第三章、剣と鞘
十三、狼は夜明けに叫ぶ
ベヒモスが目を覚ますと、そこには片眉を上げたアスモデウスが居た。
腕に重みを感じ、そちらに目を遣れば、目元を赤く染めたナギが規則正しい寝息を立てている。
「まったく、もう少しで我が子を殺すところだったのですよ」
「も、申し訳ありません」
「それと、そちらのお嬢さんを泣き止ませてあげなさい。先程から煩くて敵いません」
アスモデウスが指先で示した先に居たのは、ナギの背に縋るチヨの姿だった。
「見えていらっしゃるので?」
ベヒモスの問いに、アスモデウスは「さあ?」と言って妖艶な笑みを返した。
「貴方の身体に纏わりついていた気色の悪い魔力は消しておきました。直に動けるようになるはずです。落ち着いたら、陛下の元に来なさい」
「で、ですが」
「良いですね?」
有無を言わさぬ口調に、ベヒモスは首を縦に振ることしか出来ない。
静かに部屋を出ていったアスモデウスの後姿を見送ると、ベヒモスは娘の背で涙を零すチヨに手を伸ばした。
「チヨ」
『酷い! あんまりです! 何故、こんな酷いことが出来るの!!』
「落ち着け、チヨ。ナギが起きてしまう」
かつては弟のように思っていた少年が、ベヒモスにしたことを思うとチヨは涙が止まらなかった。ベヒモスと離れ離れになってからは、引き裂かれた悲しみの所為で、自分の世話係となった彼には酷く冷たい態度を取ってしまった。けれど、それは半ば誘拐のような形で自分とベヒモスの間を引き裂いたジグと教会に対する怒りがそうさせたのだ。
聖騎士にとって教会の命令は絶対。チヨとてそれは分かっている。分かってはいるが、ジグがベヒモスに『光の加護』を施しているとは露ほど思わなかった。
『「光の加護」を受けた者は聖剣の力を分け与えられ、対象の魔族を見ると攻撃するようになります。ジグはナギがこちらに来ることを想定した上で、貴方に殺させようとしたのでしょう』
親が子を殺す――考えただけで、吐き気がした。
未遂とは言え、実の子供に手を上げてしまったことがベヒモスの罪悪感をより加速させる。
ベヒモスの魔法は身体を鋼のように硬質化するものだ。もし、あのままヴォルグが拳を受け止めてくれていなかったら、とベヒモスの顔から色が消える。
「……ジグ、というのは君があの時言っていた」
『いいえ。ジグとは代々「聖人」の位に与えられる名前なのです。先代のジグは初めて「聖剣」を与えられた方でしたが、私たちが離されてから一月の内に不審な死を遂げました。ですから、今はその方の息子が「ジグ」を名乗っているはずです。それに大聖人は息子の方を溺愛しておられましたから、先代よりも自分の扱いやすい息子を「ジグ」にすることを良しとしたのかもしれません』
「では、私に術を掛けたのは」
『恐らく、当代のジグで間違いありません。ですが、一体どこであの子と会ったのです?』
チヨの言葉に、ベヒモスは唸った。
チヨのこともそうだが、ここ百年ほどの記憶があやふやなのだ。彼女と初めて目が合ったときに言われたように、記憶封じの呪いが掛けられているのか、何かを思い出そうとしただけで鈍い痛みが頭を襲った。
「……うっ」
唯一思い出せるのは、靄の中でこちらを見下ろしながら不敵に笑うベヒモスの姿。妖しく光る蒼玉の眼に浮かぶ、白薔薇を隠すようにモノクルを付け直していたのが印象的だった。
『何か、思い出しました?』
「駄目だ。いつもベルゼブブに何か言われたところで、記憶が途切れてしまう」
『その方は、確か……』
「ああ。あの時、私をこちらに連れ帰った魔族で、三貴人にも所属している男だ」
ベヒモスはハッとした表情になって、不安に揺れるチヨを凝視した。
「魔族を見て、殺すように命令式を出す術なら、見た者に術を掛ける術式に変更できるのではないか?」
『……!』
「もし、ジグとやらがベルゼブブに会ってその術を掛けていたならば、彼の目を通して私に術を掛けることも容易なはず」
