予鈴が鳴る。もう間もなく午後の授業が始まることを知らせるチャイムだ。廊下を行き交う生徒たちは、心なしか歩みを速め、それぞれの教室、もしくは移動教室先へ向かい始めた。立ち止まったままの利駆とオルハを、どこか邪魔そうにちらりと見てくる者もいる。

「話、ある」

 そう告げると、オルハは1年F組の教室とは真逆の方向へ歩き出す。オルハに「もうすぐ授業だから、教室へ帰ろう」という、優等生向けの理屈は通用しない。これまでの付き合いでそれはなんとなく察してはいるものの、だからといって「はいわかりました」とすぐに頷けるほど利駆の頭は柔らかくない。しかし、逡巡したのは殆ど一瞬のことで、結局は彼の後を追った。彼のしたい話というのが、自分にとっても大事な話なのではないかという、直感があったのだ。

 初めて授業をサボることになった利駆が連れられたのは、旧校舎の屋上だった。旧校舎は基本的に授業を行う教室は置かれておらず、各教科の資料置き場になっていたり、部室になっていたりする。そのため、授業中はあまり人気がない。オルハは最初は裏庭のほうに行こうかとも思ったのだが、これからする話の結末次第では、話をした場所があまり近づきたくないところになりかねない。裏庭がそうなってしまうと、寝る場所がなくなってしまう。それはオルハにとって死活問題で、代わりに人が立ち寄らなさそうな場所、と考えた時に、頭の中に浮かんできたのがこの屋上であった。今までここでしてきた話が印象深かったというのも大きいかもしれない。

 いつぞやは、フェンス側にいたのは利駆のほうだった。今はその逆で、オルハがそちらにおり、フェンスに背を預けている。両手を柵に掛けてふんぞり返る態度はいかにも無駄に偉そうだが、何故だかそれが様になっている、と利駆は感じてしまった。彼が人ならざる者だからだろうか……それは、判断がつかないのだけれども。

「ここらでハッキリさせておきたいんだけど」

 顔を俯かせ、目は閉じたまま一言オルハは断る。だが次の言葉を発する際には、所在なさげに立ち尽くす利駆の瞳を捕えんばかりに、視線をスッと真っ直ぐに向けた。

「アンタ、あの派手なののこと、好きは好きなんだろ? さっきは女どもの手前、あぁは言ったけど」

「な、何言ってるんですか?」

 派手なの、と言われ、利駆も今更問うことはしない。オルハが言っているのはまぎれもなく茜のことだ。先ほどの女子生徒たちと似たようなことを言われ、利駆は戸惑いを隠せなかった。違いがあるとすれば、オルハの問いかける声が、女子生徒たちのそれにはなかった真剣みを帯びていることだ。彼はそんなにも、自分と茜のことを誤解しているのだろうか。利駆は微かに失望を覚える。

「違うんです、そんな、そんなんじゃないんです。確かに、小さい頃は好きでした。でもそれは、随分前の話であって、今は、今はそうでは……」

 言い募りながら、利駆の頭の中に過去の出来事が去来する。

 始めは、確かに【茜ちゃん】という一人のお友達として好きだったのかもしれない。けれども、お前は居候だと、蝶野の家に住まわせてもらっている人間だと彼に言われ、その存在は【蝶野の家の茜くん】へと姿が変わり。彼に自分の立場を突きつけられる度に、自分は居候で、彼は居候先の息子さんで、機嫌を損ねてはいけない相手であるのだと認識させられてきて。自分は蝶野家の人に見捨てられたら居場所を無くしてしまう訳で、だから、必死に、茜のご機嫌とりをして。そんな利駆の本心に、茜も気がついていたのかもしれない。いつしか彼は決して温かいとは言えない態度をとるようになり、利駆と茜の間はどこかぎこちない空気が流れるようになった。利駆が茜に向けている感情など、ただ縋っているだけのものに過ぎない。茜が芸能人を目指すと言い出した時も、最初に抱いた感情は、応援したいなどという気持ちではなく、自分だけ置いてけぼりにされてしまうのではないかという、不安でしかなかった。

