十四、生贄

 身体が重い。

 何も見えない。

 ここは、どこだったか。

 うすぼんやりとした視界の向こうで、誰かがこそこそと話をしている声が風に乗って流れてくる。

「……は、新月だ。……をきっと……し……に……ぞ」

「分かっております。……は必ず……俺が……」

 新月。

 ああそうか。だからジグは俺を連れ戻しにやって来たのか。

 二十の歳になった、最初の新月。

 それは、ナギの身体にルーシェルの呪いが発動する日であった。

 知らぬ間に二十を迎えていたことに、ナギは瞑目した。

 魔界での日々が楽しくて、時を忘れていたのかもしれない。

 自嘲気味に笑えば、意識を取り戻したことを察したのか、ジグがこちらに近付いてくるのが分かった。

「起きたか」

「……」

「来い。入浴を済ませたら、すぐに着替えろ」

 物言わぬことをいいことに、髪を掴まれて身体を引っ張られる。

 声を出すのも億劫で、鋭く睨みつけてみるものの彼はそれに何の感情も見せなかった。

 乱暴に手を振り払って、大人しく後に従えば、そこには白薔薇が浮かんだ湯船があった。

 教会の中にこんな場所があったなんて、知らなかった。

「脱げ」

 拒むように首を横に振れば、乱暴な手付きで衣服を引き裂かれる。

「……一人で入れる」

「なら、抵抗するな。そんなことをしても、逃げられないことなど分かっているだろう」

 ジグの言葉にナギは唇を噛み締めた。

 魔界から連れ去れて何日経過したのか、分からない。

 じくじくと痛む胸の内に巣食うのは、ヴォルグに会いたいという思いだけだった。

 こんなこと、今まで思いもしなかったのに。

 たった一人、冷たい世界で生きてきたあの王に、ナギはいつしか自分を重ねていた。

 同じ混血児で構成された騎士団最強の第一部隊に居たとはいえ、ナギの孤独は彼らでは埋められないものだった。

 彼らは意図的に教会が魔族と人間を掛け合わせて作った合成獣のようなもので、ナギと全く同じではなかったからだ。

 けれども、彼らに情が無かったのかと言われれば、それは違うと答えることがナギには出来た。例え偽物でも、彼らはナギの家族だった。

 ヴォルグに殺された、偽物の家族。

 彼はそれを埋めるように、優しくて残酷な気持ちをナギに教えた。

(……会いたい。会いたいよ、魔王)

 心臓を穿つ、この想いの名称をナギは知らない。

「禊が済んだら呼べ。いいな」

「……」

「返事は」

「…………はい」

 引き裂かれた衣服にゆっくりと手を這わし、順に脱いでいく。

一糸纏わぬ姿になると、ナギはするりと身体を湯に滑り込ませた。

 生温い温度の湯が肌を覆う度、不快感が腹の底から湧き上がる。

 思わず喉元までせり上がってきた何かを必死に飲み込んだ。

 白薔薇の香りが、ナギの嫌悪感を余計に逆立てる。

「くそっ!!」

 逃げ出す力があるのに、逃げ出せない。

 これではまるで、幼い頃から変わっていないではないか。

『ナギ』

 穏やかに己の名前を呼ぶヴォルグの姿が脳裏に浮かんでは消える。

(ヴォルグ)

