腕が、アザゼルの腕を絡めとる。

 久方ぶりに抱きしめた弟の身体は酷く震えていて、殺し合いの最中だというのに、それが少しだけ可笑しかった。

「そのまま押さえていろ! アス!!」

 懐かしい兄の声が、アスモデウスの耳朶を、心を喜びで震わせる。

 天高く舞う灰色の翼を視界で捉えるとアスモデウスは、アザゼルの身体をきつく抱きしめた。

「怖くない。怖くないよ。アザゼル。俺も共に、行ってあげるから」

 いつかのように――天界を去ることを泣いて愚図ったあの日のように、アスモデウスがアザゼルの背を優しく撫でる。

――ドンッ。

 ルーシェルの鋭く尖った爪が、心臓を抉った。

 痛みで眼前が白く染まる。

 次いで感じた浮遊感に身を任せようと、アスモデウスが目を閉じると、温かな温もりがそれを阻止した。

「ルーシェル兄様。約束は守りましたから、ね?」

 愛しき我が兄、ルーシェル。

 ずっと貴方の後を追いたかった。

『我の代わりに、我の子を、我の愛したこの世界をアザゼルから守ってくれ』

 貴方と交わしたあの約束が無ければ、疾うに後を追っていた。

「ああ、礼を言う。アスモデウス。俺は本当に良い妹を持った」

「ふふ」

 ごはっ、とアスモデウスの口から血が噴き出す。

 ルーシェルに抉られた心臓が動きを止めようとしているのだと、どこか他人事のようにアスモデウスは空を見上げる。

 朝焼けが夜を飲み込もうと、東の空で色を帯び始めていた。

「死なせはせん。少し、我慢しろ」

「え?」

 何をするつもりなのだ、と聞き返す間もなく、ルーシェルの掌が穴の開いた胸に重ねられる。

 ぽう、と柔らかな光が傷を照らしたかと思うと、あっという間に傷が塞がってしまった。

 抉られた心臓もすっかり元通りになり、正常なリズムを刻み始める。

「アスモデウス!!」

 ルーシェルに抱えられたまま、地面に降り立つとそこには全身傷だらけになったヴォルグとナギの姿があった。

「ありがとう。貴方たち。兄様を救ってくれて」

「礼は良い。それより、大丈夫なのか!? 酷い出血だぞ!!」

「平気よ。兄様が治してくれたから」

 心配そうに自分を睨むナギを誤魔化すように、ぎゅうと抱きしめてやれば、納得したのか、暑苦しいと言わんばかりに身体を遠ざけられてしまう。

「大聖人は?」

「……あそこよ」

 アスモデウスの示した先を視線で辿って、ナギは絶句した。

 古い礼拝堂の上に身体が突き刺さったまま動かなくなっている天使に、ヴォルグとナギが息を飲む

 恨めしそうにこちらに視線を寄越す彼を見て、ルーシェルはゆっくりとそちらへ歩みを寄せた。

「アザゼル」

 ルーシェルの声に、アザゼルの眉が僅かばかりに持ち上がる。

 瀕死の状態だからなのか、声を出すのも億劫なようで、表情だけで「何だ」と問い返してくるのが分かった。

「我はお前が憎かった。アリスを連れ去ったお前を殺してしまいたいほどに」

「……」

「だがこうしてお前が死にそうになっているのを見ると『悲しい』と、そんな気持ちが湧き上がってくるのだ」