だが、そうなるとベルゼブブは最初から先代の王が死ぬことを予見していたことになる。そうでなければ、シュラウドを追ってベヒモスが人間界に行くこともなかった。
「最初から全て、仕組まれていたことだったとしたら……?」
ベヒモスは青い顔のまま、上体をゆっくりと起こした。
その拍子に、眠っていたナギの身体がずり落ちてしまうが、今はそれどころではない。
『顔色が悪いわ。まだ、横になっていた方が』
「すぐにでも、陛下の元に向かわねば! 大変なことになる!」
『落ち着いてください、ベヒモス! まずはナギと話をするのが先でしょう!』
訳も分からないまま、殺されそうになったのですよ、とチヨが語気を強くするのに、ベヒモスはぞわぞわと増幅していた不快感から抜け出すことに成功した。
ひたり、と冷たい汗が項を伝って背中を流れていく。
ベヒモスが身体を起こした所為で、ナギの髪はぐしゃぐしゃに乱れていた。
「ナギ」
ベヒモスの声に、ナギの肩がピクリと揺れる。
次いで、ゆっくりと開かれた双眼は、うっとりとするほど美しい金色であった。
「もう、平気なのか?」
掠れた声が、昨夜は泣いたまま眠ったことをベヒモスに知らせる。
うっすらと腫れている眦を優しく撫でてやれば、くすぐったいのか僅かばかりに眉根寄せてこちらを睨んでくる。
「な、なんだよ」
「……すまなかった」
「別に。殺されかけたのは、気にしてねえ。ただ、アンタが親父だったってことの方がビックリしただけだ」
「ふっ」
「わ、笑うな!」
「すまない。懐が広いところは、母親に似たのだな」
ナギの真上に浮かぶチヨが、ぱちぱちと瞬きを繰り返しているのが可笑しい。
カラカラ、と笑い声を上げるベヒモスにナギはふう、と長い溜め息を吐き出した。
「そう、なのか?」
「ああ。その目も、顔もチヨにそっくりだよ」
「……ふーん」
「顔が赤いぞ?」
うるせえ、と捨て台詞を吐き出すとナギは部屋から出て行ってしまった。
ベヒモスが起きたことをヴォルグに知らせに行ったのだろう。
照れ隠しが下手なところも、母親そっくりだなとベヒモスは喉を逸らして笑った。
ベヒモスが意識を取り戻したことをヴォルグに伝えると、彼は「良かった」と言って口元を綻ばせた。
「良かった、ってお前なぁ。殺されそうになったんだぞ?」
「それは君も同じでしょ。そんなことより、久しぶりの親子の対面だ。ゆっくり話は出来たのかい?」
「……まあ、一応」
ぽりぽり、と頬を掻くナギを見て、ヴォルグは目を細めた。
涙が滝のように流れていたのが嘘のように、鮮やかな桜色に染まる頬を見て「ふ」と短く息を吐き出す。
「嬉しそうだね?」
「わ、悪いかよ」
「それに、素直だ」
――素直な君はとても可愛いと思う。
ぽろり、と零れた本音に、ヴォルグは口元を手で覆った。
言うつもりなんて全くなかったというのに、ナギが柄にもなく照れた風に唇を尖らせていたこともよろしくなかった。
「……お前でも、そんな寒いこと言うんだな」
「自分で言っておいてなんだけど、今ちょっとダメージを受けているから触れないでくれる?」
「『素直な君はとても可愛いと思う』」
「わー!! 言わなくていい!! 言わなくていいから!!」
「ぶふっ! あはは! 何だよ、その顔!」
「ナギっ!!」
からかわないでくれ、と彼女の手を掴めば、予想外の接触に驚いたのかナギの目が大きく見開かれた。
ベルフェゴールの一件から、肌が触れ合う回数が増えた。
かた、と震えるナギの指先を見て、ヴォルグはそっと手を離す。
「あ、ちが……っ」
「良いんだ。今のは僕が悪かった。ごめんね」
ナギの傍から離れるように椅子から立ち上がったヴォルグを見て、ナギの目は揺れた。
ヴォルグにそんな顔をさせたい訳ではない。
謝ろうと思っても、彼はこの件に触れることを酷く嫌った。
どうしよう、と狼狽えるナギを救ったのは、コンコンと響いたノックの音である。
「ベヒモスです。よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「失礼します」
