十一、悲鳴
新月を迎えても魔王軍が来なくなってから、一年。チヨの元に連絡係の騎士が来なくなってから二月が経った頃。
チヨの身体には新たな命が宿っていた。
「……連絡係か来なくなって、今日で二月。妊娠を知られずに済みましたが、ここでの生活はこの子にどんな影響を与えるのか分かりませんね」
「そうだな。貴女の体調が落ち着いたら、どこか静かな場所を探しに行こう」
「ええ」
愛しそうに腹を撫でるチヨの手に、ベヒモスは己の手を重ねた。
伝わってくる温度は心地良く、二人して眦を和らげる。
それからチヨの体調が落ち着くのを待って、二人は塔を離れた。
教会にあまり良い思い出の無いチヨにとって塔を離れることに何の迷いもなく、必要な物だけを淡々と鞄に詰めていく様は、機械人形のようで。ベヒモスは少しだけ胸が痛かった。
魔界への扉が現れるのは、水辺が多い。
これは魔界の空が海で出来ていることと関係しているのではないかと、学者たちの間で議論が続けられているが、未だ解明には至っていない。
いつ魔界への扉が開くかも分からない状況で、森に姿を隠す訳もいかず、結果として二人は小さな港町に居を構えることにした。
チヨが持っていた銀細工の燭台や皿を売って小さな一軒家を借り、ベヒモスは漁師として船を一隻貰い受けることに成功したのである。
「貴方の角は目立ちますから、出かけるときは必ずこれを被ってくださいね」
「ああ。ありがとう、チヨ」
濃紺の生地で作られたフード付きのローブを受け取り、ベヒモスは笑った。
城で生活していた頃は、毎日人間との戦いに備えて会議にかまけていたが、今は違う。
ピリピリと必要以上に殺気立たなくても良い。穏やかに過ごせる日々が、どうしようもなく愛おしかった。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
少しだけ丸みを帯びて柔らかくなったチヨの身体を抱きしめると、ベヒモスは仕事に向かう。
赤い屋根が目印の一軒家で、愛しい人が自分の帰りを待っている。
今のベヒモスが守る小さな城は、優しさと温もりで溢れていた。
『ベヒモスさん、アンタ今日は早く帰ってきなよ』
『どうしてです?』
『今日は満月だろう? 奥さん、今日あたり生まれるんじゃないかね』
隣向かいの家に住む老婦人に言われた言葉を思い出して、ベヒモスは首を捻った。
魔界では満月の日に子供は生まれない。
新月の日に闇の魔力に導かれて子供が生まれるとされていた。
だが、こちらではどうやら違うらしい。
丸々太った月がにこにこと自分の影を照らす様を物珍し気に眺めていると、家の方で悲鳴が聞こえた。
「いやああああ!!」
その声に、ベヒモスは今日の報酬として組合長に貰った芋を落としそうになる。
慌てて家の中に駆け込めば、産婆と数人の女性に囲まれたチヨが目に入った。
「チヨ!」
「ああ、良かった! 丁度良いところに帰ってきたさね。ほら、奥さんの手をちゃんと握っておやり」
女性たちの合間を縫って顔を見せたのは、今朝方ベヒモスに話しかけてきた老婦人だった。
「これは、一体……」
「言っただろう? 今日は満月だ。産気づいても不思議はない、が。急に苦しみだして、アンタの名前を呼んで喚くもんだから、若い衆にアンタを探しに行かせようかと思ってたとこさ」
「そ、そうでしたか」
すみません、と家の中に居た女性たちに頭を下げれば、彼女たちは笑顔で首を横に振った。
「いいのよぉ。チヨちゃんにはいつもうちの子たちが勉強教えてもらっているし、気にしないで頂戴な。生まれたら、教えてね。みんなで精の付くもの持ってくるからさ」
「ありがとうございます」
もう一度、頭を下げると彼女たちはチヨに「頑張ってね」と手を振って各々の家に帰っていった。
「ただいま、チヨ」
額に汗を滲ませ、身悶えているチヨの姿にベヒモスは唇を噛んだ。
ぷっくりと膨れ上がった腹は今にも破裂してしまいそうで、触れても大丈夫なのかと一瞬戸惑う。
「お、かえり、ベヒモス」
さっきまで悲鳴を上げていた人物と同じ人物だとはとても思えないほど穏やかな声で、チヨが笑った。
