十二、受け継ぐもの
長い、夢を見ていたようだ。
黄昏に染まった波が、きらきらと光って眩しい。
ネモフィラの絨毯から、ゆっくりと身体を起こすと鈍い痛みがベヒモスの後頭部を襲った。
『夢じゃない』
か細い声が風に乗って、ベヒモスの鼓膜を震わせる。
「夢じゃない?」
『貴方が見ていたのは夢じゃないのよ、ベヒモス。思い出して……』
酷く悲しそうなその声は、ベヒモスの心を波立たせた。
どこかで聞いたことのある、美しい音色。
この声を、自分は知っている。
くしゃり、とベヒモスの掌の下でネモフィラが歪む。
「…………チヨ?」
『……やっと、目が合いましたね』
ふふ、と笑ってこちらを見るのは、懐かしい顔で。
淡い光を放つ彼女がベヒモスの周りを嬉しそうに飛び回っていた。
「どうして、」
――どうして今まで忘れていたのだろう。
こんなにも焦がれていた女性のことを、どうして自分は忘れていたのだろうか。
情けなく涙が流れるのを拭いもせず、チヨに手を伸ばすと、彼女はそれに応えるように近付いてきた。
「どうして、貴女がここに」
『あの子が、連れてきてくれたのです』
「あの子?」
『そう。私と貴方を繋ぐ、あの子が』
「ここに、来ているのか?」
チヨはゆっくりと首を縦に振った。
記憶が戻った今なら分かる。
浅黄色の髪に、チヨと同じ金色の髪を持つ人物などベヒモスは一人しか知らない。
「そうか、あの子が……」
『ええ』
「気が付かなかったよ」
『そうでしょうね。だって貴方、記憶を封じる呪いが掛けられていたのですもの』
チヨの言葉にベヒモスは、目を丸くした。
「私に呪いが? そんな、馬鹿な……」
『嘘ではありません。魔力と魂だけの姿になったから分かるのです。貴方の身体には別人の魔力が残っている。それも昨日今日の名残じゃない。おかげで、目を合わせるのにこんなにも時間がかかってしまった』
チヨの手がベヒモスの頬に触れる。
だが、その手には温もりが感じられなかった。
『もっと早く、貴方に会いたかった』
「すまない」
『どうして、貴方が謝るのですか? 相変わらず、おかしな人ですね』
ころころ、と笑うチヨの声が、ベヒモスの胸を穿つ。
優しくて心地の良い温もりにもう一度、触れたかった。
抱きしめられない不甲斐なさに、また涙が溢れる。
『泣かないで。貴方のそんな顔が見たかったのではないのですから』
チヨの手が動く度、優しい風がベヒモスの頬を撫でた。
スン、と鼻を啜って、涙を拭う。
細君が満足そうに笑うのに釣られて、ベヒモスの顔から悲しみは消えた。
『記憶が戻った今なら、貴方には分かっているでしょう?』
「ああ。……行こうか?」
『ええ』
ベヒモスの応えに、チヨは静かに笑った。
黄昏の波間が、チヨの身体を通ってベヒモスを照らす。
『こんな形で、貴方の故郷を見られるとは思いもしませんでした』
いつか話した黄昏の波が、静かに揺れている。
真っ白な頬を夕日が照らすのを見ていると、いつか見たあの景色が重なった。
「君は消えるのか?」
『ええ、いずれは。けれど、あの子が真に幸せになる姿を見るまでは、彼岸には行けそうにありません』
そういう魔法を使ったのです、とチヨは言った。
慈愛に満ちた表情に、ベヒモスは言葉が詰まって、喉が痛かった。
執務室に次から次へと運ばれてくる書類の数に、ナギは途中から思考することを放棄した。無心になって、ヴォルグが捺印した書類を封筒に入れる作業を繰り返す。
「……ねえ、ナギ」
「何だ」
「最近よく眠れていないでしょ?」
「…………そんなことはねえ」
「隈、すごいよ?」
ここ、と目の下を指で軽く押されて、ナギはムッとした。
確かにベルフェゴールと夜を共にしたあの日からナギの睡眠は浅い。
だが、この隈はここ数日の激務で、部屋に帰ることは疎か、風呂にすら入れていないことが原因と言ってもおかしくはなかった。