「まだ、寝ていた方が良いんじゃないのかい?」
ヴォルグが労うようにドアを開けば、ベヒモスは曖昧な笑みを浮かべて部屋の中に足を踏み入れた。
「丈夫さだけが取り柄ですので」
「誰かさんと一緒だね」
「それは俺のことを言ってんのか? あ?」
ドスの効いた声を出したナギに、ヴォルグとベヒモスが顔を見合わせて笑う。
彼の腕を支えるようにして、一緒に部屋の中に入ってきたマモンにドアを閉めるように促すと、ヴォルグはベヒモスをソファに座らせた。
再び椅子に腰を落ち着かせたヴォルグの隣で、ナギが心配そうにベヒモスを見つめる。
全員が腰を落ち着かせたのを見ていたかのように、紅茶を持って現れたマリーが部屋に入ってきた。
カップを受け取りながら、この場に居ないもう一人の腹心の名をヴォルグは呟いた。
「アスモデウス」
「ここに」
ヴォルグの影から姿を見せたアスモデウスが、数枚の書類を彼に手渡す。
「ベルフェゴールとベルゼブブの渡航・渡界記録を纏めたものです」
紙を捲る音が、シン、と静まり返った部屋の中に響く。
「あ、」
静寂を破ったのは、あるページを凝視して戸惑いの表情を浮かべたマモンであった。
「何か見つけた?」
「ここ、先代の魔王陛下が亡くなる半年ほど前に、お二人が二カ月連続で人間界に向かわれています」
三貴人が同時に出撃するのは珍しいことではない。
だが、二カ月も続いて同時に戦場に出ることはあり得なかった。
「確か、先王が亡くなる半年前に、ベルゼブブ様の御父上が亡くなったのではありませんでした?」
マリーの言葉に、ヴォルグとアスモデウスは顔を見合わせる。
「ベルゼブブ家の先代当主は、先々代の王と交流が深かったと聞く。残念ながら父上とは馬が合わず、代わりに息子のベルゼブブが三貴人に選ばれた」
「先代の魔王候補にも挙がっていた方です。息子の出世には複雑な気持ちがあったでしょうね」
アスモデウスの言に、ヴォルグが床を見つめながら言った。
「ああ。……それに、自分を蹴落とした王を殺したいと思う気持ちも少なからずあっただろうね」
息を飲む音がやけに大きく響いた気がした。
呼吸をするだけで、耳の裏に心臓の音が大きく反響する。
「そんな、まさか……」
「でも、もし王に選ばれなかったのをずっと恨んでいたのだとしたら? 王を殺して、新たな選別の儀を行おうとしても不思議ではないわ」
眉間に皺を寄せ、険しい表情を浮かべるベヒモスとアスモデウスの二人に、ヴォルグは書類を握る手に力を込めた。
くしゃり、と歪んだそれは、次いで黒い炎に包まれて灰へと変わる。
「ベヒモス」
「はっ」
「ベルゼブブの目に白薔薇が浮かんでいるのを見たことがあると言ったな?」
「はい」
ヴォルグが、ゆっくりと血に濡れた目でナギを見据えた。
「……ベルフェゴールの胸にも、白薔薇があった」
導き出される答えは一つ。
二人が共謀して、王を殺した。
王を支えるはずの三貴人が、王を殺す。
あってはならないことが起こっていたのだと、その場に居た全員の表情が凍てついた。
「三貴人を呼べ」
「レヴィアタン様に、ご連絡しなくてよろしいので?」
「明日の朝一番に会議をすると伝えろ。それでレヴィには分かるはずだ」
「分かりました」
ヴォルグの声に、怒りが含まれているのが痛いほど伝わってきた。
マリーとマモン、それからアスモデウスの三人が続けざまに部屋を出ていく。
唯一残ったベヒモスが、心配そうに彼を見つめていた。
「陛下」
「平気だ。お前ももう部屋に戻って休め」
「ですが、」
食い下がるベヒモスを、ナギが制した。
「俺が居るから、大丈夫だ。親父殿は魔力を回復させることでも考えてな」
さあ、と背中を押して、半ば強引に部屋から退出させる。
振り返れば、険しい表情のままこちらを凝視するヴォルグと目が合った。
「一人にしてくれ」
「駄目だ」
「どうしてさ。一人の方が考えも纏まる」
「そんな顔をしているお前を一人に出来るわけがないだろ」