産婆と老婦人がにこにこと顔を見合わせたのも束の間、チヨがベヒモスの手を握って、再び苦悶の叫びを発する。
「ああああああああああっ……!!!」
額に浮かんだ汗が大粒のものに変わる。
ベヒモスの手に血が滲んだ。
だが、彼は手の痛みなどお構いなしに、チヨの手を握り返す。
「頑張れ、頑張れチヨ!」
「うううあああ!!」
「チヨさん、一度深呼吸なさい。そう、ゆっくり吐いて~。上手よ~」
産婆の問いかけに、チヨはゆっくりと落ち着きを取り戻し始める。
ふー、ふー、と長い息の後に、産婆が叫んだ。
「いきんで!!」
「んんーーーっ!!」
「頭が出たわ!! 肩が出れば、もう少しよ!! チヨさん!!」
痛みのあまり、チヨは唇を噛んだ。赤い血が、顎を伝ってシーツに落ちる。
瞼を閉じれば、自分の鼓動ともう一つの鼓動が重なって聞こえてくる。
――生まれる。
「おんぎゃあ!! おんぎゃあ!!」
大きな泣き声が家を振動させる。
「可愛い女の子ですよ。チヨさんに似た綺麗な瞳をしているわ」
身綺麗にされた赤子を見て、チヨは泣いた。
ずっとチヨの手を握っていたベヒモスも、赤子がチヨの隣に寝かされたのを見て、その場に崩れ落ちる。
「さっきの若い衆と何か食べやすいものを作ってくるよ。ゆっくりしてな」
「私も後片付けが済んだら、脈拍を測って帰りますね。何かあったら、いつでも呼んで頂戴」
「はい、ありがとうございます……」
少しだけ頬がこけてゲッソリとしたチヨに代わってベヒモスは二人に頭を下げた。
出産後の気怠さが残っているのか、先程から一言も言葉を発さないチヨの手をベヒモスは優しく包み込んだ。
「……ありがとう、チヨ。よく頑張りましたね」
「え、ええ」
「チヨ?」
チヨの目はベヒモスを見ていなかった。
生まれたばかりの娘をじっと凝視して、視線を動かそうとしない。
「どうかしたのか、チヨ?」
「……ごめんなさい。ごめんなさい、ベヒモス」
さめざめと涙を零すチヨの姿に、ベヒモスは瞬きを落とした。
「どうしたのだ。何故、泣いている?」
「この子は、私と貴方の子。だから、アリスの環から抜け出せると思ったの。でも、駄目だった」
「……どういうことだ」
「私たちアリスの血を受け継ぐ者は女しか産めない。初代魔王ルーシェルの呪いによってそう造りかえられてしまった」
チヨは己の手に浮かんだ紋をベヒモスの前に翳す。
「私は十三番目のアリス『魔女』。そしてこの子は十四番目のアリス『生贄』として選ばれてしまった」
アリスはルーシェルが愛した女性だった。
彼女はルーシェルを裏切って、自分が作った始まりの人間と契りを交わし子供を産んだ。
けれど、子供は一人しか出来なかった。
ルーシェルがアリスに呪いを掛けたからだ。
『密約を破ったお前には災いを与えよう。子供は皆、娘しか生まれずそれぞれに呪いを刻む。お前から数えて十四番目のアリスが生まれたとき、私は再びお前の前に現れ、眼前でその娘を食らってやる』
これが最古に記されたアリスの記録。
教会の古い文献でそれを知ったチヨの母は、子を成すことを酷く嫌がったらしい。
チヨの母の呪いは『星』。未来を先見出来る能力を持った人であったため、子を成せば自分が死ぬのを見てしまったのだろう。
結局神父に強姦されて子を成した彼女は、チヨの魔力に焼かれ、悲痛な最期を遂げた。
「……ごめんなさい。魔族との間に出来た子なら、呪いは発動しないと思ったのに」
乳を求めて泣く赤子を見て、チヨは流れる涙を止められそうになかった。
「呪いは、いつ発動するんだ」
「分かりません。私のように生まれてすぐ発動する場合もあれば、数年後突然発動する場合もあります」
「では、私と貴女でこの子を守れば良い」
「え?」
ベヒモスの手がチヨの涙を拭う。
「ご初代様だろうと、聖騎士だろうと、この子は私が必ず守ってみせよう」
「ベヒモス」
「もちろん、貴女のことも」
私が守るよ。
ベヒモスの言葉に、チヨの眦から滝のように涙が溢れた。
しとどに自分の服を濡らす彼女を、ベヒモスは力強く抱きしめた。
「共に守ろう」
「はいっ」
満月の夜、浅黄色の髪をした美しい女の子が生まれた。
彼女の目は、母と同じ金色。
笑うと父によく似た綺麗な娘だった。
「……娘が生まれたようですね」
水晶越しにチヨの姿を見つけ、男は愉悦に染まった目で笑った。
「ジグ。アレを捕まえてきなさい。『生贄』のアリスがこちらの手中にあると知れば、魔王軍は必ず現れるはずです」
「はっ」
ジグ、と呼ばれた少年は男に深々と頭を垂れた。
しゃがれた声で笑う男から水晶を受け取り、唇に弧を描く。
「待っていろ、俺の女神」
水晶に口付けたジグの瞳は、恍惚に溶けて煮詰めた金色に染まっていた。
子供が生まれてからチヨの表情は明るくなった。
塔を出てから、どことなく不安そうだった彼女が見せた柔らかい笑顔にベヒモスもつられて笑みを零す。
「向かいの奥方がこれをチヨに、と」
蜂蜜がたっぷり掛けられたパンケーキを片手に帰宅したベヒモスに、チヨは歓声を上げた。
「まあ、とっても美味しそう!」
「君が以前食べたことがないと言っていたのを覚えてくれていたようでね。作り立てだから、冷めないうちに食べてしまおう」
「ええ!」
きらきらと星の瞬きのように輝いた笑顔で皿を準備し始めたチヨの後姿を見送ると、ベヒモスはベッドで眠りにつく我が子の頬に触れた。
「ただいま、姫様」
「うーあー」
「ふふっ。今日も元気だな」
「うー!」
ベヒモスに頬を撫でられてご機嫌になったのか、娘は嬉しそうに声を立てて笑う。
そんな我が子の様子にベヒモスは満足そうに頬を緩めると、最後に娘の髪を一撫でしてチヨの後を追った。
二人の生活から、三人の生活に変わって、穏やかな生活に慣れた頃。
それは静かな日常を壊しにやって来た。
魔界と人間界を繋ぐ扉が、二人の住む港町で開いたのである。
流れ込む魔王軍とそれを押し返そうとする聖騎士団との戦闘で、穏やかな町は一夜にして地獄と化した。
「チヨ……!!」
漁に出ていたベヒモスは町を覆う煙に気が付いてすぐに町へと引き返した。
船を繋ぐこともせず、慌てて家の方に向かう。
(無事でいてくれ!)
赤い屋根が目に入る。
燃え盛る炎が小さな城を襲っていた。
「チヨ!!」
「ベヒモスッ!!」
奥の窓から逃げ出そうとしているチヨを見つけ、ベヒモスはそちらに駆け寄ろうとした。
だが、二人の間を引き裂くように柱が倒れてくる。
もう少しで腕が掴めそうだった。指先が掠ったことに、ベヒモスは苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「そちらに回り込む。裏の森で会おう」
「ええ!」
窓からチヨが外に出るのを見て、ベヒモスも入ってきた扉から再び外に出た。
二人が出るのを待っていたかのように家が炎に飲み込まれる。
二つ隣の家の脇道を抜けて裏の森に出ると、聖騎士に囲まれているチヨが視界に飛び込んできた。
「チヨッ! 頭を下げろ!」
近くに転がっていた大木を拾い上げ、聖騎士に向かって放り投げる。
ドガッと鈍い音を立て、大木は聖騎士に命中した。
その隙を衝き、チヨの手を取って走り始める。
「何故、彼らがここに!?」
「分かりません! 魔界への扉が開いたので、共に来いと、そう言われました!!」
どうやってチヨの居場所を突き止めたのかは分からなかったが、今はそれを考えている余裕はない。
チヨの言葉で魔界への扉が開いたことを確信した。
町を覆い、燃え盛る炎は魔界の業火。まさかとは思っていたが、子供が生まれてから僅か数日で待ち望んでいた扉が開くとは夢にも思っていなかった。
「とにかく、扉の方へ向かいましょう。運が良ければ、同族に出会えるかもしれない」
こくり、とチヨが頷くのに、ベヒモスは彼女の腕の中で眠る娘に笑いかけた。
「すまない。少し煙っぽいが我慢してくれよ」
「あー」
ふふ、とチヨが笑う。
「どうした?」
「いいえ。こちらの言葉を理解しているように声を出すのが可愛くて」
「そうだな」
こんなときでなければ、チヨを抱きしめて笑うことも出来た。