 ルーシェルが翼を広げ、空に舞い上がる。

 灰色の、濁った羽が風に踊って、アザゼルの鼻先を擽った。

「我はお前が憎い。それは今も変わらぬ。だがな、憎くても嫌いにはなれんのだ。この一万年。お前のことを嫌いになろうとした。けれど、出来なかったのだ」

 アザゼルはルーシェルの言葉を黙って聞いていた。

 ナギの手を握っていたアスモデウスが、ルーシェルの後を追って、空を舞う。

「私も。貴方のことは、嫌いになれなかったわ」

「何故だ、と言う顔をしておるな」

「愚問ね。貴方が私たちの可愛い弟だからに決まっているでしょう」

 アザゼルの目が大きく見開かれる。

 そして、淡い光が彼の身体を優しく包み込んだ。

「……我は行く。お前も共に来るか?」

 ルーシェルが伸ばした腕を、アザゼルは拒まなかった。

 ずるり、と十字架から引き抜かれた彼の身体は、血に汚れ、穴が開いていた。

 だが、ルーシェルはそんなこと気にもしていない様子で弟の身体を抱き留める。

「世話を掛けたな、アリス。当代の魔王よ。これからも頼むぞ」

「ああ」

「はい」

 ヴォルグとナギがゆっくりと首を縦に頷かせるのを見て、ルーシェルは満足そうに笑った。

「では、さらばだ。アス。お前も、奴らの助けと――」

 ルーシェルの言葉が終わるより先に、アスモデウスは彼の胸の中に飛び込んだ。

 腕を肩に回されていたアザゼルが突進してきたアスモデウスへ抗議の視線を向けるが、彼女はルーシェルの身体を抱きしめるのに必死でそれに気付く様子は無かった。

「私も連れて行って」

「アスモデウス」

「もう一人ぼっちはごめんよ。ずっと玉座の下で魔力を張り続けるのなんて、もういや」

 兄様と行きたい。

 それっきり、アスモデウスは何も言わなかった。

 ただ、ルーシェルの背に縋る指先が、アスモデウスの心を物語っていた。

「……顔を上げよ」

「良いって言うまで離れないから!!」

「アス。顔を上げろ、と言っているのだ」

「嫌!! そんなこと言って、誤魔化そうとしても……っ」

 ぬるり、と唇を這った生温かい感触にアスモデウスの身体が硬直する。

 次いで、トンッと軽く肩を押されたかと思うと、身体が自由を失って地面へと降下を始めた。

「生者が死者に縋るな。お前には我の代わりに、我の子たちを見守ってもらわねばならんのだ」

「兄様!!」

「愛しているぞ。アスモデウス。我が愛しの弟よ」

 アザゼルを包んでいた光が、ルーシェルの身体を飲み込み始める。

 太陽のように朗らかな笑みを浮かべて、空気に溶け込んでしまったルーシェルとアザゼルの姿をアスモデウスは涙を流しながら見送った。

「酷い、酷いわ。お兄様」

「アスモデウス……」

 へたり、とその場に座り込んだアスモデウスを、今度はナギが抱きしめる番だった。

 彼らが消えた空をヴォルグはただ黙ってじっと見つめていた。

「帰ろう。僕らの世界へ」

