わたしには、優秀な兄貴がいた。だから今までは、そんな兄貴の影に埋もれるようにして、波風立てずに生きてきた。だけど兄貴は去年、乗用車とバイクの衝突で事故死した。突然の出来事に、わたしより衝撃を受けたのは両親のほうだった。

 その衝撃から立ち直った時、あの人たちは漸くわたしに目を向け始めた。でもその態度は、わたしの期待していたものとはちょっと違った。今まで幾度、親の関心を引きたいと願ったか知れない。だけど、わたしが欲しかったのは、決してあんな視線じゃなかった。

 兄貴はわたしにとって、唯一の心の拠り所だった。誰もわたしに見向きもしない中、兄貴だけは、わたしの味方でいてくれた。わたしのことを理解して、寄り添ってくれた。ブラコンって蔑まれても、しょうがないと思ってる。そんな優しい存在を亡くしたわたしに待っていた、この仕打ち。正直、心が悲鳴を上げそうだった。

だからわたしは、せめてもの自己防衛策として、無難に物事を進めることを覚えてしまった。面倒を掛けなければ、親からだって嫌われない……そう信じて、本心を押し殺して、今回の内部進学だって選んだ。たとえ、自分の意に沿わないものだったとしても。

「! アンタは……」

 兄貴のことについてつらつら考えながらの帰宅途中、最寄駅で電車を降りたところ、改札口で、今最も見たくないと言っても過言ではない人物と、バッタリ鉢合わせてしまった。

 森本冴子さん。兄貴の彼女だった人だ。容赦のない瞳でこっちを睨みつけてきている。だけどわたしは、怯むことも忘れて、その瞳を見つめ続けた。

「アンタみたいな不良娘のせいで、冰絽斗は死んだのよ」

 冴子さんはまっすぐにこちらへ向けて口を開いた。そこには、兄貴が生きていた頃の親しげな雰囲気なんて欠片もない。あるのは、憎悪。わたしにこんな強い感情をぶつけてくるなんて人は、ある意味で珍しい。

「アンタが非行なんかしてるから……返して、冰絽斗を返せ!」

 そう吐き捨てるなり、冴子さんは改札とは反対方向へと駆けて行ってしまった。わたしに気が付くまでは、明らかに改札に向かって歩いていたのだから、恐らくどこかに出かけようとしてたんだろう。

(タイミング悪い時にかち合っちゃって、可哀想なことした)

 わたしはどこか他人事のようにそう同情した。それから、冴子さんが大声を出したことで何事かとガヤガヤしていた周囲に対して、軽くぺこりと挨拶しといた。

――大丈夫、喧嘩じゃないです。わたしが一方的に悪いんだから。

 そうすると次に、悲観的な考えが頭の中に充満する。

(不良? わたしが? 良い子にしてきたつもりなのに? ……そっか、わたし、悪い子なんだ。だから兄貴も死んだんだ)

 冴子さんの発言にどこか納得して、遭遇現場である駅を離れた。家までは歩いて十五分くらい。最寄駅は小高い山のような地形の場所にあるから、自宅に向かうには坂を降りるなり、階段を降りるなりしなきゃならない。わたしはお気に入りの帰り道の、いつもの白塗りの階段を降りようとした。すると、住居の山に沈もうとする夕日が見えて、そのあまりの眩しさに、思わず一瞬目を細めてしまう。同時に頭の中で、今までの色んな人とのやり取りがリフレインした。

――本当は、他にやりたいことがあるんじゃないの?

(違う、そんなことない)

――折角頭いーのにさぁ。

(違う、わたしは兄貴みたいになりたくて、追いつきたくて必死だっただけで。頭が良い訳じゃ、ない)

――国文科って、チョー合ってると思うー!

(違う、わたしが本当に、やりたいのは……)

――アンタのせいで!

(違う、わたしの、わたしのせいじゃ……!)

 そこまで考えて、わたしは思考を中断した。否、中断せざるを得なかった。

「え……?」

 突然、視界がガクンと落ち込んだ。気付いた時には遅かった。考えに耽る余り、どうやらわたしは、階段から足を踏み外したらしかった。

「あ……」

 途端に浮遊感に包まれる。だけど次の瞬間、わたしの心を支配したのは恐怖でも焦りでもなくて、酷く凪いだものだった。目前を車両が横切っていく……。

(あぁ……これで、兄貴のトコロに行けるのかな……)

 落ちていく中、わたしが考えたことといったら、そんなどうしようもないことだった。

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