今にも、泣き出してしまいそうな、そんな表情のヴォルグに、ナギはそっと近付いた。
いつもは自分から触れたりしない。
従者から主に触れるなんて、と恐れが顔を覗かせるが、今のヴォルグを一人にしておくことなどナギには出来なかった。
居心地悪そうに窓の方を向いてしまったヴォルグの傍にナギはそっと歩みを寄せる。
魔界には、もうすぐ冬がやってくる。
きらきらと輝きを帯びる波間の空からは時折冷たい潮風が流れてきて、魔界に慣れていないナギの無防備な肌を容赦なく突き刺した。
「……ヴォルグ」
自分でも驚くほど、頼りのない声が出た。
彼が何を考えているのか、分からないことが煩わしい。
(こっちを見ろよ)
いつもは頼まなくても、穴が開くほど見つめてくる瞳が今は窓の向こう、銀色に輝く空に吸い込まれていく。
(お前はもう、一人じゃない)
ナギの心の声が、ヴォルグの胸を波立たせる。
意識していなくとも聞こえてしまうそれに、ヴォルグはぎゅっと目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのはいつだって、血だまりの中に倒れる父の姿で。
ベルフェゴールに無体を働かれたナギの青白い顔が、あの時の父と重なって見えてしまうのが怖かった。
ゴン、と額を勢い良く窓にぶつけたヴォルグの肩に、温かい何かが触れる。
重みのあるそれが、ナギの頭だと気が付くのに少しだけ時間がかかった。
「大丈夫」
「え?」
「大丈夫だよ」
「な、にが」
「今度は俺が居る。だから、誰も殺させはしない」
微笑みを浮かべるナギの顔を、銀に染まった波がきらきらと反射して眩しい。
思わず息をすることも忘れて見つめていると、彼女が少しだけ照れたように視線を逸らした。
「『ありがとう、頼もしいよ』って応えるとか、ねえの? 俺だけ恥ずかしい奴みたいじゃねえか」
そっぽを向くナギの頬がうっすらと赤みを帯びる。
無意識の内に手を伸ばせば、髪と同じ浅黄色の睫毛がゆっくりと伏せられた。
触れた肌は、いつだって火傷するように熱い。
魔族の身体には人間にはない魔力を貯めこむ臓器が備わっている。その所為か、人間に比べると体温が低い。魔力が高ければ高いほど体温は低くなり、中には氷のように冷たい者も居た。
ヴォルグの魔力は魔界一のもの。己の温度を知るのが嫌で、母や側近の従者以外には極力触れないようにしてきた。
「冷たい」
「うん」
ナギに触れると、いつも心がざわついた。
触れたことのない肌の熱さに、呼吸をすることさえままならなくなってしまって、指を動かすことが酷く億劫に思えた。
カタツムリのようにゆっくりと、肌の上で指先を滑らせる。
擽ったそうに笑い声を漏らすナギと数秒だけ視線が交差した。
「何だよ、ガキみたいな顔をして。ハグでもしてやろうか?」
「うん」
「うんってお前、仮にも魔王がそんな簡単に、」
「慰めてよ」
こつん、とぶつけられた額に、ナギは戸惑った。
鼻先が触れるほどの距離で懇願された思いはあまりにも稚拙で、本当にあの魔王から放たれた言葉なのか、と疑いの眼差しを向ける。
「だめ?」
子供のように首を傾げてそんなことを宣う男に、ナギはぐっと喉を詰まらせる。
「きょ、今日だけだぞ」
「ふふっ」
「何、笑って――」
ぎゅう、と痛いくらいに強い力で抱きしめられて、ナギは一瞬呼吸が出来なくなったのではないかと錯覚を覚えた。
肩に顔を埋められた所為でヴォルグの顔は見えない。
「ったく、でかいガキだな」
ポンポン。
無遠慮に撫でた髪は恐ろしく指通りが良くて、ナギは苦笑した。
うりうりと顔を肩に擦りつけられる度、笑いそうになるのを必死に堪える。
「誰か来ても知らねえぞ」
「ん」
「仮眠室、行くか?」
「んーん」
「おい、ちゃんと答えろよ」
「ここで、いい」
濡れた瞳が、今にも零れ落ちてしまいそうで、驚いた。
慌てて強く抱きしめれば、彼が「苦しいよ」と困ったように笑うので、心臓が忙しなく鼓動を打ち鳴らすのに、ナギはまた戸惑った。