 巻き込みたくはない。

 けれど、もう一度。一目でいい。優しい魔王に、会いたかった。


「……そこを退け、マモン」

「何だか既視感があるが、それは出来ない」

「退けと言っているだろ!!」

 魔王城の城門で繰り広げられる押し問答は連日連夜続いていた。

 終わりのない攻防に、先に痺れを切らしたのは勿論、従者であるマモンの方だ。

「誰も行くな、とは言っていない! 準備が整うまで待てと言っているんだ!」

「準備などしている間に、ナギの身に何かあったらどうするんだ! 俺だけでも先にあちらへ……!」

「お前が死ねば、奴らの思うツボなんだぞ! 少しは冷静になれ!」

 マモンの言葉に、ヴォルグの動きが止まった。

 だが、大人しくなったのも一瞬で、再び門に向かって手を伸ばす魔王に声を掛けたのは、連れ去られたナギの父、ベヒモスであった。

「陛下」

 低く、地を這うその声に、ヴォルグとマモン両名の動きが、今度こそ止まる。

「ナギなら大丈夫です。アレは私に似て丈夫なようですし、母親と同じく強い意志を持っています」

「……そんなこと、知っているよ」

「なら、何故そのように配下の手を煩わせるのです」

「それは、」

「あの子が心配だからですか?」

 ヴォルグの言葉を拾ったのは、ベヒモスの妹にしてナギの叔母、レヴィアタンだった。

 いつの間に現れたのか、その周囲にはベルフェゴールの頭が培養液の入った水晶に入れられ、ふよふよと不気味に浮遊していた。

「ナギが強いことは、戦ったことのある僕が一番知っている。けれど、彼女は優しいから」

「望まれたら、それがどんな相手でも応えてしまう、と?」

「……」

「それはナギに失礼ですよ、陛下」

 レヴィアタンとベヒモスが顔を見合わせて笑った。

「半分とは言え、アレには私の血が入っている。一度忠誠を誓った者以外には、決して心を許しませんよ」

「そうですとも。それに、義姉は最後まで教会に屈しなかった人だと聞きます。母を教会に殺されたあの子がそう簡単に与するわけがありません」

 二人の言葉に、ヴォルグの顔色が少しだけ明るさを取り戻す。

 礼を述べようとヴォルグが口を開いた、その時。

『会いたい』

切なく零されたナギの声が、ヴォルグの耳朶を震わせた。

「ナギ?」

 今や異界に連れ去られた彼女の声が聞こえるはずもない。

 だがそれは紛れもないナギの声だった。

「陛下! 準備が整いました!!」

 気の所為だったのか、と思うほどに小さな声はヴォルグの耳に暫く反響し続けた。

 