「お前だって、他人のこと言えないだろ」
唇を尖らせて、向かいのソファに座るヴォルグを見れば、彼の顔にも疲れがくっきりと刻まれていた。
寝不足なのか、うっすらと充血した目で見つめられては落ち着かない。
「僕は仮眠室で寝ているけれど、君はソファで横になっていても眠っていないじゃないか」
「それは、」
眠ると夢を見る。
ベルフェゴールの夢を。
合意だったとはいえ、本意ではなかった行為を強いられたのだ。トラウマにならない方がおかしい。
チッ、とナギが脳裏にちらついた忌々しい記憶に舌打ちを零すのと、部屋がノックされたのはほぼ同時であった。
「ベヒモスです。少しよろしいでしょうか?」
夕刻にベヒモスが執務室を訪れるのは珍しい。
何かあったのだろうか、とナギが首を傾げれば、ヴォルグも同じように首を傾げながら「どうぞ」と短く返事を返した。
ティーセットを持ったベヒモスが、穏やかな表情を浮かべて部屋の中に入ってくる。
じっと、こちらを見つめる彼にどこか違和感を覚え、ナギは首を傾げた。
「どうした、庭師? 俺の顔に何か付いているか?」
「いや、なに……。随分とお疲れのようだ、と思ってな」
差し出されたカップを受け取ると、ヴォルグとナギは一息にそれを飲み干した。
甘いレモンティーの香りが咥内を満たす。喉から腹に流れ落ち、疲れを溶かしていく。
「ふぅ」
ほっこり、と腹を満たした紅茶に、ナギは満足そうに笑みを浮かべた。
「そうだ、ベヒモス。頼んでいた花は咲きそうかい?」
「ええ。庭の土が合っているのか、直に蕾が開きそうですよ」
「そうか。それは楽しみだな」
強張っていた頬が緩み、眦を和らげたヴォルグにベヒモスも嬉しそうに笑う。
おかわりは、と言われ、素直にカップを差し出した二人に、ベヒモスはティーポットを持ち上げた。
「……陛下、少しお話があるのですが」
淡いオレンジの紅茶が再びカップに注がれようとした、その時――。
「ぐっ!?」
ベヒモスが急に胸を押さえて倒れ込んだ。
「大丈夫か、ベヒモス!!」
「よせ、ヴォルグ!! 近付くな!」
ベヒモスから感じるはずのない、見知った気配を感じ取ってナギはヴォルグを制した。
ゆらり、と起き上がった彼の両目に毒々しい白薔薇が咲き誇っている。
「……白薔薇か」
「一体、何が起こっているんだ」
「てめぇは離れてろ。今のこいつは動く聖剣と思った方がいい」
ナギは、両目に薔薇が浮かんだ状態の人間を何度か見たことがあった。
突然、発狂したかのように暴れ出し敵をなぎ倒していくその様は、味方にとっては頼もしかったが、魔族になった今は、それがどんなに恐ろしいことかよく分かっていた。
本来であれば、人間の物理攻撃など魔力には毛ほどの威力もない。だが、聖剣使いのジグに薔薇の力を与えられた者は違う。
全身が白薔薇の力に覆われ、肌が触れただけでも魔族には致命的なダメージになる。
「クソ……っ。こんなところに来てまで、その技を見る羽目になるとは……!」
「うおおおお!!」
赤く染まった目の中に浮かぶ白薔薇が、憎かった。
己の母を殺した男の目と同じ、赤い血の色。
「また、てめえか!! ジグ!!」
ソファのすぐ脇に立て掛けていた大剣を鞘から抜き、ベヒモスの拳を剣背で受ける。
ずしり、と体重の乗った拳が鈍く剣に響いた。
「……ヴォルグ、今すぐ部屋を出ろ」
「でも!」
「良いから出ろ!! お前が居ると、集中出来ねえんだよ!!」
鋭く光った眼光に、ヴォルグはおとなしくナギの言に従った。
部屋の窓から中庭に飛び降りれば、それと同時に爆風が背を襲う。
「ナギ!!」
「へ、いきだっつの!!」
――キィン。
素手で殴られたはずなのに、金属のような反響音が部屋の中に響いて、ナギは舌打ちを零した。
ぎょろぎょろと忙しなく動く目が、ナギの神経を逆撫でする。
あの目が、嫌いだ。
こちらを見ているようで、見ていない、あの目が。
