5
梨咲が茜の撮影現場から逃げ出した時、辺りは既に薄暗い時間帯となっていた。秋の日は釣瓶落としというが、季節は早くも秋から冬へと移り変わろうとしている時期だ。日が暮れるのが早いのも、なるほど肯ける話だった。
だが今の梨咲には、そのような感慨に耽る余裕はなかった。目端に涙を浮かべたまま、一人夜の街を彷徨う。そう、確かに自分は一人だったはずだ。けれども彼女はふと気づいてしまう。自分と同じリズムで刻まれる足音が、いつからか二人分、聞こえてくることに。
アカネが追ってきたとは考えにくい。サワも同様だ。では、一体誰なのだろう? 振り返る勇気はない。逃げるように歩く速度を速めても、その足音はついてきた。そこで、梨咲は間違った選択をしてしまう。恐怖に気が動転するあまり、人気のないほうへと進んで行ってしまったのだ。
「あっ!」
しまった、と思うと同時に、足がもつれて転んでしまう。はずみでタイツの膝部分が伝線し、ぽっかりと丸い穴が開いてしまった。そこから見える流れる血が惨めに思えて、梨咲の目にはますます涙が込み上げてきた。だが事態は、そこで終わってはくれなかった。
「君、り、梨咲ちゃんだよね?」
暗がりに座り込む形になってしまっているため、声を掛けてきた相手の表情は逆光のせいでよく見えない。ずんぐりとした体躯の影と、今掛けられた声音から、恐らく男性であろうことはうかがえた。
「ぼ、ボク、すんごく、大ファンで、あの、こ、こんなとこで出会えたのも、運命だよね!」
男性は何やら一人で盛り上がっている。梨咲は自分の顔が売れてきていることを失念していた。ここまで素顔を晒して歩いてきたのだ、この男性でなくとも、自分が芸能人の【梨咲】であるということに気付いた人は何人もいただろう。男性はその中でも、【熱心な追っかけ】に分類される種類の人間なのかもしれない。
「は、はぁ~い、そうなの。ごめんね、みっともないとこ見せちゃって。ちょっと吃驚しちゃって」
梨咲はなけなしの矜持をかき集めて、なんとかプロとしての体裁を取り繕う。だが内心は恐怖に支配され、傷ついた脚はガクガクと震えていた。それほどまでに、男性の目だけが、ギラギラと異様に光っているのがわかったからだ。
「み、みっともないだなんて、そんなこと全然ないよ! むしろ、今日もとっても可愛くて、ボク、感激だよ……!」
言いながら、男性はだんだん梨咲のほうへと近寄ってくる。対して梨咲は、ジリジリと後退する。
「ナマの梨咲ちゃんをこんなに近くで見られるなんて、これも何かの縁だし、ボクたちきっと、仲良くなる星の下に産まれたんだね!」
感動しながら独自の意見を述べ、両手をこちらに伸ばしてくる男性。梨咲は「こ、これはヤバい人だ!」と思うも、足が思うように動かせないため、目を瞑ることしかできなかった。
そこへ、一陣の風が吹き抜けた。
ドサリという鈍い音とともに、その場に人一人分の存在感が増える。梨咲が恐る恐る片目だけを開くと、そこには倒れた男性と、男性を見下ろすサワの姿があった。
「き、木下さん……?」
「何をなさっているのか……貴女みたいなタイプの方は、このような傾向のファンがつくことくらい、想像に難くないだろう?」
ぽかんと口を開けて呆ける梨咲に、危機管理が足りない、とサワは苦言を呈す。ついでのように、倒れた男性の上半身だけ起こし、両脇に腕を通して建物の壁に凭れさせた。次に梨咲のほうへやってくると、その場に跪くような格好になる。怒られると思った梨咲は、再び両目を固く瞑って、身体をギュッと縮こませた。
「それではよく見えないだろう。こちらへ寄越せ」
何を、と問う間も与えず、サワは梨咲の片膝をグイッと引っ張って自身へ寄せた。それは、先ほど転んだせいで顕になり、血を流しているほうの膝だった。なんだかそれがやけに哀れに見えた梨咲は、情けない気持ちになり、なんとなくサワに見せるのが恥ずかしくて、自分のほうへググッと膝を引っ張り直した。
「おい」
「や、やだ」
涙声で拒否する梨咲に、サワはハァと溜め息を吐いた。すると今度はサワのほうが、自身の顔を梨咲の膝へと寄せてきた。それに梨咲がデジャヴを感じていたのも束の間、なんとサワは、彼女の負った傷に、チロリと舌を這わせ始めた。
「んっ……! な、何?」
「我々の唾液は傷を癒す効果がある。聞いたことはないか?」
「そ、それは……」
あるような、ないような。頭の中で記憶の糸を手繰るも、梨咲は特別吸血鬼伝説に詳しい訳ではなかったので、その辺りの情報は曖昧だった。今はそれよりも、サワが目の前で膝を折り、自身の傷を舐めているという、視覚的な効果のほうが抜群だった。非日常的な感覚に、頭がクラクラとしてきてしまう。
「ん……つかぬことをお聞きするが、貴女はB型か?」
「プ、プロフィールは非公開なの……」
「……さようで」
特に興味なさそうに会話を打ち切ると、サワは最後にもう一舐めし、自分はスッと立ち上がる。どこか呆然としたまま彼を見上げる梨咲に向かい、手を差し伸べてくると、
「立て」
と、促してきた。
「おれたちは確かに少しやりすぎた。ここで蝶野茜と仲違いするのは本意ではない。二人で謝りに行こう」
そんな律儀なことをするために自分を追いかけて来たのかと思うと、梨咲は少しおかしくなった。軽くなった気持ちでその手を取り、立ち上がり際に倒れている男性のほうを見やる。サワの、
「そのうち起きる。放っておけ」
という言葉を信じ、二人で明るい表通りへと戻って行く。
(アカネって……本名「チョウノ」っていうんだ)
サワはこの時、また一つ失態を犯してしまっていたことには、気が付いていなかった。
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