 ナギが連れ去られてから、五日。

 漸く待ちに待った新月が魔界にやって来た。

 生憎の吹雪で視界は最悪。

 周りは雪と闇に覆われていた。

 だが、ヴォルグは恐れていなかった。

 例え何が待っていたとしても、ナギを取り戻す。

 ヴォルグの頭の中には、それしか浮かんでいなかった。

「進め! 我が同胞よ! 我が剣、我が騎士を取り戻しに行くぞ!」

「おー!!」

 王の一声に、人間界への門が開く。

 そして、飛び込んだ彼らを待っていたのは、白い甲冑に身を包んだ聖アリス教会の騎士たちであった。

「魔王軍とお見受けする!!」

 誰かの声が風に乗って運ばれてくる。

 先陣を切ったマモンがそれに応えるように、剣を振るった。

「聖アリス教会の騎士よ!! 我が剣、ナギを返してもらおう!」

 ヴォルグの声に、魔王軍が沸いた。

 雪崩れ込むように聖騎士たちの中に突っ込むと、手に手に剣を持って次々に聖騎士を仕留めていく。

「ナギ!! どこに居る!!」

 ヴォルグの声は、乱戦の轟音に掻き消された。

 けれど、彼は叫ぶことを止めない。

 ナギならば応じてくれる、必ず応えてくれるはずだと信じて馬を前に進め続けた。

「……お探しのモノはこれかな? 魔王陛下」

 不意に、ジグの声が辺りに静寂を呼び戻した。

 血の付いた剣を振るってそちらに目を遣れば、白いドレスを着せられたナギが虚ろな瞳でジグに抱えられている。

「ナギ!!」

「おっと、それ以上近付くなよ。先程禊を済ませたばかりなのだ。汚らわしい手に触れさせたくはない」

 ジグが厭らしい笑みを浮かべながら、腕の中のナギに手を這わす。

 ナギは遠くを見たまま、彼にされるがままになっていた。

「彼女に一体何をした!」

「何、少し素直になる酒を飲ませただけだよ。……ふっ。これが余程、大事に見える。まさか、惚れているのか?」

「!!」

「なら、返してやろう」

 そう言うと、ジグはナギに彼女の剣を持たせた。

 そして、ヴォルグの方を指さすと何事かを耳打ちする。

「……っ!!」

 目を見開いたかと思うと、親の仇のようにヴォルグを睨むナギに、ヴォルグは剣の柄を握る手に力を込めた。

 かつて戦った時はあんなに心地良かった鋭い眼光も、今や冷たくヴォルグの胸に突き刺さる。

「ころす」

 いつも言われていた言葉なのに、舌足らずな声でそう告げられると、何だか可笑しかった。

 馬上の戦いは止めだ、とヴォルグは愛馬から飛び降りると、一直線でこちらに向かってくるナギと刃を交えた。

 重い一撃に、ヴォルグの剣が悲鳴を上げる。

 剣を受け止めたまま、片足を上げ、蹴りを放つ。

 だが、ナギには読まれていたのか、すぐに身体は遠ざかり二人の間に一メートルほどの距離が開いた。

「目を覚ませ、ナギ! 君を傷付けたくはない!」

「うるさい!」

「ナギ!」

「うるさいって、いってんだろ!!」

 子供のように嫌々と首を振りながら、再び剣を振り下ろしてきたナギに、ヴォルグは唇を噛み締めた。

 変に意識を操られている所為で、記憶が混濁しているのか幼い言動が、ヴォルグの心を掻き乱す。

(……どうして、来たんだ)

 ふと、ナギの声が心の中に直接流れてきた。

 契約はまだ切れていない。

 ヴォルグはそう確信すると、心の中でナギのことを想った。

(帰ってくれ、ヴォルグ。俺はお前を殺したくない)

 ナギの心は泣いていた。

 言うことを効かぬ身体が剣を振るう度、それは重い一撃となってヴォルグを襲う。

(俺がお前を殺す前に、俺を殺してくれ)