「人に睡眠を取れと言っておいて、この野郎……。静かなうちに少し寝ろ。誰か来たら、起こしてやるから」
そう言って、ヴォルグの身体を引き摺りながらソファに移動すると、彼は首を縦に振って、ナギの腕の中で眠りについてしまった。
膝枕ならまだ恰好がつくが、抱き合ったまま眠りの波を泳ぎ始めてしまった彼に、ナギは眦を和らげる。
「本当、困った魔王様だなぁ」
呟いた言葉はヴォルグには届かない。
ナギの瞳の中で、滲んだ白薔薇がゆらりと揺れていた。
明朝。
まだ、霧けぶる朝日の下に魔王は仁王立ちしていた。
「おい、まだ早いって言ってんだろ。日も昇りきってないうちに何格好つけて立ってんだ。見てるこっちが寒ぃわ!」
ぼふっと音を立ててヴォルグの顔に着弾したのは、ナギが部屋の中から投げて寄越した分厚いファーのコートだった。
「平気だよ。僕、体温低いから」
「そういう問題じゃねえの。そんなとこで立っていたら、いくらお前でも体力奪われるって言ってんだよ。このバカ!」
「馬鹿って君ねぇ。仮にも主に対して馬鹿って……」
「んな寒ぃとこで防寒具も着ずに立ってる奴をバカと言わず、何て呼ぶんだよ」
からからと笑いながら窓を閉めたナギに、ヴォルグは唇を尖らせた。
昨日は優しかったのにな、と寝付くまで優しく撫でられた髪に、乱暴に指を絡ませる。
「朝餉だぞ、陛下。早く中に入れ」
紺色のコートを着たマモンが呼びに来るまで、ヴォルグは悶々と昨夜のことを思い出していたのであった。
三貴人が到着したのは、城の鐘が昼を伝えて少し過ぎた頃であった。
昨夜降り積もった雪の除雪作業に追われ、到着が遅れたらしい。
嘘か誠か分からない報告であったが、ヴォルグは雪塗れになった彼らを優しく迎え入れた。
アスモデウスとマリーに紅茶と軽い食事を持ってくるように頼むと、ナギを供に会議室へ三人を案内する。
「そんなに雪が積もっているのかい?」
「我々が治める地域は王都に比べると気温が低いですからね。雪が残りやすく、この時期は屋敷を出るのも一苦労で……。遅くなってしまって申し訳ありません」
年少の務め、と言わんばかりにレヴィアタンが頭を垂れた。
ヴォルグはそれに苦笑を返すと、タオルで身体に付いた雪を払うベルゼブブとベルフェゴールをちらと窺った。
二人とも、「災難でしたね」と互いの身体を濡らす雪を見て穏やかに談笑している。
「それでは、そろそろ本日の議題をお聞きいたしましょうか、陛下」
ヴォルグの視線に気が付いたのか、ベルフェゴールが紅茶を飲みながら言った。
「そうだね。……ナギ、例のモノを」
「はい」
ナギは皆に一礼すると、ヴォルグの背後に聳え立つ漆色の書棚に手を伸ばす。
昨夜、皆の意見やマモンの調べを纏めたものをヴォルグと一緒に作っていたのだ。
分厚い書類の束に、三貴人の面々が表情を硬くするのが見なくても分かった。
だが、ただ一人。レヴィアタンだけがその書類の題目を見るや否や、勢い良くナギの腕を取った。
「これは……」
驚愕に目を見開く彼女に、ナギは口元を緩める。
にっこり、と微笑みを返せば、レヴィアタンはじっと食い入るように書類を見つめた。
題目は『先王の殺害、その真相について』。
ベルゼブブとベルフェゴールの二人が息を飲む音が部屋に響いた。
「さて、まず最初のページを見てもらおうか」
ヴォルグの声に、皆が一斉に紙を捲る。
そこには、ベヒモスの証言が事細かに記されていた。
先王ヴァトラがどのような状態で発見されたのか、またその容疑者である先代「王の騎士
」シュラウドが何者かに殺されたことまで、全て。
ふと、レヴィアタンがナギの手首を強く握った。
ベヒモスの証言が書かれていることで、兄が生きていることを知ったのだ。溢れそうになる涙を必死に堪え、こちらを見る彼女の瞳には強い光が宿っていた。