 ヴォルグの言葉を皮切りに、ナギとアスモデウスはゆっくりと棒のような足を動かして彼の後に続いた。

「ナギ」

 不意にヴォルグの指がナギの掌を掠めた。

 ぱちぱち、と瞬きを繰り返しながら、前を歩く彼を見れば、やけに真剣な表情をしたヴォルグと目が合って、思わず触れた指先に力が籠った。

「な、何だよ」

 言葉尻が上擦ってしまったことにナギが唇を尖らせれば、ヴォルグの汗ばんだ手がナギの肌の上を這っていく。


「おかえり」


 その一言に、ナギの眦を涙が伝った。

 胸の内から言葉にならない想いが涙となって溢れだす。

「ただいまっ」

 ぎゅう、と感情のままにヴォルグの手を握れば、少しだけ痛かったのか、ヴォルグの眉がぴくりと不自然に上がった。それがまた可笑しくてナギは握る力を強くする。

 ついには「痛い」と魔王の悲鳴が上がるまで、二人は互いの掌をギュッと握りしめていた。


 魔王城のテラスから見下ろす中庭はナギのお気に入りだった。

 月明かりがネモフィラの花を優しく照らす光景をうっとりと見つめていると、すぐ後ろで何かの気配がナギを揺さぶった。

「……さらばだ、って言ってなかったか、アンタ」

「ああ。そのつもりだったのだが、どうやらお前と結ばれた縁の所為で消えるに消えられんようでな」

 ぼう、と赤い炎を纏って現れたルーシェルの姿に、ナギは深い溜め息を吐き出した。

「やっぱり俺が引くのは貧乏くじばっかりだな」

「そう言うてくれるな。我をこのまま境目の世界『境界』に封じてくれれば、お前に害はないはずだ」

「それがそうもいかないみたいでな」

 ナギはまた溜め息を落とすと、帰ってきてから議題に上がった魔力結界のことをルーシェルに話した。

 レヴィアタン曰く、ルーシェルがこの世に魂として復活した際、魔界を覆っている彼の魔力が消滅してしまったらしく、人間界と魔界とを繋ぐ扉が常時開いたままになってしまったそうなのだ。

 今まではルーシェルの力で魔界側を、アリスの力で人間界側の扉の力を押さえていたが、アリスの魂が消えた今、均衡は崩れ、いつ世界が衝突してもおかしくない状態になっていた。

「そこで、アリスの力を継いだ俺が狭の門番、つまり境界で二つの世界の扉を封じるって話が上がった」

「なるほど……。ならば、我を封じても一度開いた扉は閉まることがないということか」

「そういうことだ」

「貴様の王は、それを許したのか」

「……」

 ナギは静かにルーシェルから視線を逸らした。

 言わずもがな、ヴォルグがその策を了承するわけがない。

 癇癪持ちの子供のように卓をひっくり返し「他に何か策があるはずだ」と喚く彼の姿を脳裏に思い浮かべて、深い溜め息が漏れ出る。

「我を楔にすれば良いのではないか?」

「駄目だ。一度開いた門はどちらの世界にも通じる者でなければ閉じることが出来ない。つまり、俺のような混血児でなければ扉を閉じることは叶わないということだ。だが、俺以外の混血児は皆幼い。他に適任者が居ない以上、俺が門番になるしかないんだよ」