 その一言に、ヴォルグの動きが止まった。

ナギの足が地面を抉る。

 しまった、とヴォルグが顔を顰めるが、ナギの身体はその隙を逃さない。

 グサリ。

 肉を絶つ嫌な感触に、ナギは正気を取り戻した。

「……お、かえり、ナギ」

「ヴォルグ!!!」

 嘘だ、とナギは叫んだ。

 あんなに待ち望んでいた王を、自らの手で刺してしまった。

 力なく地面に倒れるヴォルグの身体を追うように、ナギもその場に蹲る。

「いや! いやだ! ヴォルグ!! 目を、目を開けてくれ!!」

「だい、じょうぶ。僕は、死なないから」

 泣かないで。

 ヴォルグの声がナギの心を酷く乱した。

 初めて出会った自分を認めてくれた人。そんな彼を、自分は。

「いやああああ!!」

 ナギの声が戦場を駆け抜けた。

 二人のやり取りを少し離れた場所で見ていたジグが、けらけらと笑いながらナギとヴォルグに近付いてくる。

「どうだ、ナギ。愛しい者を手に掛ける感触は? さぞ、甘美であっただろうな?」

「ジグ、てめえ!!」

「ふふ。怒った顔もチヨそっくりで、愛らしい。ますます俺のモノにしたくなった」

「黙れ!! それ以上、俺に近付いてみろ! ぶっ殺してやる!!」

 幸い、急所は外していたのか、ヴォルグの息は荒いがしっかりと呼吸を繰り返していた。

 のそりのそり、と熊のように大股な足取りでこちらに近付いてくるジグに、ナギが剣を持って立ち上がる。

「ナギ」

「大丈夫だ。お前は、死なせやしねえ」

 ドレスの裾を斬って動きやすくすると、ナギはジグと対峙した。

 ジグは腐っても聖剣を託された剣士だ。

 下手に動けば、後ろに倒れるヴォルグを狙われるのは目に見えていた。

 先に動かず、相手の様子を見る。

 じっと、ジグを凝視すれば、彼は心底可笑しそうに笑った。

「実に愉快だ。魔王を殺すために送り込んだお前が、魔王を守ろうとしているだなんて。大聖人が知れば、さぞ悲しまれる」

「黙れ」

 会話をすることさえ、億劫だった。

 飛び込んできたジグの身体を大剣で受け止める。

 ガンッと岩でも突進してきたのではないかと思うほどの衝撃に、後退りそうになるのを何とか堪えると、ナギは剣の柄を彼の鳩尾に叩きつけた。

「ぐっ」

 苦しそうに息を漏らしたジグの隙を衝いて、ヴォルグの身体を抱えて僅かばかりに距離を取る。

「……ちょっとは回復したか?」

「無茶言うねぇ? 君が刺したんだろ?」

「操られていたんだ。本意じゃねえ」

「ふふ、分かっているよ」

 ふらり、と起き上がったヴォルグにナギは安堵の息を漏らした。

「余所見をするとは、余裕だな?」

 すぐ真横から聞こえて来た声に、ナギは防御の構えを取るのが精一杯だった。

 ダァン、と派手に背中を大木に打ち付けた所為で、耳鳴りがする。

 震える身体に鞭打って立ち上がれば、武器を持って笑うジグの姿が眼前に迫っていた。

 禊の後に飲まされた酒の所為で、頭に靄がかかったように視界が霞む。

「ナギ!」

 ヴォルグの声に、ナギはグッと歯を食いしばった。

 剣を逆手に持ち直し、一閃。

 返り血が顔に飛んだが、僅かな量に掠り傷程度にしかなっていないことを悟った。

「惜しかったな、ナギ。もう少し上を狙っていれば、俺の首を落とせたというに」

 くつくつと、背後で笑う男の声が不快で堪らない。

 霞む視界の向こうで、ヴォルグの手が伸びているのが分かった。

(俺ごとこいつを撃て)

 ヴォルグの魔法は、雷。

 ナギはそのことを思い出して、心の声で呟いた。

 ヴォルグの目が大きく開く。

(やるなら、今しかねえ!! やれ!!)