「ここに、シュラウドを殺したのは『白薔薇の印が施された剣』と書かれてある。これは、僕の剣であり、元・人間であるナギの証言によって『聖剣』の可能性が高いということが判明した。これは我らが敵対する人間組織『教会』独自の武器であり、これを扱える人間は『聖人』と呼ばれる限られた者だけなのだそうだ」
ヴォルグの言に室内は静けさに覆われていた。
呼吸する音すらも極限まで小さくなった部屋の中に、若王の凛とした声が響き渡る。
「我々魔族の中に、奴らと通じている者が居るということになる」
「な!」
「そんな、まさか!」
過剰に反応したベルゼブブとベルフェゴールの二人に、ヴォルグは優しく微笑みを浮かべた。
「そんなこと、あるわけがないだろう? 僕も最初は嘘であってほしいと思った。だが、ベヒモスや他の配下たちが命がけで調べたものだ。彼らが嘘を言っているとは到底思えない。そこで、だ」
ヴォルグはゆっくりとナギと顔を見合わせた。
己の迷いを振り払うように、こちらをまっすぐ見つめる王に、ナギは頷き返す。
「……君たち三貴人の中に、裏切り者が居ないか調べさせてもらいたい」
「何を仰るのです、陛下!! 我々がどうして貴方を裏切りましょうか!」
「ああ。君たちを疑っているわけではない。ただ、調べるならまず一番上の、王に次ぐ立場の者たちからと相場は決まっているだろう? 君たちの身が潔白であるということを僕に証明してほしいだけなんだ」
紅色の眼に、もう迷いはない。
爛々と燃え盛る怒りの炎を、ナギは静かに見守っていた。
「それでは、レヴィアタン様はこちらへ。ご婦人を同じ部屋で取り調べる訳には参りませんので」
「え、ええ……」
ナギに従って部屋を出ていくレヴィアタンを見て、ベルゼブブとベルフェゴールの二人の顔が歪んだ。
「じゃあ、まずは君からだ。ベルフェゴール」
「は、はい」
「服を脱いでくれるかな?」
「は?」
「ナギが言っていたんだよ。聖剣の加護を受けた者には身体のどこかに白薔薇の刺青が浮かび上がる、とね。君の身が潔白であるのであれば、僕の前で服を脱ぐくらい造作もないだろう?」
ひ、とベルフェゴールが引き攣った声を漏らす。
だが、次いで、のそのそと亀が歩を進めるがごとく緩慢な動作でもたつきながら衣服を脱ぎ始めた。
上半身が最後の一枚になったところで、ベルフェゴールの動きが止まった。
カタカタ、と指先は震え始め、息を吸う度に肺が痛んだ。助けを求めるようにベルゼブブの方を見るが、彼はその視線に気が付くと火の粉が振りかかるのを嫌ってベルフェゴールから視線を逸らした。
「どうした、ベルフェゴール。そんなに肌を晒したくないのか?」
「そうですよ、閣下。生娘ではないのですから、肌を晒して疑いが晴れるのであれば安いものではありませんか」
ヴォルグとベルゼブブの言葉に、ベルフェゴールは唇を噛み締めた。
何が悲しくて若造の前で服を脱がねばならないのか。どうして自分は素直に従ってしまったのか。
騎士であるナギが居ない今ならば、ベルゼブブと二人がかりで王を殺せるのではないのかという考えが、頭の中で蠢き始める。
ちら、とベルゼブブに視線を送るも、彼は先程からこちらと目を合わせようとしない。
あまり見過ぎても、ヴォルグに気付かれる恐れがある。
どうしたものか、と最後の鎧であるシャツのボタンにゆっくりと指を掛けた。
「……ところで、ベル」
「何でしょう?」
ベルフェゴールのストリップショーを尻目に、ヴォルグは鈍く光るベルゼブブのモノクルに手を伸ばした。
「これは一体いつから着け始めたのかな?」
「え?」
「僕の記憶では、君が三貴人になって間もない頃はまだ着けていなかったと思うのだけれど?」
ごくり、とベルゼブブが生唾を飲み込む音がやけに大きく部屋の中に響いた。
ボタンを外していたはずのベルフェゴールも、ヴォルグの問いに驚いて身動きを止めている。
「これ、はその……父上の形見で……」
「先代のベルゼブブ殿が亡くなられたのは、我が父上が亡くなる少し前だったか?」
「は、はい」
ヴォルグは知っていた。