無理やりにでも、脳内に出てこようとするアイツに、ナギは歯軋りした。
「だぁら!!!」
怒りを力に変えて、ベヒモスに剣を振るう。
剣背で殴りかかったにも関わらず、ベヒモスは難なくそれを受け止めた。
おまけに、剣を掴まれてしまって、ぶんぶんと力任せに振り回される。
「く、このっ!!」
遠心力で足が宙に浮いたのを感じて、ナギは振り回されるまま彼の顎めがけて足を延ばす。
ドゴッ、と鈍い音が響くのと同時に、ベヒモスの手から大剣が離れた。
「ったく、ただの庭師じゃねえな。てめえ、一体何があったんだよ」
「……チ、ヨ」
「…………」
「すま、な、」
血の涙が、ベヒモスの眦を伝って頬を汚した。
ぽたり、と床に飛散したそれに、ナギはゆっくりと目を見開く。
「どうして、お前が母さんの名前を知っている……!?」
「チヨ……」
すまない、とベヒモスがもう一度呟いた。
ブン、と風切音を纏った拳が己を狙うのに、ナギは身体が固まったように動けなかった。
当たれば顔の骨が砕ける。そう、分かっているのに、母の名前を呼ばれて動揺が隠せない。
「……何が、『平気』なんだい? ちっとも、倒せてないじゃないか」
軽々と彼の拳を受け取ったのは、先程地上に降り立ったはずのヴォルグだった。
指一本でベヒモスの拳を止めて見せた彼を、ナギは虚ろな瞳で見つめる。
「ナギ?」
「お前、俺の母を知っているのか」
「ちょ、近付いたら駄目だと言ったのは君だろ!」
ベヒモスの拳を捕らえたヴォルグの横を通り過ぎ、ナギは彼の懐に潜り込んだ。
大剣を彼の首筋に添えれば、一筋の雫がナギの頬を濡らした。
「答えろ!! ベヒモス!!」
声を張り上げたナギに、ベヒモスは表情を歪めた。
困ったように笑う彼を見て、ナギの顔から色が消える。
「まさか、アンタ……」
ベヒモスの身体から、ふっと力が抜けた。
ぐらり、と傾いだ巨体を支えようとしたナギを制して、ヴォルグが彼の身体を受け止める。
「大丈夫かい?」
「あ、ああ。悪い。出過ぎた真似をした」
「君は僕の騎士なんだから、僕を守る義務がある。実際、命を助けてもらったんだ。謝る必要はないよ」
「……」
「ナギ?」
ゴミ箱をひっくり返したように、ごった返しになってしまった部屋の中で唯一無事だったヴォルグの椅子に、ベヒモスを座らせる。
銀髪に見え隠れする彼の瞼がひくひくと動くのに、ナギは唇を噛み締めた。
「……こいつに妻や子供は居るのか?」
「居なかったと思うけれど、どうして?」
「俺の、俺の母の名前を知っていた」
「それが、どうかしたのかい?」
「おかしいだろっ! どうして人間の名前をこいつが知っているんだよ!! それも、教会の上層部、『聖子』の位に居た俺の母を!!」
今度はヴォルグの目が見開かれる番だった。
紅の宝玉が零れ落ちそうになるのを視界の端に収めながら、ナギは震える手をベヒモスに伸ばした。
母、チヨは昔から言っていた。
貴方の父は恐ろしく綺麗な人だった、と。今ならその言葉の意味がよく分かる。
恐ろしくて、強くて、綺麗な魔族。
触れた頬の温度は、冷たい。
母の柔らかな温もりを感じさせる頬とは正反対だ、とナギは思った。
「ずっと、会いたかったんだ」
ナギの肩が震える。
頬を伝う涙は、止むことを知らない雨のようにしとどに床を濡らした。
「親父殿っ……」
わあん、と崩れ落ちたナギの身体を、ヴォルグは優しく抱きとめる。
「思いっきり、泣けばいいさ」
「う、るせ」
「ふふ。そんな可愛い声で言われても、ちっとも怖くないね」
ヴォルグの匂いに、ナギは沈んでいた気持ちが僅かばかりに浮き上がるのを感じた。
「ヴォルグ」
「んー?」
「ありがとな」
「どういたしまして」
背中を撫でるヴォルグの手が心地良い。
黄昏の波間が、二人の影を優しく照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます