十、アリスの子ら
「
チヨは声の方を一瞥して相手を確認すると、面倒くさそうに席から立ち上がった。
「貴女がここに来られるのは珍しいですね、
「相変わらず愛想のない子ですこと。西の森で魔族が確認されたそうです。大聖人はこの件を貴女に任せたいと仰っています」
「……大聖人の御心のままに」
「分かっていると思いますが、『いつも通り』何も痕跡を残さないように」
女はそう言って不機嫌を隠そうともせず、乱暴にドアを閉めて出ていった。
己の足に装着された枷がじゃらり、と音を立てるのにチヨの顔が曇る。
生まれ持った高い魔力の所為で外界から遮断されたチヨは、聖アリス教会が管理している塔で生活していた。
幼い頃から魔力の扱い方――魔法と呼ばれるものを教えられてきた彼女が外に出られるのは魔族が人間界に現れたときだけ。
本来であれば魔族にしか扱えない魔力を持つ彼女は、対魔族用の兵器として教会に重宝されていた。
グッと握りしめた手は、震えてこそいなかったが、これから自分が行うことを思えば、指先が白く染まった。
窓を叩く雨粒の音に、チヨの機嫌は更に降下する。
『いつも通りに』
それはつまり、辺り一面を焼き払えということだ。
チヨはその命令が嫌いだった。
教会の教えでは、魔族が降り立った地面は腐り、二度と生命を育むことはないとされている。
だが、チヨは見てしまったのだ。
チヨが殺した魔族の死体から花が咲くところを、見てしまった。
腐るどころではない、彼らの身体は魔力で溢れている所為か、そこだけ花の育ちが他よりも良かった。
死して尚、世界に色を残す様はとても美しく思えた。
ジッと、かつてその死体を見た場所、これから向かう森の方へ目を凝らしていると、扉がノックされる。
「……失礼します」
赤い甲冑を纏った騎士が二人、部屋の中に入ってきた。
足枷の鍵を外されるこの瞬間が、チヨは何より好きだった。
軽くなった足首を撫でていると眼前に白いローブが差し出される。
「外は冷えますので、大聖人からこれをお預かりしました」
彼らの腕には白で統一された衣服が持たれていた。
無言でそれを受け取り、着替えようとしたチヨに、二人の騎士は慌てて部屋から飛び出していく。
白い薔薇の刺繍が施されたそれは、聖アリス教会に所属する者の証。
鏡に映った白装束を纏った自分を見て、チヨは吐きそうになった。
魔族は敵。
幼い頃からそう教えられてきた。
だが実際はどうだろう。
チヨが殺してきた魔族は皆一様に涙ぐんで命乞いをした。
魔界に家族が居るのだと、最後の声は決まってそれだった。
殺した人数が二桁になった頃、チヨはあることに気が付いた。
いつだって先に攻撃を仕掛けるのは自分たち人間で、魔族(かれら)はそれに応戦しているばかりだ。
チヨがそれを問うても、上層部はだんまりを決め込むばかりか、兵器のお前に知識は必要ないと、唯一の楽しみであった読書を取り上げられてしまった。
(魔族は絶対悪。それなら、彼らにとっての悪は私だわ……)
何の罪もない魔族をたくさん殺した。
そして、また今日も殺そうとしている。
曇天の空は、チヨの心を映したように重く暗い影をたなびかせていた。
――バシャッ。
肌に張り付いた衣服が気持ち悪い。
べったり、と血の滲む下腹部に、ベヒモスは舌打ちを落とした。
川に落ちてから三日。
帰路を探して彷徨っていると、運悪く人間界に繋がる入り口を通ってしまった。
新月に複数現れるあちらとこちらを繋ぐ入り口は、一度通るとすぐに元通りに閉じてしまう。
魔力の渦で造られた道を通った所為で体中のあちこちが軋むように痛い。
その上、出た場所が再び川の中という何とも最悪なシチュエーションに、ベヒモスの疲労は限界に達していた。
普段より重く感じる空気に、傷口がズキズキと痛む気がしてならない。
「……そうか、ここは魔力が濃いのか」
周りを見渡すと、幾つもの木々から光が溢れていた。
ベヒモスが背を預けている大木も例外ではなく、甘い匂いを放ちながら温かな光で彼を優しく包み込んだ。
魔界樹によく似たそれは、魔力を放出しているのだろう。ゆらゆらと陽炎に似た光が、妖しく瞬いていた。
光のお陰か、気が付くと不思議なことにしとどに濡れていた衣服はいつの間にか乾いてた。
開きかけていた傷口も何とか塞がっており、もう少し休めば歩くことも出来そうだった。
肌に残る傷を見て、ベヒモスは顔を顰める。
シュラウドが剣に貫かれたあのとき。
彼はベヒモスの目を見て、小さく呟いたのだ。
『白薔薇……ど、うして……』
血の涙を流して事切れた彼は、酷く悲しそうだった。
親を探して彷徨う子供のような、そんな顔をして川底に沈んでいった彼が頭から離れない。
「この辺りで見かけたのですか?」
「はい。角のある大きな男の魔族だったそうです」
ふと、誰かの話し声が風に乗って流れてくる。
一人は女。もう一人は男の声だ。
会話の内容から察するに、二人は自分を探しているようだった。
(……教会の人間か)
聖アリス教会。魔族を絶対悪とする彼らは、特殊な武器を用いて魔族を殺すと聞いたことがあった。
鋼の如く硬い防御魔法を誇る魔王を殺せる術があるならば、それは彼らが扱う武器しか考えられない。そう思って、人間の貿易商と関りがあったシュラウドを問いつめたのだが、その前に彼は殺されてしまった。
確かめるには彼らが武器を使用するところを見なければならない。
傷を負っている今は、普段通りに動ける自信が無かったが、この機会を逃せば次にいつ人間に出会えるのかも分からなかった。
ベヒモスは暫く思案すると、意を決して立ち上がった。
わざと、物音を立てる歩き方をして、開けた場所に向かって急ぐ。
「待ちなさいッ!!」
思惑通り、人間たちがベヒモスの後を追って、姿を見せる。
だが、その姿を見てベヒモスは固まった。
白いローブとワンピースに身を包んだ可憐な少女が、息も絶え絶えに己が前に立ち塞がっている。
肩で息をするその少女の両隣には、赤い甲冑を纏った騎士が二人。彼女を守るようにして剣を構えていた。
その剣には、白薔薇の紋章。
間違いない。ベヒモスは彼らが教会の人間であると、確信を持った。
だが、何故こんな可憐な少女を連れているのか分からず、僅かばかりに眉根を寄せる。
「貴方がこの森を徘徊していた魔族ですね」
「好きで徘徊していたわけではない」
「ここは我らの聖域。穢れを持ち込んだ貴方を生きて返すわけにはいきません」
「ほう? 面白いことを言うレディだな。出来るものなら、やってみたまえ」
ベヒモスはそう言って笑うと、空間に指で十字を描いた。
くぱり、とまるで生きているかのように空間が口を開いたかと思うと、三人を熱風が襲う。
「魔界の業火だ。触れたら最後、骨も残らんよ」
指で彼らを狙うよう、空間から現れた黒い炎に命じると、どういうわけかそれはベヒモスに向かって襲い掛かってきた。
「何?!」
「生憎ですが、この程度の魔法で私は倒せません」
「人間の分際で魔法を使えるとは――ますます面白い」
女の指が、ベヒモスの召喚した炎を巻き取って鎮火させる。
ふう、と指に纏わりつく煙を吹き消す女に、ベヒモスはにやりと笑みを深めた。
「なら、これはどうかな?」
ベヒモスの目が赤く光る。
少女の両隣に居た騎士が、呻き声を上げた。
「う、うわああ!! か、身体が勝手に!!」
「聖子! お逃げください!」
ぶんぶん、とまるで素人のように剣を振り回す人形と化した彼らに、少女の顔が嫌悪と焦りに染まった。
「趣味が悪いですね」
「お気に召したようで嬉しいよ」
踊るように騎士の攻撃を躱しながら、こちらに向かってくる少女にベヒモスは笑った。
己に近付いて騎士をぶつけようという算段らしい。
背中に隠していた大剣を取り出す。
ぶん、と力任せに振るったそれは弧を描いて、二人を遥か彼方に打ち上げた。
「……さて、レディ。その魔力を込めた指輪を下ろして、私と話をする気になったかな?」
「っ!?」
「それとも、無理矢理それを外してほしいのか?」
騎士たちが飛ばされたのを見て、瞬時にベヒモスの背後に回った彼女に、ベヒモスはにっこりと笑いかける。
「外せば、他の騎士がやってきますよ?」
「では、外さずとも結構。質問に答えてくれたら、解放しよう」
ベヒモスは少女に座るよう顎で示すと、自分もゆっくりとその場に腰を下ろした。