先代のベルゼブブは千の目を持つ者と呼ばれ、全てを見通す不思議な目を持っていたことを。そんな、目の良い者がモノクルなど着けるはずがない。
「本当に御父上の形見なのか?」
「……っ」
ベルゼブブの額に滲んだ冷汗が答えだった。
ヴォルグの手が、ベルゼブブの頬を打つ。
カシャン、と軽やかな音を立てて、モノクルが床に跳ねる。
「……面を上げよ、ベルゼブブ」
「チッ」
「上げよと言っているのだ」
ヴォルグの声にベルゼブブは、ゆらりと顔を上げた。
その目に宿る、白薔薇を妖しく光らせて、くつくつと喉を逸らして笑う。
「はははっ! 流石は陛下! 人を見る目がおありのようで!」
「残念だよ、ベル。この手で兄のように慕った貴方を斬る日が来ようとは」
「それはこちらのセリフですよ、陛下。……お覚悟を!!」
ベルゼブブはそう言って、懐から銀のナイフを取り出した。
その柄には、白薔薇の刻印。
「……聖剣!?」
「そうです! 貴方には父王と同じ道を辿ってもらう!」
ヴォルグは咄嗟に、ベルゼブブから距離を取ろうとするが、部屋の狭さが災いした。
動いた拍子に倒れた椅子に足を取られ、胸元目掛けてベルゼブブの腕が迫ってくる。
「……っ!!」
「ヴォルグ!!」
――キィン。
金属のぶつかり合う音が、部屋の中に木霊した。
ぜえぜえと息も荒く、凶刃から主人の身を守ったナギの背中に、ヴォルグはほっと息を漏らす。
「ナギ」
「ったく! だから、俺も残ると言ったのに!」
「心配せずとも、私が仕留めようと思っていたところでしたのよ?」
「居るなら、もっと早く出てこい!」
アスモデウス、とナギが叫ぶや否や、彼女はゆらりとヴォルグの影の中から姿を現した。
妖艶な笑みを浮かべたかと思うと、未だヴォルグに敵意を剥き出しにする二人の男に腕を伸ばす。
「捕らえろ」
凛と咲く菫のように、美しい声が毒を吐き出す。
彼女の手から伸びた毒の霧は、容易く二人を縛り上げた。
「ご安心なさい。楽には殺してあげません。ゆっくり、たっぷり、拷問してから殺してさしあげます」
アスモデウスの笑顔に、その場に居た誰もが恐怖に表情を染めた。
ずるずると二人を引き摺って部屋を出ていこうとする彼女を、遅れてやって来たレヴィアタンが引き留める。
「お待ちください、アスモデウス様」
「何かしら?」
「その男は、私に拷問させてください」
アスモデウスは瞬きを落とすと、二つ返事でベルフェゴールをレヴィアタンに差し出した。
緩慢な動作で腰に下げるレイピアを抜刀する。
そして、男の前に躍り出るや否や、その首を切断した。
「叔母上、何を!!」
ナギが慌てて駆け寄るが、彼女は近付くな、と言わんばかりに首を横に振った。
「直ぐには殺しません。私の剣は、海竜の牙から作られた特別、鋭利なもの。培養液に浸しておけば、神経を繋いだまま自らの身体が拷問される様を見せてやるのです」
「貴様……!」
床に転がったベルフェゴールの首が、憎たらしそうにレヴィアタンを睨み上げる。
だが、彼女はその髪を無遠慮に引っ張り持ち上げると、彼の顔にレイピアを近付けた。
「誰が口を開いて良いと言った? 兄上を陥れ、姪に無体を働いた貴様は決して許さぬ。貴様の娘、息子。一族全員の四肢を捥いで、海竜の餌にしても、私の怒りは決して治まらんぞ」
ドスの効いた低いアルトの声が、ベルフェゴールの顔から色を奪っていく。
怒った時の声は、ナギに似ているな、とどこか他人事のように美しく逞しい背中を、ヴォルグは黙って見送った。
しん、と静まり返った部屋の中に残ったのは、ヴォルグとナギの二人だけ。
先に口を開いたのは、意外にもナギの方だった。
「終わったな」
「ああ」
ふう、と息を吐き出して、椅子に腰を落ち着かせたヴォルグを見て、ナギは笑い声を上げる。
「何だい、そんなに笑って。僕の顔に何か付いているのかい?」
「ふふ、いや。お前でも、そんな顔をするんだな、と思って」
「そんな顔って?」
「一安心、って顔に書いてるんだよ、バァカ」