「やはり、血は薄まっても、アリスは変わらんなぁ」

 しみじみといった風にそう言われて、ナギは面食らった。

 思わずじとり、とした視線をルーシェルに送るが、彼は意にも介さない様子でナギの表情を楽しそうに見つめている。

「己の決めたことには怖いくらいに真っ直ぐで、それでいて己の愛する者を守りたいというのだから、質が悪い」

「なっ……」

「違うとは言わせんぞ? アレも我なのだから、お前が惹かれるのは道理だ」

 くくく、と喉を逸らして笑うルーシェルに、ナギは頬に熱が上がるのが嫌でも分かった。

「別に俺はアイツのことなんか……」

「ここは素直に好いておると言って、上手く丸め込んではどうだ?」

「ばっ!? そんなこと出来るわけないだろ!!」

 勢い良く立ち上がったナギを見て、ルーシェルはますます楽しそうに眦を和らげて笑った。

「否定をするということは、肯定していることと同義だぞ?」

 いつぞやにヴォルグに言われた台詞と全く同じことを言われて、ナギは瞑目した。

 ふらふら、と大袈裟によろけてみせると、そのまま力なく花畑に倒れ込む。

「恋だの愛だの、そんなもの俺には分からん」

「何だ。百年も生きておいて、そんなことも知らんのか」

「花を摘むよりも先に剣を握ったんだぞ? それに、そんなものに現を抜かしている暇があったら、親の仇をどうやって討つか、そればかり考えていたよ」

 同年代の女子が花摘みを楽しんでいた頃、ナギは戦場を駆けていた。

 戦場に出ればジグの首を狙える。

 隙を衝いてあの男を殺そう。そればかり考えていた。

 そうしているうちにいつしか「聖人」に次ぐ役職「聖女」の称号を与えられた。

 教会の中で上から四番目の称号の効力は、似非神父たちから幼い仲間を守るには十分すぎるものだった。

「我に身体があるのなら、」

 不意に目元に影が落ちる。

 ルーシェルが近付いてきたのだとナギが気付くのと、彼の腕がナギの胸をすり抜けたのはほぼ同時であった。

「うお!?」

 思わず素直に驚きの声を漏らすも、ルーシェルの纏う静かな空気は変わらない。

「今すぐにでも、お前を連れ去ってしまいたい」

「は」

「そして、誰にも邪魔をされない場所で――」

 言葉の続きが紡がれるより先に、ルーシェルとナギの間を雷が引き裂いた。

 無残にも黒焦げになったネモフィラの花を見て、ナギが瞬きを落とすと、ルーシェルの透けた身体越しに眉根を寄せたヴォルグと目が合う。

「ナギは僕のモノだと言っているでしょう? 口説くなら、別の人にしてください」

「やはり、我の子孫よのぅ。アリスのことになるとすぐムキになる」

「……」

「何だ、その目は。事実であろうが」

 ルーシェルはヴォルグの身体を通り抜けると、ぐいと伸びをしながら二人を振り返った。

「時が満ちたら呼べ。微力だが、手助けにはなろう」

 そう言ってスーッと空間に溶け込んで消えてしまった彼に、ヴォルグが深い溜め息を落とす。

「消えたとばかり思っていたから驚いたよ。大丈夫? 何か変なこと、されなかった?」

「別に」

「何だい。随分そっけないねぇ」

「煩い。こっちに来るな」


――どうせ。

 どうせ、もうすぐ離れ離れになってしまうのだから。

 踏み込まないでほしい。


『こちらに来るな』

 ナギは確かにあの時そう言った。

 それなのに、ヴォルグはその言葉を無視してナギのことを助けに来た。

 その結果がこれだ。

 本来なら、出会わなかった二人。

 けれど、一度出会ってしまったら、もう後には戻れない。

 あの時アリスが言っていた縁の意味が、今になって痛いくらいに理解できる。

「……僕、君に何かしたかな?」

「……」

「ねえ、ナギ」

 夜風が髪の隙間をざわざわと囃し立てるように、通り抜けていく。

 ナギは何も応えなかった。

 代わりに、ゆっくりとヴォルグに向かって、震える手を差し出した。

 震えている割に、存外に強い力で握られたそれにつられて、緩慢な動作で身体を傾けると、すぐ傍で金色の宝玉が月明かりに反射して輝きを放つ。

「俺は、お前が嫌いだ」

 そう言って噛みつくように唇が塞がれる。

 甘い果実酒に似た唾液が咥内を満たしていく。

 ごくり、とそれを飲み干してから、彼女の身体を引き剥がすと、涙に濡れた目と目が合った。


「嫌いだ」

 嫌い。

 きらい。

 大嫌いだ。


 拙い、言葉を覚えたばかりの幼子のように同じ言葉を何度も繰り返すナギを、ヴォルグは黙って見つめ返す。


(叶うならずっと、お前の傍に居たい)

(けれど、お前が愛するこの世界を壊したくない)

(だからもう、これ以上、俺に触れないでくれ)


 心の中に流れてくるナギの本音と対するように涙交じりに呟かれるそれを甘んじて受け止めた。


「魔王なんて、嫌いだ」

 