「ヴォルグ!!!!」

 ナギの声がヴォルグを奮い立たせた。

「うああああああ!!」

 ヴォルグの腕に紫色の雷が這う。

 放たれた光は、獅子のように獰猛な音を立てて、ナギとジグの二人を襲った。

「ぐあああ!?」

 ジグが煙を上げ、地面に吸い込まれるように倒れた。

 バタン、と派手な音を立てて倒れた彼に続くように、ナギも地面に倒れ込む。

「ナギ!!」

 ヴォルグの声に、ナギは苦笑しながら手を伸ばした。

「これで、おあい、こ、だからな」

「……まったく、君って人は」

 痺れる身体をヴォルグに支えられ、立ち上がる。

 辺りには肉の焼け焦げた匂いが充満していた。

 動かなくなったジグを見て、ナギは長い間、胸に巣食っていたモヤモヤが晴れたような気がした。

「帰ろう、ヴォルグ。お前の城へ」

「ああ」

 一歩、また一歩と、混戦が続く戦場へと二人は手を繋いで、歩き始める。

 マモンの姿が目に入り、そちらへ声を掛けようとしたヴォルグとナギの足元に、影が落ちた。

「な、何だ!?」

「下がれ、ナギ!」

 ドンッと鈍い音がしたかと思うと、先ほどまで二人が立っていた場所に、無数の矢が突き刺さっていた。

 矢尻に白薔薇が施されているそれを見て、ナギの顔から色が失われていく。

「大聖人、なのか……!?」

 影の先、そこに居たのは宙に浮かび、冷たい眼でヴォルグとナギの二人を見つめる男――大聖人だった。

「ソレを返してもらおうか、小僧」

 大聖人がナギに向かって弓を構えながら、言った。

「嫌だ、と言ったら?」

「貴様に拒否権などありはしない。地に落ちた汚らわしい、貴様らに。二度と『アリス』は渡さぬ」

 大聖人の、老人の身体が眩い光を発する。

 目も開けられないほどの光に、思わず手で瞼を覆うも、光は激しさを増すばかりであった。

 一陣の風が両者の間を通り抜けていく。

 漸く、光が治まった、と目を開けば。

 そこには、恐ろしい光景が広がっていた。

 バタバタ、と次々に地に伏していく魔界の戦士たち。その中に、マモンの姿を見つけて、ヴォルグは唇を噛み締めた。

「次は貴様の番だ」

 大聖人の声が遥か頭上から落とされる。

 そちらに目を遣れば、大きく白い翼を広げた美しい青年が、鋭い眼光でこちらを見下ろしていた。

「何だよ、アレ……」

「天使? いや、そんなまさか……っ!?」

 二人が呆けている間に、大聖人――天使が手を振り上げた。

 鋭い矢が雨のように二人に向かって降り注がれる。

 ナギが大剣を振り回す。

 ブン、と風切音が響くと同時に、矢は無残な姿となって地面に朽ちた。

「……全く、騒がしいと思ったら。やっぱり貴方だったのね」

 ゆらり。

 ヴォルグの影の中から突然姿を現したアスモデウスに、ナギは目を剥く。

「知り合いなのか!?」

「ええ、まあ」

「アレはかつてこの世界に生きていた古の種族、天使だろう? どうして君が知って……」

「あら、お忘れになられたのかしら? 私は一万年前に生を受けた者ですよ?」

 ふふ、と妖艶に笑うアスモデウスの瞳には、怒りが見え隠れしていた。

「アリス、アリスと先程から忌々しい小娘の名を呼ぶ者が多いと思って顔を出してみれば。愚弟が全ての元凶だったとは思いもしなかったわ。ねえ、アザゼル?」

「……その声、アスモデウスか?」

 天使が信じられないものでも見るかのような目つきで、アスモデウスを睨んだ。

 負けじと天使を睨むアスモデウスに、ナギが絶句する。

「ちょっと待て、今『愚弟』と言ったか?」

「ええ。言ったわよ。それが何か?」

「じゃあ、大聖人はアンタの弟なのかよ!!」

 うげえ、と顔を顰めるナギに、アスモデウスは失礼なと、顔を歪める。

「あれは弟であって、もはや弟ではないわ。ルーシェルお兄様を裏切って、魔界に堕とした張本人なのですから」

「な……!?」

 今度はヴォルグが絶句する番だった。

 初代魔王、ルーシェルが元天使だったなんて、ちっとも知らなかった。それどころか、目の前に居るアスモデウスが彼の血縁であることに、ヴォルグはぞわぞわと肌を這っていく寒気に思わず目を瞑った。

「これで、ナギに見覚えがあった理由がはっきりした。貴女、アリスにそっくりなんだもの。ううん違うわね。似ているんじゃない。貴女はアリスそのものだわ。ルーシェル兄様が愛した、アリスの生まれ変わり(コピー)を囲っていたのね」