だが、今は素直に我が子の成長を喜ぶことも出来ない。
「行こう。魔力の集まりが多い場所に扉があるはずだ」
「はい」
二人はゆっくりと歩き始めた。
煙が覆う町を低い姿勢で、黙々と進んでいく。
やがて、ベヒモスが船を乗り捨てた港まで辿り着くと、そこには悲惨な光景が広がっていた。
「……チヨ、少し離れていてください」
ベヒモスの声が硬い。
チヨは静かに頷くと、彼から距離を取った。
魔族の戦士たちが殺した聖騎士の首を数えながら、港に並べている。
その中に見知った顔を見つけ、ベヒモスはローブを脱いだ。
「ベルゼブブ」
「……ベヒモス様?」
深緑の髪が潮風と煙に煽られ、青年の顔を晒す。
モノクルを付けた精悍な顔つきの青年が驚いた表情でベヒモスを見ていた。
「君が今回の隊長か」
「はい。本来であればマモンやレヴィが出撃する予定だったのですが、二人は貴方の擁護をした罪に問われ、代わりに私が」
「……では、私が王を殺したことになっているのか」
「恐れながら、貴族院はそのように決着をつけようとしております」
「……」
分かってはいたことだった。
容疑者であるシュラウドを取り逃がしたうえ、姿を眩ませた自分を貴族院が犯人に仕立て上げるのに時間は掛からなかったはずだ。
同族殺しは魔界で最も罪が重い。
矢面に立たされている妹や部下のことを思うと、目頭が熱くなった。
「一人、連れて帰りたい者が居るのだ。私のことはどうしてくれても構わない。だから、共に扉を潜らせてはくれないだろうか」
「分かりました。それでは、準備が出来ましたらお呼びいたします」
「ああ、助かる」
再びローブを被ってチヨの元に戻ろうとしたベヒモスをベルゼブブは呼び止めた。
「この辺りは聖騎士が多い。お気を付けください」
妖しく笑った彼のその表情に、ベヒモスの背中を冷たい汗が伝う。
「チヨ……!」
チヨと別れた脇道まで戻るも、そこにチヨの姿は無い。
「貴様、まさか!?」
「奥方と娘殿は、ご無事ですよ。まだ、ね?」
「ベルゼブブ!!」
「貴方に全てを語られると面倒なのです。二人を殺されたくなければ、大人しく濡れ衣を着てください」
「このっ!!」
ベヒモスの周りを黒炎が舞う。
ベルゼブブはそんな彼の様子を見て嘲笑した。
「おや、良いのですか? こんな魔力が溜まった場所でその技をお使いになって」
「何?」
「奥方がどこに居るとも知れないのに。巻き込むとは思わないのですか?」
ベルゼブブの銀色の睫毛が風に揺れる。
妖しく光った蒼い目がベヒモスを射抜いた。
「さあ、閣下。大人しく扉を潜ってくださいますね?」
「っ!!」
いつの間に現れたのか、魔界へ繋がる黒塗りの扉が口を大きく開けて鎮座している。
生温い魔界の風がベヒモスの頬を撫でる。
あんなに焦がれた故郷の風だというのに、微塵も嬉しく感じないのはここにチヨが居ないから。
「すまない、チヨ。許してくれ」
まだ、名前の無い我が子よ。
共に歩めない父をどうか許してほしい。
そして、君の母を父の代わりに守ってやってくれ。
黄昏色のベヒモスの眼から雫が零れる。
小さな小さな彼の悲鳴は、暮れの空に飲み込まれていく。
いつか二人で見た夕闇が脳裏を刺激した。
「チヨ!!! いつか必ず、迎えに行く!! だから、待っていてくれ!!」
暴牛の叫び声は空を劈いた。
聞き慣れた声が、空を突き刺す。
「……ええ、ええ。待っていますとも。貴方が迎えに来てくれる、その日まで。私はこの子を立派に育てて待っていましょう」
「うー」
「待っているわ、ベヒモス」
娘の浅黄色の美しい髪を撫でて、チヨは笑った。
その周りには屍と化した聖騎士の残骸が転がっている。
「参りましょう、聖子。大聖人がお待ちです」
赤い剣を携えた少年を、チヨは鋭い目で睨んだ。
「黙りなさい。この子に汚らわしい声を聞かせないで」
流星を閉じ込めた瞳が少年を突き刺す。
カラカラと少年の笑う声が赤く染まった空に響き渡った。
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