 涙を流して自分を見つめるナギを、ヴォルグは優しく抱きしめた。

 次いで、これ以上彼女が言葉を紡がないように唇を塞いでしまう。

 ナギの心から言葉が溢れ、川のように流れ込んでくる。

『我に身体があるのなら、今すぐにでもお前を連れ去ってしまいたい』

 ルーシェルの言葉が、脳内で繰り返し再生される。

 叶うなら、これからもナギと共に歩みたい。

 けれど、それは許されないことだと知ってしまった。

 会議の後、レヴィアタンとベヒモス、それからアスモデウスの四人がかりで古い文献を漁って調べてみたが、扉を閉める方法はどこにも記されていなかった。

 改善策が見つからない今、いつ衝突するか分からない世界で生活していくのは困難を極める。

 魔界を統べる者として、ヴォルグが下す決断は一つしかなかった。

「酷い王だと、罵ってくれて構わない。けれど、これは君以外には頼めないことだから」

「お前なら、そう言うと思っていたよ」

「何年、何百年先になるのか分からないけれど、必ず君を迎えに行く。だからその時まで、待っていてくれるかい?」

 ナギは、カラカラと笑い声を上げて、ヴォルグの胸に顔を埋めた。

「いいぜ。待っていてやる。けど、俺はそんなに気が長くないからな。先に貰えるものは貰っておく主義なんだ」

「?」

「……一晩で良い。お前と共に眠りたい。お前の時間をくれよ」

「なっ!?」

 ボッと発火したかのように顔を赤くしたヴォルグを見て、ナギは厭らしく目を細める。

「何を想像したんだ。このスケベ」

「だ、ば、君がおかしなことを言うから!」

「というかお前、俺で反応するのか? こんな貧相な身体で??」

「……っ」

「何だよ、その顔は」

 ヴォルグは言葉を飲み込むと、ナギの身体を一度遠ざけた。

 そして、彼女の腕を強く引き、熱を持った己に導く。

「僕だって男なんだよ? そういう意味で受け取って何が悪いのさ」

「だ、だってあの女の時は何も……」

「僕に与えられた呪いは『嫌悪』。同族嫌いなのはその影響もある。父上を殺されたことで呪いに拍車がかかったのは言うまでもないけどね」

 それで、とヴォルグの顔が迫ってくるのに、ナギは狼狽えた。

「これでも、まだベッドを共にしたいのかい?」

 狼のように細められた紅色の眼に真っ直ぐ見つめられて、ナギは身体が動かなくなるような錯覚を覚える。

 ぐっと押し黙ってしまったナギを見て、ヴォルグは彼女と血の契約を交わした日のことを思い出していた。

 あの時も渋る彼女を説き伏せて、自分の配下に迎え入れた。

 思えば、あの時からナギに心を奪われていたのかもしれない。

「ナギ、」

 本当は行かないでほしい、と握った手に力を込める。

 けれど、名前を呼んだ彼女の顔が何かを耐えるように、くしゃりと歪んだのを見て、ヴォルグは喉元まで込み上げてきた想いを必死に嚥下した。

 言葉を吐き出せない代わりに、触れるだけのキスを落とす。

 触れて、離れて、また触れて。

 何度か角度を変えて唇が触れる度、ナギの表情は辛そうなものへと変わっていった。

「……行こうか?」

 どこに、とは口には出さない。

 ナギは一瞬だけ驚いた表情になったが、次いで目線を逸らしながらこくりと素直に頷きを落とした。

 緊張で指先が冷たくなってしまった掌をナギの熱いそれに重ねる。

 無言で歩き始めたヴォルグの背中を、ナギは静かに追いかけた。

 