恐る恐る、と言った風に地面に座った彼女の仕草が可笑しくて、気付かれないように小さく笑みを零す。
「単刀直入に聞く。白薔薇の剣を扱える者を知っているか」
「白薔薇の剣? それは『聖剣』のことを言っているのですか?」
「名称は知らんが、刀身に薔薇の細工がしてあった」
「ならば、それは聖剣と呼ばれるもの。我らの中でも限られた人間しか扱えません」
「例えば?」
「それは……」
少女は明らかに動揺していた。
魔族が何故剣のことを知っているのか、と顔にありありと書かれている。
「我が王が殺されたのだ。幼い若君が私の目を盗んで遺体を見たときには、肝を冷やした」
「……」
「父上、父上と泣き叫ぶ彼を見て、胸が張り裂けそうだった。あげく、王を手に掛けた者がその印が描かれた剣に刺され、死んだ。だから、何としても真犯人を見つけ出し、若君に無念を晴らさせてやりたい」
ベヒモスが、頼むと小さく呟くと少女が深い溜め息を吐き出すのが分かった。
「聖人ジグが聖剣の担い手に任命されたと聞いたことがあります」
「その男に会わせてほしい」
「出来ません」
「何故?」
「……先程、見たと思いますが、私は教会で唯一魔法を扱える人間。こうして魔族を退治するときにしか外に出ることを許されていないのです」
「ならば、どこに行けばその男に会える」
「もし会えたとしても、出会い頭に殺されるのがオチです。彼ほど魔族殺しに長けた者を私は知りませんから」
物騒な言葉に、ベヒモスの片眉が上がる。
「彼は魔王軍がこちらに来るのを楽しみに待っています。新月の日ならば、会うことも出来るかと思いますが……」
「なら、新月の日まで私を匿ってほしい」
「はあ!?」
「出来ないと言うならば、今ここでその喉を掻っ切るだけだが、どうする?」
嫌われ者同士仲良くやろう。
そう嫌味を零せば、少女の綺麗な顔が苦痛と嫌悪で歪んだ。
前を歩く男の姿に、チヨは不快だと言わんばかりに重い溜め息を吐き出す。
のそのそと、まるで熊のように大きな身体を揺らして歩く彼からゆっくりと視線を逸らすと、大木の枝に先程飛ばされた騎士たちがぶら下がっているのが目に入る。
「あ、」
「どうした?」
男がチヨの視線を辿って、男たちを見つける。
「助けた方が良いのか?」
「……いいえ。どちらでも構いません。替えなら山ほど居ますから」
そう冷たく言い放てば、男の顔から色が失われた。
白く染まった彼の顔を、チヨは黙ったまま見つめる。
何かおかしなことを言ったのだろうか。
首を傾げたチヨに、男は片手で顔を隠す。
「……かわいそうな人だな、君は」
「?」
「いいや、何でもない。気にしないでくれ」
これ以上は何も言うな。
男は少しだけ低くなった声でそう言うと、先程よりも少しだけ早足になって先を行き始めた。
それから約一時間。
チヨの暮らす塔に二人はやって来た。
白いレンガで造られた塔からは、生活感が感じられず、男はチヨと塔を見比べて「そう言うことか」と聞こえないほど小さな声で呟いた。
「レンガには触れない方が良いです。魔力封じの呪いが掛けられているので」
チヨは唯一の出入り口である真っ赤な扉を開くと、男を中へ促した。
「……何もないところですが、どうぞ」
「……愛想の欠片もないな」
「貴方に愛想を振りまいたところで、何か見返りがあるとは思えませんので」
匿うこと自体が本意ではないのだ。
じろり、と男を睨むと、チヨは階段をゆっくりと上り始めた。
「ここには滅多に人は来ませんから、好きに寛いでください。ただ、上には決して上がってこないように」
「分かった」
男は二つ返事でそう答えると、一階の物色を始めた。
その音を背中にチヨは自室の中に入る。
「何だか妙な気分だわ」
殺すはずの相手を自らの城に招くだなんてそんなおかしなこと、以前の自分なら考えられなかった。
あの日見た、花を咲かせた遺体が脳裏にこびりついて消えてくれない。
もう誰かを殺すのは嫌だ。
全身に染み込んだ血の匂いに、吐き気が喉を刺激する。
(あの人を殺さずに済んで、良かった)
へたり、と床に沈んだチヨの横顔を、沈み始めた夕日が優しく照らしていた。
男の名はベヒモスと言うらしい。