「……」

「図星を衝かれると黙る癖、治した方がいいわよ」

 ふう、とアスモデウスが煩わしそうに前髪を掻き分けた。

「まったく。昔から馬鹿だとは思っていたけれど、ここまで馬鹿なことを仕出かすとは思ってもいなかったわ」

「黙れ! お前に何が分かる!」

 アザゼルの弓が、今度はアスモデウスを狙う。

 だが、彼女は身動ぎ一つしなかった。

 じっと、眼前に浮かぶ弟を凝視して、不敵に笑う。

「誰に口を利いているのかしら? 末弟の分際で、俺(・)に楯突いたこと後悔するなよ!!」

 ぶわり。

 辺りを生温かい空気が覆ったかと思うと、アスモデウスの身体が宙に浮いた。

 美しくたなびく髪が逆立ち、闇の魔力をぎらつかせている。

「お行きなさい、若き魔王とその騎士よ。原初(オリジナル)のアリスを探して、彼女と我が兄ルーシェルの魂を救ってちょうだい」

「それは、どういう?」

「彼らに会えば分かりますよ」

 そう言って振り向いたアスモデウスの横顔はいつになく真剣で、美しかった。

 真摯な眼差しを背に、ヴォルグとナギは教会が所有している建物に向かって走り始める。

「男の身で女の姿を模るなど、下劣な」

「好いた女の模造品を愛でる男に言われたくはないなあ。このゲス野郎」

 ふふ、と紅顔から放たれる毒に、アザゼルは顔を顰める。

 握り直した弓に矢をつがえて、かつて兄だった姉に標準を定めた。

「一万年ぶりの再会がこれとは、随分とロマンチックじゃないか」

「抜かせ。直にその口を黙らせてやる」

「ははっ。やってみろ」

 ゴウッと激しい風が吹くのを合図に両者は同時に武器を激突させた。


「探せって言われたものの、一体どこを探せばいいのか……」

「こっちだ。俺に心当たりがある!」

 ドレスを着ているのも忘れて、大股で走り出そうとするナギの腕をヴォルグは掴んだ。

「待った。君の着替えが先だ」

「はあ!? 何でだよ! 早くしねえとアスモデウスが!」

「そんな恰好で目の前を走られる僕の身にもなっておくれよ。背中とか太腿とか、目のやり場に困る!」

「なっ……」

 言われて初めて、ナギは自分の恰好を注視した。

 真っ白だったドレスは煤や泥で汚れていて、目も当てられない。動きやすいようにと裾を破った所為か糸が解れていて、知らぬ間に丈が短くなってしまっていた。極めつけに、腹には大きな穴が開いていた。ジグを倒すときに雷で穿たれた部分が綺麗な丸を形作っており、赤くなった肌が痛々しい。背中の開いたドレスの所為もあって、今にもずり落ちてしまいそうな頼りなさに、じわじわと羞恥心が湧き上がってくる。