けらけらと笑いながら額を小突かれて、ヴォルグは苦笑した。
ナギの顔だって似たようなものなのに、と心の中で思うだけに留める。
「……少し外を歩こうぜ。今日あたり、あの花が綺麗に咲いていると思うんだ」
そう言って、中庭を覗いたナギに、ヴォルグは「仕方がないなぁ」と腰を上げるのであった。
「ナギ」
「んー??」
ゆっくりと伸びをしながら返事をしたナギは、振り返った先で満面の笑みを浮かべる魔王に首を傾げた。
「ありがとう」
珍しく素直に礼を述べられ、ナギは瞬きを繰り返す。
「な、なんだよ急に」
「急じゃないよ。君にはいつも本当に感謝しているんだ」
優しくて不器用な、僕の剣。
君と出会わなければ、きっと彼らを捕らえることを僕は諦めていたかもしれない。
「よ、よかったな」
「うん」
ベヒモスの回復を待つ間、ナギは花畑の管理を彼とヴォルグから任されていた。
すっかり見慣れた黄昏の波間が、ネモフィラの青と混ざり合って綺麗なコントラストを生んでいる。
そこに新たに加えられたシロツメクサがふわふわと白い花を揺らしていた。
「ねえ、さっきから何を作っているんだい?」
ずっと手元に集中しているナギが気になって、彼女の顔を覗き込めば、ふと頭に微かな重みを感じた。
「はい、出来たっ! やっぱり王には王冠がねえとな!」
ひひ、と悪戯っ子のように笑うナギに、ヴォルグは目を丸くした。
背後で夕日がゆらゆらと波に吸い込まれていく。
「ははっ! 嬉しいなぁ。ありがとう、ナギ」
「どーいたしまして」
大袈裟なほど深く頭を垂れたナギに、ヴォルグはくくと喉を逸らして笑った。
「実はね、三貴人の制度を廃止しようと思っているんだ」
「へえ」
「それから、魔力で魔王を決めるのも、僕で最後にしようと思っている」
ヴォルグの言葉に今度はナギが目を丸くする番だった。
「王制度を廃止するのか?」
「うん。僕は別に皆を支配したいわけじゃないから。共に国を良くしていきたい、ただそれだけなんだ」
照れくさそうに笑うヴォルグに釣られて、ナギも口元に弧を描く。
このままずっと、この王に寄り添っていたい。
二つ目の花冠を作ろうと、ナギは再びシロツメクサの中にしゃがみこんだ。
「……随分と可愛らしいごっこ遊びに興じているじゃないか」
ぞわり、と背筋を這う、冷たい男の声。
「ナギッ!」
ヴォルグの声が耳元に届くも、一瞬で間合いを詰められ、首に冷たい刃が触れるのが嫌でも分かった。
振り返るまでもない。
この世でナギが最も嫌う男が、己の腰を擁して、ヴォルグに剣を向けていた。
銀色の髪の隙間で、金色の双眼が挑発するように光っている。
ヴォルグがゆっくりと立ち上がり、こちらに足を踏み出すのを見て、ナギは叫んだ。
「来るな、魔王!」
ジグの持つ聖剣は魔族にとっては毒に等しい。
一太刀でも浴びてしまえば、ゆっくりと死へと誘われてしまうのだ。
「ふふ。このじゃじゃ馬をどうやって手懐けたのか興味がそそられるが、少し急いでいてな。その話は後日ゆっくりとしようではないか」
「離せっ!! このっ!」
「暴れるなよ。うっかり、お前の魔王陛下に攻撃されても文句は言えんぞ」
男が薄ら笑いを浮かべて、ヴォルグのすぐ脇へ斬撃を飛ばす。
「ジグッ!! てめえ!!」
ぶわり、と生ぬるい風が三人の肌を悪戯に撫でていく。
「彼女をどうするつもりだ」
「知れたこと。『生贄』のアリスがこちらにあれば、初代はそれを取り返そうとする。我々は彼が目覚めるのをずっと待っているのだよ」
「何を言って……」
「おっと、少々お喋りが過ぎたな。つまり、これは元々こちらのモノだから取り返しに来ただけだ。ではな、魔王陛下」
「待て!!」
ナギを抱えたまま、ジグは自分が斬った空間の裂け目へと身を投じた。
「ヴォルグ!!」
絶対にこちらへ来るな。
ナギはそう言って、泣き出すのを我慢するように笑って消えた。
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