王の側近の一人であり、最後に王と会話したのが自分だったのだと彼は語った。
「……失礼でなければ、貴女の名前を聞いても?」
男は半ば脅しのような形でチヨに自分を匿うように言ったにも関わらず、恐る恐ると言った風な感じでそんなことを言うので、チヨは瞬きを繰り返した。
森で戦ったときの強気な彼はどこに行ったのだろう。
必死で笑いを堪え、ベヒモスに向き直ると彼は不思議そうに首を傾げていた。それがまた、チヨのツボを刺激してしまって、遂には笑い声が唇から溢れてしまう。
「あははは! だめ! もう堪えられないわ!」
「な、にを笑って……」
「だって、可笑しくって! さっきまで物騒な言葉を並べていた人と同じ人には到底思えないもの!」
ふふ、と桜色の唇を震わせて笑うチヨにベヒモスは少しだけ唇を尖らせた。
「そんなに笑うことではないと思うのだが」
「あら、怒ったの? ごめんなさい。誰かと話すのが久しぶりだから楽しくて。ついはしゃいでしまったわ」
「……っ」
「そうそう、名前だったわよね。私の名前はチヨ。よろしくね、ベヒモスさん」
わざとらしく、さん付けで名前を呼べば、彼の顔は嫌そうに曇った。
「貴方、顔に出やすいって言われない?」
「……妹から」
「ふふ。やっぱり」
粉雪のように白い肌に薄っすらと赤みが差す。
絵画に描かれた天使のように可憐な笑みに、ベヒモスの心臓があられもない音を奏で始める。
ふるふる、と首を横に振ってそれを掻き消そうとすれば、またチヨの笑い声が塔の中に響き渡った。
新月が来ても、魔王軍は現れなかった。それどころか、魔界と人間界を繋ぐ境界が開いた気配が全く感じられず、チヨとベヒモスは互いに顔を見合わせて首を捻った。
「こんなことは初めてだ。新月の日には境界は必ず開くと思っていた」
「ええ。私もです。一体何が起こっているというのでしょうか」
眉根を寄せて考え込むベヒモスに、チヨは窓の外、暗闇に浮かぶ宝石たちを見上げた。
うっすらと申し訳なさそうに顔を見せた月に溜め息が零れる。
「憎たらしいほどに、美しいな」
「そう、ですね」
触れた窓ガラスは冬の空気を吸って、酷く冷たかった。
ふと、手元に影が落ちた。
見上げれば、ベヒモスが興味深そうな顔をして、窓の外に目を凝らしている。
「こちらの空には、星が浮かぶのか」
「……貴方の国では違うのですか?」
チヨの問いに、ベヒモスは素直に頷いた。
一月ほど生活を共にすれば、互いのことは多少把握できた。
普段であればこちらが話しかけても、滅多に言葉を返さないチヨがベヒモスの何気ない一言に興味を持った。それはつまり、その話をしろということなのである。
くふ、と小さく笑い声を漏らすと、ベヒモスは己が故郷の空を思い浮かべた。
真っ暗な海が穏やかに流れる様は、宛ら母の胎内に居た頃を思わせ、雄大な世界を感じさせられる。
「我らの世界では、空は地面に地面は空に。波間の空が広がっている」
「波の空……」
「朝は澄んだ光を放ち、夜には優しい闇を連れてくる。私は、黄昏時の空が一番好きだ。こちらの世界の夕日もそれは美しいが、故郷のそれとは比べ物にならない。薄紫の波が太陽を飲み込み、ゆっくりと夜を吐き出す。揺れる波の中で太陽が唸りを上げている様は何より美しい」
瞼の裏に浮かぶ情景に、ベヒモスは眦を和らげた。
どくり、と心臓が高鳴るのに、チヨは忙しなく瞬きを繰り返す。
冷たい窓の温度が心地良かった。
火照る肌を冷やすのに、額を窓にぶつけているとベヒモスが不思議そうに顔を覗き込んでくるのが分かった。
存外に近いその距離に、思わず上擦った声が漏れ出る。
「うあ、な、何です!?」
「いや、熱でもあるのかと」
「あ、ありません!」
近い、とベヒモスの胸を叩けば、彼はカラカラと乾いた笑い声を出してチヨの手首を握った。
「ふふ。すまない。貴女の反応が面白くて、つい」
「もう!」
再び振り下ろしたもう一方の腕も、抵抗間もなく掴まってしまって、チヨは睨むことしか出来なくなってしまう。
「……細いですね」
「っ!?」
「今にも折れそうだ」
グッ、とベヒモスが力を込めるとチヨの手は少しだけ赤みを増した。