「……着替える」

「分かっていただけたようで何よりだよ」

 溜め息を吐きながら、自分のローブを脱いだヴォルグにナギは目を瞬かせる。

「君が着れば、膝下あたりの丈になると思うから、」

「これを、着ろってか?」

「これが嫌なら僕のインナーを貸してあげてもいいけれど、君には大きいと思うんだよね」

「で、でも」

 ちら、とヴォルグと手渡されたローブとを見比べて固まるナギに、ヴォルグが悪戯っ子のような顔をして笑った。

「何だい? 勇者様は魔王のローブは着たくないって?」

「そんなこと、誰も言ってないだろ! それと、勇者って呼ぶな!!」

「君だって僕が嫌だと言っても『魔王』って呼ぶじゃないか」

「俺は良いんだよ!」

 ぎゃいぎゃいと軽口の応酬を繰り返しながら、先導するナギの後をヴォルグは追った。

 走る度に浅葱色の髪があちらこちらに跳ねるのに、思わず笑みを零す。

 ドンッと二人が走っていたすぐ近くの建物が爆発した。

「何だ!?」

「あの塔は確か……!」

 煙の上がる方へ向かってヴォルグとナギは先を急いだ。

 立ち込める粉塵と噎せ返るような血の匂いに、思わず顔を見合わせる。

「……聖女(シスター)・ナギ?」

 ふと、見知った声がナギの耳を震わせた。

 辺りを見渡そうにも、煙が視界を遮っている。

 シスター、ともう一度か細い声がナギのことを呼んだ。

「その声、ユミルか! どこだ、どこにいる!」

 瓦礫の中を縫うように進んで、未だ炎が燻る爆発の中心部にやっとの思いで辿り着く。

「ユミル!」

 ぐったり、と地面に横たわるのは、ナギが妹のように可愛がっていた混血の少女だった。

 自分と同じ境遇の彼女を、第一部隊の面々をナギは本当の家族のように慕っていた。

「これは……」

 爆心地に広がる光景に、ヴォルグは我が目を疑った。

 歪な形をした人間の子供たちが血だらけの状態で地面に放り出されている。

「一体誰がこんな酷いことを」

 手が飛び、足が飛び、果ては首が無い身体もあった。

 せり上がってくる吐き気にヴォルグが眩暈を覚えていると、ナギがゆっくりと少女を抱えて立ち上がった。

「大聖女はどこに行ったんだ、ユミル」

「わたしたち、お花くれて、それで……」

 言葉を紡ぐのも苦しいのか、ユミルはそこで一旦区切ると、礼拝堂の方を指差して、弱弱しく微笑んだ。

「マザーは、悪くない、よ。わたしたち、の、祈りが、足りない、から、」

「もういい、ユミル。あんなクズ、庇うだけ無駄だ」

「でも、」

「お前の祈りは俺が叶えてやる。人も魔族もない優しい場所。俺が、連れて行ってやるから」

 腕の中で息を荒くする幼い少女に、ナギはグッと唇を強く引き結んだ。

 金色の双眼が、ぎらぎらと怒りの炎を灯す。

「行こう。ヴォルグ」

 ナギの静かな声に、ヴォルグは「ああ」と頷き返した。

 

 大聖女、マリアは急いでいた。

 もうすぐそこまで迫ってきている魔の気配から逃れようと、必死で地下に続く階段を下っていく。

 カツン、と自分のモノではない靴音が、マリアの背筋を震わせる。

「だ、誰」

 その声に応える者はなく、カツカツと靴音だけがマリアを急かすように迫ってくる。

「やあ」

 ふと、マリアの行く手を阻むように、青白い炎が彼女の周りを徘徊った。

「ひっ?!」

 上擦った悲鳴が喉から漏れるのと同時に、その場にへたり込む。

カツン、と靴音が背後で止まった。

「よぉ、大聖女。元気そうで何よりだ」

 それはよく知った声だった。

 ずっと恐れていた、忌まわしいこどもの声。

「ナ、ナギ」

「俺が居ないことを良いことに、ユミルや皆を殺そうとしやがって」

「ちが、う。あれは大聖人がそうしろと! 私は、大聖人の命に従っただけで……!」

「大聖人、大聖人ってうるせえんだよっ!! てめえの意思はねえのか!! 大聖人が死ねって言ったら、てめえは死ぬのか、ああ!?」

 ドスの効いた声でそう攻め立てられて、マリアは涙が出そうになるのを必死に堪えた。

 違う、違うのよ、と壊れた人形のようにそれしか繰り返さなくなったマリアを尻目に、彼女が開けようとしていた地下への扉へナギは手を伸ばす。

「一生そこでそうしてな、クソババア」

 ヴォルグの青い炎が涙を流して微動だにしないマリアを無様に照らした。

「良いのかい? あのまま放っておいて」

「もう歳だしな。お前の炎に焼かれて、勝手に死ぬだろ」

「ああ、そう」

 急ぐぞ、と言って走り出すナギに、ヴォルグは慌てて後を追った。

 地下の扉を潜ったその先で、二人を待っていたのは赤い水晶に埋め込まれた一人の少女だった。

 ぶくぶくと時折、気泡が立つ水晶の中で、少女が眠っている。

 その顔は――。

「ナギと同じ顔だね」

「ああ」

「じゃあ、これが原初のアリスで間違いない」

「ああ」

「どうしたの? さっきから浮かない顔だけど」

 ヴォルグの言葉に、ナギは唇を震わせた。

「俺は、この場所を知っている」

「え?」

 ナギはそう言うと、ユミルをヴォルグに預け、水晶の中で眠る少女――アリスに近付いた。

『私を起こしに来たのね』

 頭の中に流れてきた声に、ナギは眼前のアリスをじっと見つめた。

「ああ」

『十四番目の私。貴女には辛いことばかり背負わせてしまうわね』

「……」

『私を起こせば、もう後戻りはできない。ルーシェルとの縁が結ばれてしまう』

 アリスの声が、ナギの脳内を木霊する。

 ここへ帰ってきたとき、ナギは彼女の記憶を垣間見た。

 ルーシェルの妻だったアリスを我が物にするために、アザゼルはルーシェルを魔界に突き落とした。

 それを知ったアリスは悲しみのあまり自らの身体を水晶で覆い、心を閉ざしてしまった。そんなアリスに、ルーシェルがとある魔術を施したのだ。

『彼はこうなることを想定して、私に私を殺すことを託した』

「ああ」

 独りでに頷くナギを、ヴォルグはただ黙って見守っていた。

 アリスと会話しているのか、じっと彼女から視線を逸らさないナギに、胸の奥がきゅうと疼いた。

『十四番目の私が造られたとき、ルーシェルの魔法は完成する。私を生贄に、アザゼルに縛られた私たちの縁を壊して』

 眠っているアリスの眦から涙が零れた。

 ナギはそっと彼女に近付くと、自らの掌を水晶に重ねた。

 どろり、と砂糖が煮詰まって溶けるように、水晶が溶けてアリスの身体を汚していく。

 上半身が出たところで、ナギはアリスに向かって手を伸ばした。

「あなたはだあれ?」

 ゆっくりと目を覚ましたアリスの言葉に、ナギは微笑んだ。

「私はアリス。貴女は?」

「私もアリス。最初(はじまり)のアリス」

 歌うように言葉を奏でる二人の少女に、ヴォルグは背中を嫌な汗が伝っていくのを感じた。

「貴女は私、私は貴女」

「あなたは私、私はあなた」


「アリスは一人。私がアリス」

「アリスは一人。あなたがアリス」


「星の導きの元、アリスがアリスを贄に命じる。字(あざな)は明星、名はルーシェル。我を守りし彼の者を解き放て」

 

 ナギの言葉に応えるように、原初のアリスの身体が光を放った。

 淡く、優しく彼女を包み込んでいた光は、やがて真っ赤な血の色に染まり、少女の姿をみるみる変えていく。

「……アリス」

 それはひどく懐かしい声だった。

 ナギは両手を広げて、アリスの身体から解放された彼を抱き留める。

「ルーシェル」

 ぎゅう、と痛いくらいの強さで抱きしめられた所為で背中が痛い。

 身を捩ろうにも、隙間がないほど密着されていて、それに気が付くと触れている場所からじわりと熱が広がった。

「初代様」

 ふと、真後ろからヴォルグの不機嫌そうな声が落とされた。

 ヴォルグはルーシェルの腕を慎重にナギの身体から剥がすことに成功すると、二の矢が来ないうちに、自分の腕の中に閉じ込めた。

「何だ貴様は。千年、いや一万年ぶりの再会だぞ」

「それは承知しております。ですが、この者は私の剣です。いくら貴方と言えど、そう簡単に触れさせるわけにはいきません」

 不機嫌を隠そうともせずそう告げたヴォルグに、ルーシェルは数度瞬きを繰り返した。

 次いで、愉快だと言わんばかりに声を立てて笑うので、ヴォルグの顔はますます不機嫌なそれに変わる。

「何、取って食いはせぬ。我のアリスはもう居ない。最後の抱擁くらいさせてくれてもよかろうが」

「う、ぐ」

「良い良い。貴様、気に入ったぞ。我が造った魔界の王に相応しい眼光だ」

 けらけら、と笑ってそう言ったルーシェルに、ヴォルグは素直に喜んで良いのか分からずに複雑な感情を抱くのであった。

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