「わたしは、わたしは最低です。自分のことしか考えていない、酷い人間なんです」

 言葉を吐き出しながら、色んな感情が一気に胸に溢れ出て来て、利駆の両目からはボロボロッ、と大粒の涙が零れ落ちてくる。

「い、や、です、嫌です。茜くんはアイドルです、みんなの茜くんなのはわかっています。本当は近くにいてはいけないんです。それだってわかっています。でも、どんどん変わっていく茜くんを、離れていく茜くんを見ていると、とてつもなく寂しくて、 独り占めしたいって気持ちも本当はあって、でも、それは、男の子として好きって気持ちとは違って、だから……!」

 そこまで一息に言うと、利駆は両手で顔を覆いながら天を仰ぐ。うっ、ううううっ、と、噛み殺しきれない泣き声が口から漏れ出る。

「もう、消えてしまいたい……わたしという存在を、なかったことにしてしまいたい、こんな気持ち、嫌っ……」

 です、という語尾は、徐にオルハが近寄ってきたと同時に掻き消える。涙にまみれた利駆の両目は、その途端に大きく見開かれた。自分の泣き声が、あろうことかオルハの中に吸い込まれてゆく。彼のかさついた唇が、自分のものと重なっていた。最初は、優しめのキス。かすめるように、啄むように、オルハは利駆の唇を奪ってゆく。

「オッ、オルハく……んむっ!」

 次に、第二弾がやってきた。今度は嵐のように降ってくる。

「んぅ……ちぅっ」

  深めの口づけに、二人の間から水音が響く。侵入してくるオルハの舌が歯列をなぞってくるなんとも言えない感覚に、利駆は思わずゾワリとする。

(く、苦しい……です、息が、できなっ……!)

 堪らずオルハの胸をドンドンと叩く利駆に、オルハはしぶしぶといった感じで漸く唇を離してゆく。呼吸を取り戻すかのようにハァハァと大きく息をする利駆の目からは、先ほどまでとは違い静かにポロポロと涙が零れていた。そんな利駆の様子を見つめるオルハの瞳には、確かな劣情が宿っていた。

「んなこと言うな」

 不機嫌そうな表情とは裏腹に、その声の響きは優しさを含んでいた。顔を離したオルハは利駆の両肩を掴み、しっかりと目線を固定して利駆に言い聞かせるように続ける。

「アンタの大好きな二人は、アンタのこと、大切にしてくれてたんだろ? 大事にされてたんだろ? アンタは二人が生きてた証だ、それを否定するのか? 二人がいたことまで、なかったことにしちまいたいのか?」

「うっ、くっ……それは……」

 オルハの言う【二人】が利駆の両親を指すことは、頭が混乱していた利駆にもすぐにわかった。利駆が大好きだと迷いなく言える人間は、あの世に二人しかいない。

「それに前にも言ったろ? オレはアンタのこと忘れない。アンタに頼まれたって、忘れてやらねぇよ」

「お、横暴ですうぅぅ、うー!」

「だから、もう泣くなよ。何のためにキスしたかわかんねえだろ」

「キス……初めてでしたのにー!」

「そっちに泣いてんのか!」

 相変わらず泣き止まない利駆だが、その理由にオルハは軽く脱力する。思わず肩を掴んでいた両腕がだるんと下がる。

「な、泣き止ませるためでしたなんて、ひっ、酷いです」

「……バカヤロ。嫌いなやつにこんなことすっか」

「! ホントですか、嫌いじゃないですか?」

言外に含ませたオルハの想いに気がつかない利駆は、無邪気にそう問いかける。瞳は途端に爛々と輝く。オルハはその質問には答えてやらず、逆に自分が問い返す。

「アンタこそ、嫌だったのか?」

「いえ……いえ! 嫌だなどととんでもない! むしろ……」

「むしろ?」

 オルハは聞き逃さなかったが、利駆にとってそれは、これ以上口にできない、口にしてはいけない言葉だった。口を噤んで俯いて、再びぽろぽろと泣き出す利駆のことを、オルハは溜め息を吐きながら優しく抱き寄せる。

「やっぱ気が変わった」

 利駆の背に腕を回しながら、その頭に、痛くないように顎を置く。

「我慢すんな。泣け、思いっきり。ただし、オレの前でだけ限定な。胸なら、いくらでも貸してやるから」

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