 目が覚めると、ナギの姿はそこになかった。

 薄っすらとシーツに残る彼女の温もりをなぞって、ヴォルグは唇を噛み締める。

 きっと、さよならはいらない。

 今ナギを追いかければ、彼女はきっと自分の元に戻ってくる。

 それが分かっているからこそ、ヴォルグはナギを追いかけることが出来なかった。

 酷い男だと、そう罵ってくれたら良かった。

 それなのにナギは肌を触れ合わせている間、非難の言葉を口に出さなかった。

 全てを包み込むように優しくヴォルグを抱きしめて、涙の代わりに甘やかな嬌声を響かせていた。

「またね、僕の剣」

 窓越しに見えた浅葱色を指で辿る。

 暫しの別れだ。

 きっとまたすぐに巡り会える。

 冬の朝空に、そっと願いを呟いて、ヴォルグは別れを惜しむように窓から視線を外した


「さよなら、俺の魔王」

 ヴォルグは何も言わなかった。

 ただ、優しく腕にナギを抱いて、ひとときの夢を見せてくれた。

 触れることさえ嫌悪していた男の身体だったのに、ヴォルグのものだと思えば、途端に愛おしく思えてしまった。

 たどたどしく触れる唇と指の感触が、今でも身体に残っている。

「この思い出だけで、俺は生きていけるよ」

 眼前に聳え立つ巨大な白い門にナギは手を這わした。

 淡い光を放って、ゆっくりと開き始めたそれをじっと見つめる。

「行くのか」

 振り返れば、そこにはベヒモスとレヴィアタン。それからマリーが立っていた。

「ああ」

「そうか」

「……親不孝な娘ですまない」

 俯いてそう言ったナギを、ベヒモスは力強く抱きしめた。

 窒息してしまうのではないかと思うほどに強く、自分を抱きしめる父親にナギは唇を噛み締め、涙を堪えた。

「お前は私とチヨの宝だ。どこに居ても、それは変わらん」

「親父殿」

「愛しているよ、ナギ」

 額に親愛のキスが落ちる。

 堪えていた涙のダムは容易く決壊した。

 わんわん、と泣き出したナギをベヒモスは黙ったまま抱きしめる。

「これを」

 ひとしきり泣いて落ち着いた頃、レヴィアタンが遠慮がちにナギへと腕を差し出した。

「これは?」

「通信用の水晶です。まだまだ改善の余地がありますが、魔力さえあればどんな場所でも使えるはずです。持っていきなさい」

「でも」

「いいから」

 拳に握り込まされたそれと叔母の顔を交互に見比べていると、不意に背中を衝撃が襲った。

 ドンッとほとんどタックルのような形で抱き着いてきたマリーの身体をナギは痛みに歪んだ顔でゆっくりと振り返る。

「マリー」

「……」

「マ、」

「行かないでくださいまし」

 その声は涙に掠れて、上手く聞き取れなかった。

「ごめん」

「ずっと。ずっとここで一緒に……っ!」

 自分を心配してくれる温かい、家族。

初めて出来た優しい友人。

 ずっと、一緒に居たいと思っていた。

 けれどそれは出来ない。

 この人たちを、魔王が愛するこの世界を、ナギは終わらせたくなかった。

「……もう、行くよ」

 さよならは言わない。

 また会えると、そう信じているから。

 一歩踏み出したナギの胸元が淡く光った。

「な、何だ!?」

 驚いて胸元を探ってみると光の正体は、ネモフィラの花だった。

 いつぞやに、ヴォルグから一輪手折ることを許された、あのネモフィラ。

 ずっとお守りにしていたその花はすっかり萎れていて、美しかった面影はない。

 パチン、と光が弾け飛ぶ。

 ナギの掌からネモフィラの花は消えた。

 だが、代わりに現れた物を見て、ナギの目はこれでもかというほど、大きく開かれる。

「あの野郎」


――また会う日を願って。最愛の君へ捧ぐ。

 

 サファイアが埋め込まれたシルバーの指輪にはそんな言葉が刻まれていた。

 どの指に嵌めるのか、なんて聞かなくても分かる。

 だが、ナギは敢えてそれを指に嵌めることはしなかった。

「てめえがつけてくれるまで、大事に取っておくよ」

 そう言って、ナギは笑った。

 朝焼けの空がぽっかりと開いた暗い穴へナギを迎え入れる。

 古びた音を立てて閉じた門が、空間に溶け込んでいくのを一同は黙ったまま見つめていた。

 

その日、一人の勇者を犠牲に、二つの世界は平和な日常を取り戻した。

 そして、二度と交わることがないように、勇者は世界へ通じる門を閉じてしまった。

 二つの世界は二度と交わらない。

 魔王と勇者が交わることも二度とない。

『また会おう』

 その約束(おもいで)を胸に、ナギは一人きりの世界で生きていくために、足を踏み出したのであった。

                                     《完》

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黄昏に勇者は笑う 神連カズサ @ka3tsu0

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