「離してください」
自分でも思っていたより小さな声が出て、カッと頬に熱が上がる。
「私はね、耳が良いんです」
「え?」
「時折やって来る連絡係の騎士が、貴女の部屋で何をしているのか――」
「やめて!!」
チヨはベヒモスの腕を勢い良く振り払おうとした。
だが、そこは男と女。そして、人間と魔族の差が災いした。
握られている手はビクともしない。
それどころか、握る力が余計に込められてしまって、チヨの肌は仄かな桜色から白く変化した。
「私の世界では、女性は最も尊ぶべき、守るべき存在です。皆、母に抱かれて生まれてくるのですから。次代の母になる彼女たちを汚そうだなんてこと、絶対に思わない」
「…………」
「チヨ」
ベヒモスの橙色の目が、窓ガラス越しに夜を吸い込んで薄紫を灯す。
綺麗だと思った。
彼の瞳に映る自分が酷く汚い物のように思えて、唇を噛む。
「私は、忌み子だから」
「忌み子?」
「ええ」
チヨの身体から力が抜けたのを合図に、ベヒモスは彼女の腕を離した。
そっと、窓枠に腰を下ろしたチヨの顔は、長い髪に隠れて見えない。
震える指先が、ベヒモスに伸ばされるのに、彼は優しく彼女を抱き込んだ。
「泣いてはいけないと、思っていました」
「ここには、私しか居ないのに?」
「ふふっ」
くすくす、と笑う彼女の眦を銀の雫が伝う。
顎を伝って落ちたそれは、ベヒモスの肩に染みを作った。
「聖女アリスの伝説を知っていますか?」
「始まりの女神アリスですね」
「ええ。私はそのアリスの末裔と呼ばれる家系に生まれました」
――聖女アリス。
原初の女性にして、人間の母。
堕天使ルーシェルとの間に、始まりの人間を造ったと言われている。
「聖アリス教会は、彼女を崇拝する人々によって造られた教会です。彼女の子供たちは決まって特殊な力を持って生まれました。教会の幹部たちは私たちを『アリスの子ら』と呼んで、彼女の死後、次代のアリスとして祀るようになりました。私は十三代目のアリスで、魔力を持って生まれた所為で先代のアリス、自分の母を殺してしまったのです。教会が一番罪深いとする禁が『親殺し』。生まれてすぐにその禁を破った私を、彼らは忌み子と称してこの塔に軟禁しました」
チヨの手が魔力を封じる呪いが込められている所為で白く変色したレンガに触れる。
バチッ、と鈍い音が響いた。
赤くなったチヨの手を、ベヒモスが掴む。
「誰からも愛されない私を憐れんで、大聖人が月に数度人を寄越すようになったのが二年前。身体の関係を求められるのに時間はかかりませんでした」
「それは……」
「事実上の性欲処理です。男所帯の中で、人里離れた塔に住む女は都合が良かったのでしょう」
背中に回るベヒモスの腕が痛かった。
みしり、と骨が軋む音に、チヨは眉間に皺を寄せる。
「痛いです」
「すまない。もう少しだけ、このまま」
ベヒモスの低い声に、チヨは触れられている個所から熱が上がるのを感じた。
とくり、とくり、と伝わってくる彼の心音に、心地良さを感じて思わず目を細める。
今までは触れてくる男たちには不快感しかなかった。
熱い男の指先が冷えた身体の上を這う度に、吐き気を催していた。中を抉られる感触が一層吐き気を助長させて、最中に吐いたことも少なくない。
「……失礼。男と身体を密着させるのは嫌でしょう――チヨ?」
ベヒモスが身体を離そうと、チヨの背中から腰に手を移すと彼女はそれを咎めるようにベヒモスの胸に額を預けた。
「ベヒモス、」
チヨがゆっくりと顔を上げる。
金色の美しい眼に水が張っていくのを、ベヒモスはじっと見つめることしか出来ない。
「痛いんです」
ここが、とチヨがベヒモスの腕を導いたのは、彼女の心臓の上。
激しく脈打つチヨの鼓動に釣られて、ベヒモスの頬は熱を孕んだ。
「たすけて」
小さく呟かれたチヨの言葉を掬い上げるように、ベヒモスは彼女の痩躯を抱き上げて唇を塞いだ。
甘い唾液が咥内を満たす。
ぷは、と先に息を吐き出したチヨの目は、どこか満足そうに、そして、幼い子供のように揺れていた。
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